09:攻防戦
「邪魔をしに来たな、破壊神が!」
「ひ弱なふりをしても騙されぬぞ」
半分溶けたエレインの顔と、折れたまま胸元にぶら下がっている頭のどちらからも同じ声がした。鋭く睨む視線に、昂ぶる声音に、レティシアに対する激しい怒りが込められている。
――否。レティシアと言うよりは、彼女の内に宿された月の結晶石に対してだ。自分たちを滅ぼしたものと同じ波動を、エレインはレティシアの中に感じている。
「エレイン、どうか話を聞いて下さい。私はあなたを救いたいの」
「救うだと? おかしな話だ。私たちを葬ったその力で、今度は救うと言うのか? どこまで馬鹿にすれば気が済むのだ」
「落ち着いて、エレイン。このままでは魂すら闇に堕ちてしまうわ。まだあなたの意識があるうちに」
「私を救う方法はただひとつ」
レティシアの言葉を遮って、エレインが笑うように口角を歪めた。
「それはお前が贄になることだ!」
エレインの腹で蠢いていた六本の触手が、一斉にレティシアめがけて襲いかかった。細い体のどこに収められていたのか数倍の長さにまで伸びた触手は、距離を取っていたレティシアの場所まで難なく到達してもまだ余りある。たっぷりと撓り、勢いをつけて刺突した触手の先端だったが、それはレティシアに触れる前に彼女の周囲を守る結界によって弾き飛ばされてしまった。
眉を寄せ、細めたエレインの瞳に、薄い光の膜が映る。
「結界か。しかし、何とも脆弱な防御だな」
エレインの言葉通り、レティシアを守る結界が触手の激突によって細い罅を走らせている。体中に包帯を巻いたレティシアの姿のように、彼女を守る結界は脆く、もう一撃加えるだけで無効化できることは見て明らかだ。弾かれた触手がエレインの意図を汲み取り、シュルシュルと互いに絡み合い一本の槍のように形を変える。
「罅だらけの結界など、粉々に砕いてくれる!」
儚く甲高い音をたてて、レティシアを守る結界が粉々に砕け散った。レティシアの柔な体を貫く感触を想像して、エレインの顔が愉悦に歪む。けれどもその歪な笑みが長く続くことはなかった。
絡まり合うことで強さを増したはずの触手が、その太い先端を突如現れた小さな光の球によって粉々に砕かれたのだ。驚くエレインの血に濡れた双眸が、レティシアの肩に止まる一羽の小さな光の鳥を見て憎らしげに釣り上がった。
手のひらに乗るくらいの大きさしかないくせに、六本に絡まった触手の先端をいとも簡単に粉砕してみせる。負傷した触手を腹の中に戻しながら、エレインは耐えきれぬ怒りを血の涙に変えてレティシアを睥睨した。
「足掻き続けるのか……。私たちには、その余地すら与えなかったお前がっ!」
湧き上がる怒りに震え、エレインの胸元で、もうひとつの頭が鎌首をもたげた。
「許さぬ! その四肢を引き裂き、分別の付かぬ肉片にしてもまだ足りぬわ!」
止まることのない憎悪の念を断ち切るかの如く、レティシアの肩から光の鳥が飛び立った。高い声を響かせながらエレインに向かって一直線に飛ぶ光の鳥は、その見た目に反してエレインの触手を粉々にするほどの力を持つ。エレインに対しても、触手ほどはいかないまでも多少の傷は負わせられるはずだと、レティシアが僅かな期待を込めて光の軌跡を祈るように追った。
「効かぬっ!」
けれどもレティシアの望みをはね除けたエレインの腕が、光の鳥を容赦なく弾き飛ばした。キィッと短い悲鳴を上げて吹き飛んだ鳥が、逆走する流星のように青空に光の軌跡を描いて消えていく。
「そんな……っ」
絶望と驚愕に満ちた青い瞳を見開いて、レティシアが鳥の消えた空を仰ぎ見た瞬間――耳を劈く雷鳴の如き轟音が辺り一面に響き渡った。
地震のような揺れは大地ではなく上空を揺るがし、光の鳥が弾き飛ばされた方角の青空には太い亀裂が今も鈍い音を響かせながら放射状に広がっている。
レティシアの視界に、降り注ぐ光の粒が見えた。天気雨かと思われたそれは小さな破片で、空を切り取ったかのように青い色をしていた。
破片のひとつを手のひらに受け止めて、レティシアが再度上空を仰ぎ見る。放射状に広がった罅が剥がれ落ち、青空の中にぽっかりと黒い穴が開いていた。穴の向こうに見えるのは――夜空に浮かぶ白い満月。
「空間の壁が破れたか」
降り注ぐ青空の破片の中、エレインが忌々しげに舌打ちする。
晴れ渡る青空の一角。崩れ落ちたその部分だけが夜に塗り替えられ、切り取られた漆黒が月光に淡く照らし出されている。その満月の光を遮った黒い影にレティシアがはっと息を呑むと、思考を読み取ったのかエレインがふんっと嘲るように鼻で笑った。
「あれは……」
「飛竜を呼んでも無駄だ。空が割れても、この国を覆う結界は消えやしない。飛竜にはこちら側など見えぬ」
僅かな期待をあっけなく否定され、レティシアの顔に落胆の色が滲む。魔が嫌う聖獣、飛竜さえこちらへ呼べたのなら、この歪んだ国も住民も一気に浄化できたに違いない。けれども飛竜を呼ぶ術をレティシアは知らないし、エレインの言うように結界がまだあるのなら叫んだ所でレティシアの声は飛竜には届かないだろう。やはりエレインの力を無効化することしか手はないと、レティシアが再び魔力を練り上げて光の鳥を召喚した。
「ならば私があなたを止めます」
「止めるだと? お前ごときに私が止められるとでも?」
「話を聞いて貰えるくらいには、動きを止めてみせます」
「ぬるいわ!」
間髪入れずに叫んだエレインの胸元で、もうひとつの顔が裂けんばかりに大きく口を開いた。
「私たちの怒りは収まらぬ。無念は消えぬ。止めるというならこの国の怨嗟を受け止めてみせよ!」
猛り狂うエレインの口から、漆黒の瘴気が溢れ出す。二人のエレインから吐き出された瘴気は瞬く間に周囲を覆い、無数の手へと形を変えながらレティシアの体へ縋るようにしがみ付いた。
大人の手も、子供の手も、老人の手も。そのどれもが救いを求めてレティシアの腕を、服の裾を、髪の毛を掴んで離さない。瘴気の触れた場所から流れ込む数多もの無念の声に、レティシアの意識が昏く澱んでいく。
死を恐れる声。親を求め泣き叫ぶ声。理不尽に奪われた生に怒り狂う声と共に、より強く響く、結晶石を呪う声。死にたくないと嘆き、許さないと怒り、助けてくれと縋る声の洪水に、ついにレティシアが耐えきれずに悲鳴を上げた。
「レティシア!」
地上で魔物と化した住人たちを相手にしていたロッドが空を見上げると、贄を貪り合うように蠢く瘴気の中、レティシアの白い腕が引きずり込まれていくのが見える。
瘴気を吐き出すエレインを止めようにも手が届かず、割れた上空から飛竜を呼ぶことも出来ない。何とかしようと焦るも、群がり来る魔物たちがロッドから思考する時間すらも奪っていく。そうしている間にも、レティシアを飲み込んだ瘴気は更に黒く大きく膨張していった。
「あぁぁぁ、ヤバい、ヤバいぞ! このままじゃレティシアが」
「ロッド、私が姉を止めに行きます。その間アレスを拘束する術は解けてしまうので、彼と住民たちの相手をお願いできますか」
「えぇっ?! 魔物にアレスって……冗談キツいぞ!」
「でも急がないとレティシアが……!」
ライオンの姿になっていても、エレインが浮いている場所までは跳躍しても無理だ。ならば選択肢はひとつしかない。レイナが言うように、彼女がエレインを止めに行くしかないのだ。
操られたアレスと魔物の群れにどれだけ対抗できるかは分からないが、レティシアもレイナも諦めずに足掻いているなら、ロッドも弱音を吐いている場合ではない。
「わかっ……」
「俺を解放しろ」
意を決して首肯するロッドの声をかき消すように、強く確かなアレスの声がした。拘束の魔法陣の中、膝を付いて蹲っていたアレスが、本来の色を取り戻した深緑の瞳でロッドを鋭く見つめていた。
「アレス? お前、意識が戻ったのか!」
「俺を操る暇がないらしい。今なら奴の意識がレティシアに向いている」
「レイナ! レイナ、アレスの術を解いてくれ!」
深緑の瞳には、確かにエレインの術の気配は感じられない。けれどもアレスの首に未だ残る赤い蜘蛛の印が、レイナの判断を鈍らせた。
「ですが、彼にはまだ姉の術が残っています。結界を解いても、再び操られてしまえば、私たちに勝機はありません」
「一瞬だ」
レイナを見つめた深緑の瞳が、その視線をはるか上空――ぽっかりと空いている夜空の向こうへ投げかける。
「一瞬で状況を変える。変えてみせる!」
「……分かりました。けれど少しでも不穏な動きを見せたら、その時はすぐに動きを封じます」
「いいぜ」
もう操られるものかと強く頷いて、アレスが自信たっぷりに余裕の笑みを浮かべた。




