14:エピローグ
パチパチと、暖炉の炎が優しい色に揺れている。
ブランケットに包まれて小さな寝息を立てているのは茶色の髪をした一人の少女だ。彼女の青い瞳は瞼に覆われ、今は深い眠りに落ちている。
時刻はまだ夕方だ。それでも冬の夜は早く訪れ、窓の外には既に宵闇が漂い始めている。
もう少ししたらアレスも帰ってくるだろう。夕飯に作っておいたスープを温め直していると、いいタイミングで家の扉が開く音がした。
冷たい空気が家の温度を一気に下げる。それでも寒いのは一瞬で、無事に帰宅したアレスの姿を見るだけで心がふわりと温かくなった。
「おかえりなさい、アレス」
「ただいま。これ、ロッドが土産に持たせてくれた」
アレスの両手には野菜や果物が大量に詰め込まれた袋が握られている。そのうちの一つを受け取ろうとすると、アレスはわずかに首を振ってレティシアの手をやんわりと断った。
「大丈夫だ。重いものは体に障るだろう」
レティシアのお腹の中には、二人目の子が宿っている。安定期に入っても無事に生まれるまではと、アレスはずっとレティシアを大事に労わってくれている。それは一人目の子を授かった時からそうだ。
その一人目の子がソファーの上で身じろぎしたかと思うと、ゆっくりと目を覚まして起き上がった。青い瞳がアレスを捉えると、眠っていたとは思えない速さで駆け寄ってくる。
「お父さん、お帰りなさい!」
「ただいま、リシュレナ。いい子にしてたか?」
野菜の入った麻袋を床に置いて、アレスは自身の足にしがみついた娘のリシュレナを軽々と抱き上げた。
「お母さんに本を読んでもらったの」
「またあの話をか? 本当に好きなんだな」
「うん! だってレナと同じ名前の人が出てくるもん。大活躍して世界を救うんだよ。いつかレナも世界を救う魔法使いになるんだ!」
ソファーの上にはレティシアがリシュレナに読み聞かせていた一冊の本が置いてある。「月の記憶」とタイトルのついたそれは、時間魔法で世界を救った白魔導士リシュレナを主人公にした子供向けの絵本だ。何気なく開いてみると、純白の法衣を纏ったリシュレナの絵と共に、時間魔法で過去へ行く場面が描かれていた。
これはアレスたちが未来から戻ってきた時に持っていた本の内容を、簡単な物語にしたものだ。登場人物でもあるアレスとレティシアは、わざと違う姿に描かれている。
懐かしいと思う気持ちは未だ湧き上がってはこないが、この内容は自分たちにとってとても大事な人生の一部であることは理解している。だから初めての子であるリシュレナの名もここから名付けたのだった。
「魔法使いを目指すのは構わないが、お前が世界を救う事態にならないことを祈るよ」
リシュレナを床に降ろすと、アレスはその頭を優しく撫でて、再び野菜の入った麻袋を持ち上げた。
「さぁ、リシュレナ。世界を救う前に、まずは母さんを助けてやろうか。そうしないと、今夜の夕飯は野菜スープだけになってしまうぞ」
「アレス! それはあんまりです。ちゃんとサラダも作りました!」
ずっと深窓の姫だったレティシアは、当然ながら料理など一度も作ったことがない。結婚してからは皆に習って簡単なものは作れるようになったが、それでもアレスには未だ敵わないのが現状だ。今日だってメインの肉料理を焦がしたので、実はロゼッタが代わりに作ったものを用意している。
そんなレティシアのことをよく知り尽くしたうえで、アレスは時々こうしてからかってくるのだ。それが恥ずかしくもあり、同時に飾らない二人でいられる実感もする。
この大切でかけがえのない時間。
愛おしい人たちがそばで笑ってくれる幸せ。
当たり前の、だけど手にすることが難しかった日常を生きていられるのは、あの絵本に描かれている皆のおかげだ。
レティシアたちにその記憶はもうないけれど、代わりに文字としてこの世界に残されていく。その思いは、本を読んだ子らに確かに受け継がれてゆくのだ。
思いは、願いは消えない。
人に、あるいは本に、そして今も変わらず静かに昇る月にも残る。
それは、記憶だ。
これから先も永遠に続く未来の世界は、きっと夜空に輝く月だけが知っている。