07:束の間の邂逅
バルザックの怒号に重なって、焦燥するヴァレスの声がした。何を叫んだのか定かではない。けれど「エルティナ」とも、「カイル」とも聞こえた気がする。
重なり合う二つの絶叫に振り返ると、上空でバルザックの体が細切れに爆ぜるのが見えた。その恐ろしい光景を覆い隠すかのように、カイルの視界に漆黒の闇が滑り込んだ。
馴染みのある、黒。魔界跡の闇のにおいだ。翻るマントの奥に鮮やかな赤髪を見た瞬間――。
「ヴァ……」
カイルの声をかき消して、漆黒の影を貫いた大剣が肉を裂く生々しい音を響かせた。
***
細く頼りない三日月を朱に染めて、夜空に鮮血の花が散る。
もうずっと、ずっと遠い昔にも同じ光景を目にしたことがある。それはどれだけ時を経てもなお、ヴァレスの中から消えてはくれない絶望の象徴。ヴァレスを突き動かす憎しみの根源。そして、終わらない永遠の孤独のはじまり。
ヴァレスが死に、魔界王が生まれた惨劇の夜。あの時と同じように、今もまたヴァレスはバルザックの大剣に胸を貫かれている。その現実がおかしくて、惨めで、無意識に口角が上がった。
薄く笑えば、胸をせりあげて鉄の味がする。少し咳き込んだだけで、大量の血を吐いた。その血が胸を貫く刃をなおも赤く染め上げて、地面に夥しい量の血だまりができてゆく。
体から、ゆっくりと力が失われていくのを感じた。けれども地に伏すことはない。なぜなら胸を深々と貫いた大剣はそのまま地面に深くめり込んで、ヴァレスを留め置く楔のように突き立てられているからだ。
何もかもが、あの夜と同じだ。
ヴァレスはバルザックの剣に貫かれ、空を仰いだ状態で血だまりの中に拘束されている。濃い血の臭いも、体を裂く刃の冷たさも、ヴァレスを憐れむ三日月も、すべてがあの夜を再現しているかのようだ。
けれど決定的に違うものがある。
エルティナが、生きている。腹の子と共に、生きているのだ。
夜空の月からかすかに視線を横にずらすと、視界の隅に穢れのない銀色の輝きが佇んでいるのが見えた。それだけで、胸の痛みが喜びに変わる。
エルティナ。
エルティナ。
ずっと会いたいと願い続けていた思いが、助けられたという安堵の喜びに上書きされてゆく。あの夜の絶望が薄れてゆく。
あぁ――と、儚く息を吐いてヴァレスは笑った。
何千、何万と時を巡り、エルティナだけを追い求めていたその心理の根底にあった願いは、エルティナを救うことだったのかもしれない。だからこそ、胸を貫かれ、命の灯火が消え逝こうとしている中であろうと、ヴァレスの心はこんなにも穏やかでいられるのだ。
「ア、アンタ……何やってんだよ……」
エルティナの横で、彼女の面差しを受け継ぐカイルが驚いた表情を浮かべている。そこにほんのわずか哀愁のような思いも垣間見た気がして、そんな資格もないのに瞼が愚かにも滲んだ。
「ヴァレ……」
「その名を呼ぶな」
「……っ!」
拒絶するように言い捨てても、カイルはよほど動揺しているのかヴァレスの意図を推し量ることができていない。それをまたうれしく思ってしまったことに自嘲する。
「バルザックは死んだ。世界は変わる」
この世界に、エルティナを脅かす者はいない。そう思うとそれまで張り詰めていた糸がぷっつりと切れたように、ヴァレスの体からすべての力が抜け落ちた。漆黒のマントは端からはらはらと風化するように崩れていき、まるで鮮血に穢れた姿をエルティナに見られまいとするかのようにヴァレスの全身を覆い隠してゆく。
指先から、喘ぐ口から、胸の傷から、じわじわと闇に侵されていくのを感じた。このままヴァレスの体も心も、バルザックと同じように魔物に食い尽くされてしまうのだろう。
だが、それでいいと思った。そうであるべきだとも思った。
歪んだ思いのために多くの者を傷付けたヴァレスは、光ある世界を歩む資格などとうの昔に失っている。血に濡れた体では、エルティナの隣に立てるはずもない。
「……エルティナ……」
縋るように名前を呼んだ。
声は弱々しく、きっと誰の耳にも届かない。なのに。わかっているのに、記憶に残るエルティナへ、手を伸ばすことをやめられない。
命を奪われたあの夜も、レティシアの血の中で目覚めた月下の再会の時も、ヴァレスの手はエルティナには決して届かなかった。それが闇に堕ちた者の宿命であるかのように、呪われたヴァレスの手は彼の望むものを何ひとつ掴めない。
瘴気に呑まれていく中、夜空の三日月を掴むように伸ばされた手が、ほろりと、崩れる。
その、もう感覚すら失われた指先が――白くたおやかな手に包まれた。
「私たち皆を、救ってくれたのですね」
懐かしく、愛おしい声にハッと瞼を開く。
穢れた瘴気を浄化するかのように、ヴァレスの視界に求め続けた銀色の光が滑り込んだ。
「ありがとうございます」
視界は霞み、声も碌に出せなくなっていた。全身の感覚は既になく、あるのは胸を貫く大剣の冷たさだけだ。なのに、エルティナに握りしめられた右手だけが強く確かな熱を持つ。
「……エル……」
わずかに声を漏らすと、エルティナが耳を傾けてくれるのがわかった。今この瞬間、確かにエルティナと同じ時を生きている。触れ合っている。それが何より、何よりもうれしかった。
「……笑え」
「……え?」
「笑ってくれ。……エルティナ。お前の笑顔が、見たい」
ヴァレスの記憶に残るのは血と涙に濡れるエルティナの姿ばかりだ。ヴァレスが魔界王としてある限り、エルティナが笑いかけてくれることはない。
そんなことはわかりきっているのに、愚かにも願ってしまった。一人の、ただの憐れな男として、エルティナに……許されたいのだと、悟ってしまった。
「……それで、あなたの痛みが癒やされるのなら……」
さぁっと、静かに木々が揺れた。ヴァレスを包む闇をわずかに晴らして風が吹く。
細く折れそうな三日月を背に、星屑に似た銀の髪を揺らめかせたエルティナが――笑っていた。
「……――あぁ……」
まるで神々しいものでも見ているかのように、ヴァレスが真紅の双眸を眩しげに細める。
「やはりお前は……美しいな」
ヴァレスも笑う。儚げに微笑んで、エルティナへと手を伸ばす。その指先がエルティナの頬に触れるより先に、ヴァレスの体は砂のように崩れ落ちていった。