11:それぞれの生きる場所へ
アレスの時間を元に戻すということで、レティシアたちが神殿前の広場に集められたのは、まだ空も明け切らぬ早朝の時間帯だった。当然住民たちの多くはまだ眠っており、アーヴァンの街も薄暗い夜に包まれている。
こんな時間に、しかも外で行うとは思っていなかったので、レティシアは少し困惑した表情で集まる面々を見回した。アレスも同じように驚いている様子だったが、リシュレナや四賢者たちはただ粛々と準備を進めている。
風を切る音が聞こえたかと思えば、空からロアに乗ったカイルが降下してくるのが見えた。その隣にはイルヴァールの姿もある。アレスの時を戻すためとはいえ、少し仰々しい雰囲気に戸惑いは増すばかりだ。
「パルシス。これは一体何が……」
「おぉ、アレス殿。準備は出来ておるぞ」
「どうしてこんな場所で……。神殿内でも十分だろう?」
「神殿にはイルヴァール殿が入れるだけの広さがないからの」
「イルヴァール? どういうことだ?」
要領を得ない会話に、アレスの眉間に皺が寄る。アレスの隣に降り立ったイルヴァールもまた不思議そうに首を巡らせて、周囲に満ちる魔力の匂いを嗅いでいるようだった。
「アレスの時を戻すにしては、少々大がかりな魔法陣だな。……わずかだが、ヴァレスを過去へ送った時と同じ魔力の匂いがする」
「さすがはイルヴァール殿。そうじゃ。わしらは今から、再び過去への扉を開く」
パルシスの言葉に合わせるようにして、広場に金色の時計の文字盤が大きく浮かび上がった。その周囲には既に待機していた残りの賢者たちが、魔法の影響が街に及ばないように結界を張り巡らせている。
わけがわからず立ち尽くすアレスたちの前に、白い法衣を翻してリシュレナが近付いてきた。こちらをまっすぐに見つめる菫色の瞳には、迷いのない強い光が宿っている。
「黙っていてごめんなさい。でも私、二人がメルドール様の書斎で話していたことを聞いてしまって……」
何のことを言われているのか一瞬わからなかったが、過去へ導く時間魔法を見ればすぐに合点がいった。
最終決戦の前、確かにアレスたちはメルドールの書斎で過去を懐かしんだ。できるなら懐かしい友人や家族にもう一度会いたいと。リシュレナはそれを聞いていたのだ。
「皆と何度も話し合って、こうするのがいいと思ったんです。アレスもレティシアも、世界を守るために十分すぎるほど戦ってくれた。私たちを救ってくれた。だから今度は私たちが二人を救いたい」
周りを見れば賢者たちもカイルもロアも、皆が同じ気持ちであるように、アレスたちに対して微笑みながら頷いている。
「私たちの感謝の思いを、受け取って下さい」
アレスを見ると、深緑の瞳がレティシアと同じ思いに揺れていた。信じられない思いと、あの場所へ帰れる喜びに涙があふれる。繋いだ手に力が篭もるから、きっとアレスもレティシアと同じ思いに胸を震わせているのだろう。
「ありがとう。リシュレナ」
心からの感謝と共にリシュレナを抱きしめる。操られていたとはいえ、レティシアにとってリシュレナは我が子同然の存在だ。ひどいことばかりしてしまったが、そんなレティシアを許し、望みさえ叶えてくれようとしている。その思いに、レティシアの胸は強く締め付けられるばかりだ。
「そして、本当にごめんなさい」
「謝らないで下さい。レティシア……。私を育ててくれて、ありがとう」
「リシュレナ……」
リシュレナとレティシアを繋ぐ絆は友人でも親子でもない。けれどこの関係を表す言葉がなくても、互いの間には決して切れることのない確かな糸が繋がっている。それで十分だ。
「過去の扉を開くために、二人に協力してもらいたいことがあるんじゃが」
レティシアとリシュレナが落ち着くのを待ってから、パルシスがゆっくりと口を開いた。
「俺たちにできることなら」
「前回と同様に、リシュレナは新たな時間軸を作ることになる。しかしリゼフィーネ様の残した指輪の魔力は使い切ってもうないのじゃ。そこでリゼフィーネ様の魔力量に少しでも近付けるために、大魔道士メルドール様が残した魔宝、四つの魔導球に込められた魔力を使わせてもらいたい」
パルシスがそう告げると、彼の背後に白い光が瞬いた。かと思えば光の中から精霊界オルディオの王妃アンティルーネと、獣人界ガイゼルの王ジェダールが姿を現した。彼らの手のひらには、それぞれに小さな水晶――魔導球が乗せられている。
「アレス様。レティシア様。お別れは寂しいですが、ここでまたお二人と再会できてうれしかったです。心から笑い合える場所で、どうかお幸せに」
「我が祖先も、きっとお二人が戻られるのを待っていることでしょう。お元気で」
アレスたちも自身の持つ魔導球を取り出すと、それをパルシスへと手渡した。集められた四つの魔導球はパルシスの手のひらの上でゆるりと回りながら、次第に淡い光となってほどけてゆく。その光の帯をリシュレナが杖で糸を紡ぐように絡め取ると、杖の水晶が美しい七色に輝いた。
「リシュレナ。よかったら、これも使ってくれ」
そう言ってアレスが差し出したのは、自身の翼から引き抜いた一枚の羽根だ。神界人の魔力の源である翼は、その羽根一枚でも強い効力を持つだろう。レティシアも同じように片翼から羽根を引き抜くと、リシュレナの手をぎゅっと握りしめながら手渡した。
「俺たち全員を過去へ送るには、これだけでもまだ足りないかもしれないが……」
アレスの視線の先にはイルヴァールがいる。わざわざこの広い場所を選んだということは、イルヴァールも共に過去へ送ってくれるつもりなのだろう。アレスたちだけでなく、ましてや神龍であるイルヴァールも一緒となれば、必要となる魔力量は相当なものになるはずだ。
「心配するな、アレス。この場を神龍の魔力で覆い尽くせば問題なかろう」
「神龍のって……お前、まさかひとりで残るつもりか!?」
「無論、わしもおぬしらと共に帰らせてもらうぞ。そのためにひとつ、置き土産をしていこうと思ってな」
そう言ったイルヴァールの瞳は、少し離れたところに待機しているロアの方へまっすぐに向けられている。
「ロア」
名を呼ばれたロアは既に何かを感じ取ったらしく、金色の瞳をわずかに伏せて短く息を吐いた。その吐息を頭上から直に落とされたカイルが、乱された髪を掻き上げながらロアを軽く睨みあげている。
「おぬしにわしの力を授けよう。この時代で新たな神龍となり、カイルの生きる世界を見届けるがいい」
「私に拒否権はないのだろう?」
「そうだな。それにわしが過去へ戻れば、この時代に神龍は存在しなくなる。カイルが生きる世界を守りたいなら、自ずと道は決まるであろう?」
逡巡した後、ロアは一度だけカイルの方を見た。
人として無事に成長し、今回の戦いで多くのものを得たはずだ。カイルはもう導かなければ前に進めない子供ではない。守り育てるといった使命を果たしたロアにとって、この先自分が存在し続ける理由は確かに必要だ。
元々作られた身であるロアは、主の命令がなければ自由に動くこともできない。けれどそこに新たな神龍としての道が授かれるのなら、ロアはロアの意思でカイルと共に生きていくことができる。生きていきたいと、願っている。
「ロア……」
心配そうに名を呼ぶカイルに、ロアは鼻先を寄せて小さく鳴いた。
「……それがカイルを守ることに繋がるのなら」
「承知した」
イルヴァールが翼を大きく広げると、やわらかな光が二頭の龍の姿を淡く包み込んだ。きらきらと舞う光の粒子は幾万もの羽根の形に変化して、それはイルヴァールからロアの方へ引き寄せられるように吸い込まれてゆく。やがて完全に光が弾けて消えると、そこには翼の数を二枚に減らしたイルヴァールと、六枚の翼を大きく広げたロアの姿があった。
「ロア。お前、翼が……。体は大丈夫か? 違和感とか……」
「心配ない。強いて言えば、ようやくこの身が地に着いたような感じがする」
「そうか。ならよかった」
「これでまた、カイルと共に生きることができる」
「別に神龍じゃなくたってずっと一緒だろ。……でも、お前がちゃんと龍の存在を得ることができてうれしいと思ってる」
「私もだ、カイル。お前が生きる世界を、この先もずっと守り続けていこう」
「ならばカイルには子孫繁栄に務めてもらわねばならんな」
そう口を挟んできたイルヴァールに、カイルは言葉を詰まらせて咳き込んでしまった。言い返そうにも咳が邪魔をして言葉が何も出て来ない。代わりに睨んでみるものの、当の本人は素知らぬ顔でさっさとアレスの方へ移動してしまった。
「イルヴァール。お前、力は……?」
「何、心配あるまい。過去のわしと融合すれば、完全とは言えないまでも、ある程度の力は戻るだろう。神龍として世界を見守るくらいはできるはずだ」
「……ありがとう」
そっと手を伸ばし、二枚になった翼の付け根を労るように撫でてやる。レティシアも同じようにイルヴァールへ近付くと、それを合図にしたように足元の魔法陣がふわりと光を放ちはじめた。
「さて、準備はよいか?」
パルシスを見てしっかりと頷くと、杖を手にしたリシュレナがまずアレスの前に進み出る。先端の水晶をアレスの顔――結晶石が残した傷跡に向けると、そこに小さな時計の文字盤が浮かび上がった。
「まず、アレスに残る結晶石の魔力が消えるまで時を進めます」
カチカチ、と小さな音を立てていた時計の秒針が、次第に音すら聞こえぬほどの速さで回り始めた。アレスの体は淡い光に包まれて、服の裾や髪の先が水中を揺蕩うようにゆらりと揺れている。その動きが次第に緩慢になり、そして完全に収まったかと思った次の瞬間、アレスの体はまるで軸を失ったかのように大きく前に倒れ込んでしまった。
「アレス!」
慌てて駆け寄ったレティシアとイルヴァールの翼に支えられ転倒することを免れたが、アレスの体には強い疲労感と倦怠感が重くのし掛かったままだ。レティシアが瞬時に治癒魔法をかけてくれなければ、自力で立つことも難しかったかもしれない。それでも体の奥には、まだ強い疲れが蓄積されているような感じがした。
「急激に時を進めた反動であろうな。三百年分の疲労といったところか」
「アレス、大丈夫ですか?」
「あぁ……すまない」
レティシアに支えられながら何とかしっかりと地に足を付けて立つと、アレスはゆっくりと息を吸い込んで瞼を閉じた。体中に新鮮な空気が行き渡り、力強い鼓動と共に熱い血潮が流れていくのを感じる。
今までと何も変わるものはないに、伝わる生の重みが違う。鼓動がひとつ鳴るたびに、アレスの時がひとつ進んでゆく。無意識に顔に手をやると、そこに刻まれていたはずの傷跡は綺麗に消えてなくなっていた。
「リシュレナ。本当に、ありがとう」
「今までたくさんお世話になったお礼です。私の方こそ、迷惑ばかりかけてすみませんでした。……もう、大丈夫ですから」
そういってはにかむように笑うと、リシュレナは手にした杖を握り直して深く息を吸い込んだ。
「今から開く過去の行き先は月の厄災直後……レティシアの中にあった結晶石が砕けた瞬間になるかと思います」
レティシアから結晶石をなくすには、やはりレティシアの死が必要不可欠だ。けれどその負荷は、ラスティーンとクラウディスの魂が代わりに引き受けてくれた。だからアレスたちを戻す時間はあの瞬間が最適だろうと、リシュレナたちはそう判断した。
「過去に戻った時、アレスには気を付けて欲しいことがあります。ひとつは砕けた結晶石のかけらを回避すること。そしてもうひとつは、レティシアが時空の狭間に落ちる前に救い出すこと」
せっかくリシュレナが不老を戻してくれたのに、結晶石に再び傷を付けられてしまってはすべてが台無しである。過去に戻ってすぐに今の自分の意識が薄れるようなことにはならないだろうが、それでも油断しないようにとアレスは自身の魔力を最大限にまで練り上げた。
「念のためわしらも結界を張っておこう」
パルシスがそう言うと、他の賢者たちが揃ってアレスに防御結界を重ねがけしてくれた。
アレスたちを過去へ送る準備が着々と進んでいる。周囲には賢者たちの結界が張られ、ロアの新しい力が辺りに濃く満ちてゆく。アンティルーネとジェダールは邪魔にならない場所でアレスたちを見送っており、その少し離れた場所に立っていたカイルは目が合うと戸惑いながらも軽く手を振ってくれた。そのカイルの顔に、もう魔眼を隠す眼帯はない。
リシュレナが杖で軽く足元を突くと、浮かび上がっていた時計の文字盤が緩やかに時を刻みはじめた。
「アレス。レティシア。最後に、これを」
そう言って、リシュレナが一冊の本をレティシアに手渡した。
「これは?」
「この時代で起こったことを、皆の話も聞きながら私が書きました。ヴァレスに起こったこと、どうやって世界が救われたのか。それに……やっぱり二人には、私たちのことを覚えていてほしいから」
「リシュレナ……ありがとう。大事にするわ。ここでの記憶を、ちゃんと私たちの時代に語り継いでいきます」
「――二人とも、どうかお元気で」
長い旅が終わりを告げるように、暗い空の向こう、憂いの月が沈んでまばゆいばかりの太陽の光が差し込んだ。
精一杯の笑顔を浮かべて、リシュレナが声高に呪文を紡ぐ。
それはまるで祝福の詩の如く、どこまでも凜として響いてゆく。
「悠久の時を機織るユーリスベル。去来の糸を紡ぐスラヴァール。我に応えよ。我が名はリシュレナ。時を操る我が望むは過去の撚り糸。糸を紡ぎ、過去への道を織り示せ!」