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月の記憶  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第3章 滅びの国
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11:戦意消失

「レティシアっ!!」


 強く名を呼ばれ、レティシアがはっと目を覚ました。見開いた瞳に、最初に映ったのはエレインの巨大化した右手。骨張った指が大きく開き、黒い鉤爪がレティシアの顔に影を落としていた。


「いやっ!」


 反射的に身を捩ると同時に、レティシアを取り巻いていた瘴気が拡散する。悪夢から目覚めたレティシアに、もう瘴気の枷は通用しない。弾け飛び色をなくしていく瘴気の向こうで、エレインが醜く顔を歪めたまま歯軋りをした。


「殺すっ! お前だけは絶対に殺してやる!」


 多くの命を奪ってきた鉤爪でレティシアを指し、エレインが再び腕を振り上げて飛びかかった。


「グワアアァァッ!」


 低音の咆哮と共に、火柱が噴き上がった。渦を巻いて空へ伸びる猛火は二人を隔てる壁の役割を果たすと同時に、エレインの右腕をも焼き尽くした。じゅうっと肉の焦げる音に合わせて、辺り一面に焼け焦げた嫌な臭いが充満する。


「ぎゃああっ!!」


 聖獣の炎によって鋼鉄にも似た腕が焼け爛れ、あまりの激痛にエレインが背を丸めて右腕を抱きかかえた。腕を押さえた左手の隙間から、焼け爛れた肉片がボタボタと剥がれ落ちていく。

 腐臭漂うその塊を容易に避けて駆け上がってくる巨体が見えたかと思うと、もう次の瞬間にはエレインの前からレティシアの体は連れ去られたあとだった。歯軋りでは足りない怒りが下唇をブツリと噛み切った。


「おのれぇぇ!」


 すぐに追いつける距離にいるのに、エレインには手が出せない。聖なる炎にまかれてしまえば、エレインの体など塵も残らず消滅してしまう。

 レティシアは殺すべきだ。ガルフィアスを滅びに導いた力を前に、指を咥えて見ているだけなどエレインにはできなかった。


「殺す! 殺すっ! その女を殺させろぉぉっ!!」


 エレインの絶叫に呼応して、アレスの首筋の模様が赤黒く光を放った。流れ込んでくる恐ろしいまでの殺意と憎悪に意識を押し込まれそうになりながらも、アレスは自身の首筋――赤い蜘蛛の模様を引き裂くように爪を立てて勢いよく引っ掻いた。

 加減を知らないアレスの鋭い爪に散った鮮血に、レティシアが小さく悲鳴を上げて目を見開く。


「アレス!」

「俺の意思を勝手に変えるな」


 アレスの行動に驚いたのはレティシアだけではなかった。強い光を宿すアレスの深緑の瞳に見据えられ、エレインが動揺を隠しきれずに唇を震わせた。


「なぜだ……。なぜお前は……」


 再度操ろうと試みても、もうエレインの術はアレスには効かない。彼の首筋に蠢いていた蜘蛛の模様。それはアレスによって強引に引き千切られ、ただの血の塊へと戻ってしまった。


「認めぬ。……認めぬぞっ! お前は私の傀儡だ!」

「お前は否定してばかりだな」

「何をっ!」

「真実を否定し続けるお前の目には、もう何も映っていないんだろう」


 ぎろりと睥睨へいげいしてくるエレインを一瞥し、アレスが眼下に群がる黒い魔物の群れへと視線を落とした。


「死という事実を否定し、歪んだ生に執着し、自分の欲望のために存在する。それがお前だ。幸せだった時を取り戻す? もっともらしい言い分だが、要はお前が死にたくなかっただけだ」

「違う! 私はあの頃のガルフィアスを取り戻したかった! 関係のない戦いで犠牲になることなどできぬ!」

「だったら下を見ろよ。これがお前の取り戻したかった国の姿か? 民を魔物に変えてまでお前は何を望む? 幸せだった時はもう戻らない。真実から目を背けたお前に、安らぎなど永遠に訪れない」


 地上の魔物が、一斉に泣き喚いたような気がした。蠢く群れの中、幾つも光る赤い目が恨めしげに上空を見上げている。その視線の先にいるのはレティシアか、それとも……。


「お前に何が分かる……。あの死体だらけの暗黒の世界を見たことがあるのか!? 一瞬のうちにすべてを失ったことは?」


 焼け爛れていないもう片方の腕を伸ばし、その黒光りする鉤爪でレティシアを指差した。


「許せぬ。多くの命を弄んだその女だけは許すことができぬ! 私にはその女を殺す権利があるのだ!」


 剥き出しの憎悪を向けられ、レティシアが悲しげに目を伏せた。ガルフィアスを滅ぼしたのがレティシア本人でなくても、その力を宿すものとして胸が痛いほどに締め付けられる。

 人の運命をこんなにも狂わせてしまうもの。結晶石は、決してこの世にあってはならないものだ。


「権利? 笑わせるな」


 俯き、暗くなりかけたレティシアの鼓膜を、アレスの怒りを抑えた低い声音が震わせた。思わず体を震わせて後ろを見やれば、思慮深い深緑の瞳が凍えるほどの冷たい光を宿している。


「それでは、罪なき人間たちを喰らう権利がお前にはあるのか?」


 エレインの視界に、罅が入ったような気がした。はっと息を呑み、言葉に詰まる。反論しようと動かした唇は痙攣するだけで、エレインはその答えを持っていないことに愕然とした。

 生き抜いて、生き抜いて。魔物に身を堕としてまで命を繋ぎ求めたものが、がらがらと音を立てて崩れていく。


「お前のしてきたことは、結晶石と何ら変わらない」

「……結晶石と……私が、同じ……?」

「お前は……っ」


 更に追い打ちをかけようとしたアレスの口を、レティシアが慌てて塞いでいた。何事かとアレスが目を丸くするのは当然で、そんなアレスにレティシアは緩く首を振って「もう何も言わないで」と青い瞳を切なげに揺らしている。

 エレインは既に戦意を失いつつあった。両腕をだらりと垂らし、レティシアを睥睨へいげいしていた瞳にもう覇気はない。


「エレイン。あなたの思いがすべて間違っていたとは言いません。犠牲になったあなたたちの怒りや憎しみは、間違いなく結晶石が受け止めるもの。私はこの国のことを、あなたたちのことを決して忘れません」

「……」

「だから……どうか、あなたも真実を受け止めて下さい。否定し続けるあまり、この国に唯一残っていた真実まで見失わないで」


 項垂れていたエレインの顔が僅かに動いた。曇りまなこに映るのは、地上で心配そうにこちらを見上げるひとりの女――レイナがいた。


「……ナ」


 どんな姿になっても、エレインと一緒にいてくれたレイナ。優しかった昔の姉を望みながら、それでも変わり果てたエレインを見捨てずにいてくれたレイナ。エレインの唯一の肉親。大切だったはずの、妹。


「私は……何のためにっ、いままで……。ただっ、ただ……あの日々が戻るのを信じて……。人間を喰った! 忌々しい姿を受け入れた! それでも幸せだった日々を取り戻せるのなら……良かった……はず、なのに……なぜ……こんなにも苦しいのだ」


 ガルフィアスを守れなかった思い。女王であるがゆえにその思いだけが強く残り、エレインは時の狭間で留まることができた。けれど長い年月を経て思いは歪み、残ったのは「死」に対する恐怖だけ。喰わなければ死んでしまう。せっかく再建したガルフィアスが消えてしまう。もっと、もっと人を喰わなければ。

 そうして出来上がった偽りのガルフィアスに、たったひとつだけ変わらずにある光。それがレイナだった。


「……私の望んだガルフィアスは……ここではなかったというのか」


 エレインの体から、がくりと力が抜け落ちる。すべてを知り、それを認めたエレインの居場所は、もうここにはない。


「わ、私は……」


 両腕をだらりと垂らし、うつろな目で虚空を見つめたエレインの真下に、黒い影が集まりはじめた。地上に蠢いていた魔物たちも引き寄せられるように集結し、それは粘土のように纏まり、歪んで、膨張をはじめる。

 ぼこぼこと奇妙に捏ね回された魔物の集合体。それが突然、上空のエレインめがけて伸び上がった。エレインの背を覆って広がる魔物の影が、戦意を消失した体を乗っ取ろうと腕に腰に絡みつく。


『何も考えルな。我々ハ、コこデ生キ続ケる。コノ国を守ル為ニ、人間ヲ喰ラう。今マでソウシてきたヨうニ、コレカらモ、ソレハ変ワる事ハナイ』

「もう、いい。私の守りたかったガルフィアスは……こんなものではなかった」


 背中に張り付いた魔物の言葉を否定して、エレインが力なく首を横に振った。


『闇ニ取リ込マれ、死ヲ迎エても良イト言ウノか? 二度トこの世ニハ戻レず、人間ノ血肉ヲ味わう事もデキヌ死ヲ……オ前ハ受ケ入レルのカ?』


 その言葉に、レティシアがはっと目を見開いた。

 エレインの欲望があってこそ、この時の狭間に存在することのできたガルフィアスの住民たち。その欲望が消え、エレイン自身も無を望むのなら、彼らも同じように死の世界へ帰ることとなる。

 エレインの欲望のためだけに一度は生き返った者たちが、再びエレインの一言で死のうとしていた。歪んだ生を与えられた彼らにあるのは、ただ生き続けることだけ。

 微妙に保たれてきた二つの感情が、ここで狂い始める。


「いけない! 生への欲望だけで存在していた住民たちの魂が悪霊化しています! このままではエレインが」


 叫んだレティシアの目の前で、エレインの体にしがみ付いていた魔物の影がずるりと彼女の中へと滑り込んだ。


『イヤダッ! モう二度ト、アノ暗闇ヘ戻リたクない! 我々ハ生、きる。もっと人間を喰って生きる!」


 幾重にもなった魔物の声が、エレインのそれと入れ替わる。一度瞼を伏せ、再び開いたエレインの瞳は黒目に赤い瞳孔の走るおぞましい色をしていた。





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