06:淡く色づく
地下牢の壁から抜け出た先は、地層が剥き出しになった古いトンネルの中だった。当時は石垣で補強していたのだろう。風化し、剥がれ落ちた石の一部が、地面に散らばっている。振り返ればレイナの施した術の抜け道は消えており、先の見えない陰鬱な闇が広がっていた。
「アレス、こっちが出口だ。急ごう!」
いつの間に変身したのか、ロッドが白いライオンの姿で身を低く屈めている。乗れという合図を察して背後を振り返ると、レティシアが緩く首を横に振ってアレスの意図をやんわりと断った。
「私は平気ですから」
「足場が悪い上に、すぐ追っ手がかかるぞ。いいから来い」
「でもアレス……怪我を……」
レティシアの視線が移ったのを感じて、アレスがさっと首筋を左手で覆い隠した。手のひらの下で、血に濡れた傷口が鈍く痛む。エレインに噛み付かれた事を思い出し、意図せずアレスの眉間に不快な皺が刻まれた。
それを自身の言葉のせいだと勘違いしたレティシアが、少し怯えたように後ずさる。その様子にすら僅かな苛立ちを覚えてしまったアレスは、なかなか動こうとしないレティシアの体を攫って、半ば強引にロッドの背中に飛び乗った。
腕の中で短い悲鳴が聞こえたが、あえて無視する。左腕にレティシアを抱き支え、右手でロッドの長い鬣を鷲掴みにすれば、下の方から「あいた!」と喚く声が聞こえた。
「アレスは容赦ないな……」
「何か言ったか?」
「別に! 悪いけど急ぐから結構揺れるぞ。振り落とされないように、しっかり掴まっててくれよ」
返事も待たずに駆け出したロッドが、早速足元の岩をひょいっと飛び越える。その衝撃に準備の出来ていなかったレティシアの体が大きく揺らぎ、まるで小石のように小さく跳ねた。
「きゃっ!」
振り落とされる恐怖に思わず手近な何かにしがみ付くと、息を呑む音と共にレティシアの額が熱い肌にぴったりと触れた。反射的に目を開くと、明るい茶色の髪が視界を掠めていく。僅かに顔を上げると、雨に濡れた森のように濃い深緑の瞳と視線がぶつかり、レティシアはそこで初めて自分がアレスの首筋に腕を回してしがみ付いていた事を知った。
「……っ!」
声にならない恥ずかしさが募り、レティシアの顔が一気に朱に染まる。羞恥に体温が上がり、居心地の悪さから視線を泳がせれば、揺れる視界の隅に少しだけ口角を上げたアレスの顔が映った。
「もっと強くしがみ付いてもいいんだぞ」
少しだけ意地の悪い笑みは、まるでこうなることが分かっていたかのようだ。加えて勝ち誇ったように言われれば、レティシアも大人しくしがみ付いたままではいられない。子供じみた反抗心が芽生えてしまい、小さな唇がむっと尖る。
「結構です!」
ふいっと顔を逸らして、アレスの首から腕を解く。そのタイミングでロッドがカーブを大きく右に曲がり、今度こそレティシアは背中から弾き飛ばされそうになってしまった。
「きゃあっ!」
「馬鹿がっ!」
背骨が折れるのではないかと思うほどに強く抱き寄せられ、二人の体が先程よりも更にぴったりと密着する。アレスの胸元に顔を押し付ける形になり、レティシアの体温がまた上がった。と同時に少し早いアレスの鼓動が触れた箇所から直に伝わり、それは意図せずレティシアにも伝染する。
動揺し、焦ったのはレティシアだけではない。物言わぬ鼓動がそう告げているようで、レティシアの頬がまた違った意味合いに淡く染まった。
「意地を張って落ちるつもりか。しっかり掴まってろ」
言葉は無愛想で、けれど声音はほんの少しだけ柔らかい。胸の奥に灯った僅かな熱がこそばゆくて身じろぎしたものの、レティシアはもうアレスにしがみ付いた手を離すことはなかった。
「……意地悪」
代わりにぽつりと声を漏らせば、背中を抱く腕に力が増す。
「意地悪で結構」
その言葉と反するように、またアレスの鼓動が柔らかい音を鳴らした。
***
秘密の通路から抜け出した先は、古い小屋の地下室だった。外に出るとレティシアが目を覚ました丘の麓で、城下町を挟んだ先にアレスが捕らわれていた白亜の城が見える。
まだ逃げ出したことに気付かれていないのか、辺りを包む空気は先程と変わらず穏やかだ。けれど用心するに越したことはないと、レティシアがひとり丘を登り始める。
「周りの様子を見てきます」
「えっ? ひとりで……」
「俺も行こう」
驚くロッドの言葉を遮ってアレスが短く答えると、レティシアの体が不自然なくらいにびくりと震えた。
「何だ? 俺が一緒だと都合が悪いのか?」
「い、いえ……そうではなくて、その……少し、気持ちを落ち着かせたくて……」
アレスを一向に見ようとしないレティシアは、ほんのりと頬を染めたまま俯いている。その様子に何かを察したロッドが、ライオンの姿のままやけに人間らしい笑みを浮かべてアレスを見上げた。
「アレス。お前、人の背中の上でレティシアに何したんだよ」
「はぁ?」
予想だにしない言葉に素っ頓狂な声が出てしまい、その僅かに怒気を孕んだような低い声音にレティシアがくるりと身を翻した。
「私、行きますね! 二人はそこで休んでて下さいっ」
半ば叫ぶように言って、レティシアが丘を駆け上がっていく。それでも走るスピードは遅く、途中で躓いたりするものだからなかなか距離が開かない。頼りなげな後ろ姿を唖然と見つめていたアレスだったが、レティシアをひとりにするわけにもいかず、白い後ろ姿が丘の上に消えてしまう前にと慌てて後を追う。
途中ロッドが何か言った気がしたが、どうせろくでもないことだろうと敢えて無視して先を急いだ。
「きゃっ!」
丘を登ったその先で、レティシアが数回目の躓きに足を取られて見事に転んでいた。
「何もないところで転ぶなんて、ある意味器用だな」
目の前に差し出された手を取ろうかどうか迷っている間に、腕を掴まれて引き起こされる。立ち上がった勢いを止めることが出来ず、アレスの胸元に飛び込む形となったレティシアが慌てて数歩後退した。その拍子にまた足を取られてしまい、今度は腰まで支えられ、完全に逃げ場を失ってしまう。
「さっきから何なんだ、お前は。おかしいぞ」
「そっ……それは、アレスが……いえっ、何でも……ありません」
「言いかけて止めるな。俺が何だ?」
腕と腰を掴まれたまま、見つめられる。その距離の近さに耐えきれず顔を逸らせば、レティシアの鼓膜をアレスの溜息が静かに揺らした。
「別に怒っているわけじゃない。アーヴァンまで先は長いし、この先も何が起こるか分からない。その中でお前を守るためには、お前を知っておく必要があるだけだ。お前もそうだろう? 信頼を築くには時間が足りていないが、最低限の不信感は取り除いておきたい」
そう真摯に告げられれば、応えないのは不誠実のようで。けれどこんな低俗な思いを口にしていいものかどうか悩み、戸惑い、焦りながらレティシアはそっとアレスを窺い見る。
真っ直ぐに向けられた深緑色の瞳は静かにレティシアの言葉を待っていて、その強い光にはどんな誤魔化しも効かないような気がした。
「あの……私、その……恥ずかしく、て……」
「……は?」
「天界では、年の近い男性と言ったら兄しかいなかったので……あの、アレスと距離が近いと……落ち着かなくて。どうしたらいいか、分からないんです。ロッドの背中に乗った時も恥ずかしかったのに、あんなこと……言うから。だから、ちょっとひとりになって落ち着こうと」
「分かった。分かったから、もう言うな」
「アレスが言えと言ったんじゃないですか!」
追求したくせにやめろと言う。恥ずかしいのを我慢して口に出したと言うのにあんまりだと、レティシアが抗議の声を上げてアレスを睨み上げた。その青い瞳が僅かに頬を染めて顔を逸らすアレスを映した瞬間、一度は収まっていた羞恥の熱が再燃し、レティシアの喉が一気に干上がった。
「悪かった」
レティシアから手を離し、片手で顔を覆ったアレスが呻くように呟く。
「俺も少し度が過ぎた。気をつける」
魔物の巣くうこの異界で離ればなれになり、身を案じていたレティシアは幸い傷ひとつなく無事だった。その姿を確認した時の、気の抜けるような安堵感は未だアレスの胸に残っている。
無事に再会出来た喜びに、自分を見失うくらいはしゃいでいたことを暗に告げられたような気がして、アレスは居たたまれない気持ちになってしまう。制御できない頬の紅潮を見られたくなくて顔を背ければ、背後で微かに息を呑む音がした。
「アレス……その、ごめんなさい」
「お前が謝ることじゃない。……ロッドの所へ戻ろう」
気持ちがすれ違っている事は何となく理解出来た。けれど今のアレスに、振り向く余裕はない。
だから差し出した右手を掠めたレティシアの指先に、異変を感じ取るのが一瞬遅れてしまったのだ。




