03:異界へ
今夜は満月だというのに、『帰らずの森』はその恩恵を少しも与ってはいなかった。
鬱蒼とした森の中。空をも覆い隠す木々の隙間から、時々黒い鳥が羽ばたいていく。人間の悲鳴に似たけたたましい鳴き声は、ただでさえ不気味な森を更に恐ろしげな場所へと変えていくようだった。
「アレス。ロッドは本当にこんな森へ……?」
「分からないが、あんまり長居はしたくない森だな」
奥へ進む度に濃くなる闇と共に、かすかな臭いが鼻を突く。傍らのレティシアも眉を寄せ、口元を手で覆いながら周囲を不審そうに見回していた。
「この臭いは何でしょうか。少し……気持ち悪いですね」
天界を出た事もなければ、限られた部屋でしか生活したことのなかったレティシアにとって、この吐き気をもよおす臭いは初めての経験だ。そんな彼女にわざわざ臭いの正体を教えてやる必要はないと、アレスは返答を避けて森の奥へと進んでいった。
帰らずの森を覆う臭気は、腐臭だ。
普通の人間より嗅覚の鋭い獣人であるロッドが、この臭いに耐えられるはずはない。そう思った矢先、闇の奥から歩いてくる人の気配がした。
「あれ、この匂いアレスか?」
ロッドの声に、アレスとレティシアがほっと安堵の息を吐いた。
「まったく人騒がせな奴だ。勝手に飛び出していくな」
「探しに来てくれたのか? ごめんなー。セリカだと思ったら体が動いてた。……って言うか、二人ともそこにいるよな?」
「お前こそどこにいるんだ。声しか聞こえないぞ」
言葉通り、アレスの前には闇しかない。その奥からロッドの声は聞こえるものの、一向に姿を現さないロッドにレティシアの表情が再び不安の色に染まっていく。
「おかしいなぁ。気配はすぐ近くに感じるんだけど、霧が邪魔して視界が悪い」
「霧だと? 待て、こっちに霧は出てないぞ」
「そんなはずないだろー。結構深いぞ、この霧。指先すら見えないし」
「……その霧って、もしかしてあの人が言っていた……」
レティシアの言葉を耳にするなり、アレスが慌てたように前方の暗がりへと駆け込んだ。けれど行けども行けども、霧はおろかロッドの姿すら見当たらない。
「ロッド! 早く戻れっ」
「これでも頑張って前に進んでるんだぞ。でも全然前が見えなくって……」
「いいから急げ! 取り込まれるぞ!!」
「ちょっと待ってくれ。何か足に絡みつい……うわっ! 何だこれ?! 離せっ! はな……うわぁぁぁっ!!」
「ロッド!!」
闇に木霊する声が空気を震わせて消えていく。かすかに感じていた気配すら完全に消失し、アレスの呼びかけに答えていたロッドの声はもう帰っては来なかった。
「アレス!!」
緊迫したレティシアの声に振り返ると、いつの間にか周囲に濃い霧が立ちこめていた。濃度を増す腐臭と共に、霧の中から人の形を模した黒い靄の塊が現れる。ひとり、ふたりと数を増す靄の人影はアレスたちの周囲をぴったりと隙間なく囲むと、徐々にその距離を詰め始めた。
「……アレス」
「大丈夫だ。絶対に俺から離れるな」
怯えるレティシアの体を左腕に引き寄せて、アレスが右手に剣を握りしめる。腕の中のレティシアが縋るように胸元をきゅっと握りしめた瞬間、アレスはひとつの影を狙って真横に薙ぎ払った。
形を保てず霧散した靄の隙間を一気に駆け抜け、アレスはレティシアの手を引いたまま一目散に来た道を戻っていく。背後に迫る呻き声を振り返ることもなく、ただ出口に向かってひたすらに走るアレスの視界からふっと霧が晴れた気がした。
ほっとしたその一瞬。
アレスの耳朶を掠めるように、熱い吐息が吹きかけられた。
――来たれ。我らが生け贄よ。
体の内側を撫で上げるような気持ちの悪い声が鼓膜を震わせ、思わず立ち止まったアレスの足首にひやりとした何かが絡みつく。
背後でレティシアの短い悲鳴が聞こえ、慌てて引き寄せた体を守るように両腕に閉じ込める。腕の中のレティシアがアレスの名を呼んだ瞬間、二人の体は再び漂い始めた霧によって完全にかき消されてしまった。
――我らと共にあれ。終わりなきこの世界で、我らと共にあれ。
***
頬を撫でる風に目を覚ました。
ゆっくりと開いた視界に、どこまでも晴れ渡る気持ちの良い青空が映り込んだ。
雲ひとつない、澄んだ青空。視線を少しずらすと、顔の真横に小さな草花が風に揺れているのが見える。不意に響き渡った何かの声に再び視線を上げると、一羽の鳥が青い空を滑るようにして飛んでいた。
その黒い影を龍神界で見た飛竜と重ねて、ぼんやりとしていた意識がはっと我に返る。
「……っ!」
勢いよく飛び起きた拍子に、頭に巻いていた紺色のショールが風に流されて飛んでいく。レティシアの指先をすり抜けて舞うショールは、柔らかく空気を含んで揺蕩いながら丘の下の方まで流されてしまった。
風に揺れる銀髪を手で押さえ、レティシアは眼下で翻弄されるショールを追っていた視線を周囲へ移してみた。
レティシアが倒れていたのは新緑の草花揺れる小高い丘の上だ。丘の下には壊れかけた小屋がひとつ。その向こう側に見えたのは城下町と、小規模ながらも荘厳な佇まいで聳え立つ白亜の城。空の青とのコントラストが美しく、周りを囲む自然の緑も相まって、まるで絵本の中から飛び出したような風景が目の前にあった。
「ここは……アレス?」
周囲を見渡してみても、アレスの姿はどこにもない。さわさわと草花を揺らす丘の上に、レティシアだけが座り込んでいる。
清々しい風も澄み切った空も、眼下に広がる小さな街も、本来ならここにあるべき風景ではない。レティシアは暗く不気味な「帰らずの森」で、濃い霧に飲まれたはずだ。レティシアの体には、未だアレスの腕の強い力の感触が残っている。
「アレスを探さなければ……」
そう自分に言い聞かせるように呟いて、レティシアは両足にぐっと力を入れて立ち上がった。その背後で、かさり――と草を踏む音がする。
アレスかと思い振り返った先に、黒いフードを被った一人の女が立っていた。
「お連れ様とはぐれたのね」
目深に被ったフードのせいで目元は見えないが、代わりに真っ赤に染まった唇が弧を描いて笑顔を作る。すっと右手を上げた女が指差した方角へ顔を向けると、白亜の城が目に入った。
「彼ならあの城へいるわ」
「アレスを知っているのですか? 彼は無事でしょうか」
「心配なら、私が連れて行ってあげる」
そう言うや否や女に腕を掴まれ、レティシアの体がぎくんと大きく震えた。
女の手が、異常なほどに冷たい。掴まれた手首から急速に熱が奪われ、無意識に振り払おうとしたレティシアの体が、女によって強引に引き寄せられた。
「あ、あの……」
「城へ行きましょう。さぁ、早く」
女性とは思えないほどの力で腕を引かれ、レティシアの体は半ば引き摺られるようにして丘を下っていく。その強引さ、その手の冷たさに異常を感じ、丘の中腹ほどまで降りたところで、レティシアが渾身の力を込めて女の腕を振り払った。
ぴたりと止まった女から、逃げるように後退する。
「ごめんなさい。でも、少し待って……」
「逃がさないよ」
「え……?」
「お前はもう、ここから逃げられない。私たちの贄となるのだから」
ゆっくりと振り返った女のフードが風に煽られ、隠されていた顔が太陽の下に曝される。獲物を狙う双眸は赤く煌めき、その眼球は爬虫類と同じく縦に細長い瞳孔でレティシアをじっとりと見つめていた。
「……っ!」
蛇に似た眼は邪視の類いなのか、ひと睨みだけでレティシアの体から自由を奪う。舌舐めずりした赤い唇の奥で不揃いな歯がギリギリと音を立て、白い首筋にまで血の混ざった涎が伝い落ちていく。
「あ、あなた一体……」
「それを知って何になる。どのみちお前はただの肉だ」
にぃっと唇を引いて悍ましく笑った女が、黒い爪の生えた手をレティシアへと伸ばした。動けないレティシアの頬を、慈しむように黒い爪先が撫で下ろす。かすかに触れた箇所からぞわりと鳥肌が立ち、恐怖に思わず目を瞑ったその瞬間。
「レティシアっ!!」
聞き覚えのある声に、レティシアの体がびくんと震えた。その拍子に体を拘束していた金縛りが解け、レティシアは声のする方へ縋るように手を伸ばして身を翻した。
「アレスっ!?」
振り返った瞬間に視界と体が大きく揺れ、状況を把握する間もなく風を切る音の合間に声がする。
「アレスじゃなくて悪かったな」
「ロッドっ?!」
「辛いかもしれないけど、しっかり捕まっててくれ!」
気付けばライオンの背に乗せられており、少し離れた場所で女が悔しげにこちらを睨んでいる。
上手く背に乗れない自分を思い出し一瞬躊躇したものの、この状況ではそうも言ってはいられない。ぐっと唇を引き結んで体勢を整えたレティシアは、言われた通りずり落ちないよう、今度はしっかりとロッドの長い鬣を強く握りしめた。




