06:狂王、死す
「アレス!」
「無事だったか」
「あ、あぁ。何とかな」
無意識に自身の腕を掴むと、魔物の絡みついた感触がよみがえった。
「あいつ、一人で突っ走ってるけど大丈夫か?」
「元よりヴァレスに連携は期待していない。だが、あいつは過去にバルザックを倒している。だから俺たちは、ヴァレスがその一撃を放てるように動くんだ」
「どうやって?」
「俺が不意を突く」
上空ではなおも激しい戦いが続いている。二人の体は瘴気にすっぽりと覆われているが、アレスにはその姿も動きもしっかりと見えているのだろう。空を見上げる深緑の瞳には一切の迷いがない。
「俺が合図をしたら、お前はバルザックの動きを止めろ。一瞬でいい」
「……わかった」
返事はしたものの、カイルは胸の奥に暗い影が差したのを感じた。さっきの攻撃は、バルザックにまるで効かなかったのだ。足止めさえうまくいくかわからない。
そんな不安を打ち消すように、カイルはアレスに肩を軽く叩かれた。
「大丈夫だ。奴がお前を侮っている今が好機だ。お前の力は必ずバルザックに届く」
肩に置かれた手のひらから伝わる熱に、心がゆっくりと落ち着いていく。信頼されるのはうれしくもあり、同時に期待を裏切らないようにと自身を鼓舞する力になる。それを認めるのはまだ少し恥ずかしくて、カイルは素っ気ない態度でアレスの手を振り払った。
「別に心配なんてしてねぇよ。奴の動きは俺がちゃんと止めてやる」
「頼んだぞ。早くしないと異変に気付いた誰かが来るかもしれないからな。それまでにカタを付けよう」
そう言ってアレスが再び翼を広げて飛んでいく。どうやって不意を突くのかと思っていると、剣を構えたアレスがそのまま二人の戦う瘴気の中へ勢いよく突っ込んでいくのが見えた。
「力押しかよっ!」
キンッと空気を斬り裂く甲高い音を響かせて、蒼銀色の軌跡が瘴気の闇を真っ二つに斬り裂いた。ぶわりと闇が晴れ、中から現れたヴァレスとバルザックが、まるで興が削がれたとでも言いたげにアレスの方を睨みつけている。
「カイルっ!」
よく通る声で名を呼ばれ、カイルが引き寄せていた魔物を一気に纏めてバルザックへと放つ。足に巻き付き、体を這って背中の両翼に絡みつく魔物の群れ。それらを難なく引き千切るバルザックの行動は予想の範囲内だ。カイルの目的はバルザックを拘束することではない。力で敵わないことは既にさっきの失態で嫌というほど身に染みている。
力で足止めできないのなら、違う方法でバルザックの動きを止めればいいのだ。
バルザックが引き千切った魔物の中から、大量の瘴気が弾け飛んだ。魔物の体内に仕込んだ、深淵に澱む闇だ。瘴気は漆黒のカーテンのように大きく膨らんで広がり、それはほんの一瞬バルザックの視界を完全に奪う。
「こんなもので私を止められると思うな!」
バルザックの怒号に、カイルは無意識に口角を上げて薄く笑った。
「お前を止めるのは俺じゃない」
この一万年以上続く悲劇の舞台で、カイルも、そしてアレスも大きく人生を狂わされた。けれど悲劇を終わらせるのは、そのどちらでもない。
幕を開けたのはバルザックだ。
ならばその幕を下ろすのは、ヴァレス以外にいない。
「エルティナを殺した報いを受けろっ、バルザック!」
瘴気を裂く鮮血の鉤爪が、夜の闇にぬらりと光る。
バルザックが剣を薙ぐよりも速く、鉤爪に変化したヴァレスの右腕がバルザックの左胸を貫いた。
「……がはっ……!」
ばしゃりと、夥しい量の鮮血が暗闇を彩るように降り注ぐ。あの日、あの夜の惨劇を再現しているかのようだ。
けれどもバルザックの血に濡れて噎び泣く者はいない。忠誠心を誓う部下もいなければ、命乞いに駆け付ける妻もいない。その現実が、バルザックの人生を物語っているようだった。
「……貴様……っ」
心臓を貫かれてもなお、バルザックの怒気は消えない。しかしその背で羽ばたく翼は勢いをなくし、今は胸に突き刺さったヴァレスの腕で空中に繋ぎ止められているだけだ。
至近距離で向かい合ったヴァレスの顔をぎろりと睥睨して、そしてふと何かに気付いたようにバルザックが短く喘いだ。
「その顔……見覚えがあるぞ。イルシュの森に住んでいた……あの魔眼の一家だな?」
「だったらどうした」
「その力は何だ。あの時のお前は覚醒する術を失った、ただの無力な奴隷だったはずだ」
「その点についてはお前に感謝しよう」
「何……?」
「俺を生み出したのはお前だ、バルザック。エルティナを殺したお前が、魔界王を誕生させたのだ」
ここに来てはじめてバルザックが驚愕した表情を浮かべた。未だ胸を貫く腕を強く掴み、更に食い込むのも厭わぬようにヴァレスへと顔を寄せる。
皆殺しにしたはずの魔眼の一族の生き残りが二人。加えてバルザックの恐怖に支配されない神界人の男。そして殺すはずだったエルティナが、既にバルザック自身の手で殺されているという言葉の片鱗。
それらが導き出す答えの先に、バルザックは白髪の女の影を見た。
「……リゼフィーネかっ!」
「知ったところでどうなる?」
ヴァレスが腕を引き抜くと同時に、手のひらから流れ出た瘴気の塊がバルザックの胸の傷口からずるりと体内へ滑り込んだ。
「その身を魔物に喰われながら死ぬがいい」
「……ほざけっ!」
ヴァレスから瞬時に距離を取ったバルザックだったが、応戦する勢いはもうほとんど残されていないようだった。開いた胸の大穴から大量の血を溢れさせ、かつ体内を縦横無尽に動き回る魔物にバルザックの体が内側からぼこぼこと変形をはじめる。それでもヴァレスを睥睨する瞳から闘志の炎が消えることはなかった。
「私も殺すぞ……っ。神界人の血を穢した愚か者をな!」
吐血で濡れた口元を歪めて、バルザックが笑う。ぼこりとへこんだ頭部の肉に眼球が押し出されても、大きく膨らんだ腹部の中から気味の悪い音が響いても、バルザックはヴァレスを凝視し笑ったままだ。
そのあまりに狂気じみたバルザックの姿に、カイルの背筋がぞくりと凍る。もはやバルザックに生き延びる術はないはずだ。それなのに、仇敵を討った達成感がまるでない。緊迫する空気に、言葉にできない不安がじわりと広がってゆく。
誰も彼もが、バルザックの狂気に言葉を失っていた。まだ何か仕掛けてくるのではないかと気を張り詰めた中――まるで時を動かす合図のように、カイルの背後で草を踏むかすかな音がした。
勢いよく振り返ったカイルの視界に、清らかな月の光が瞬いた。
――否。夜空の細い三日月は、こんなにも強い光を放てない。月光と錯覚したのは、闇の中にあっても輝きを失わない銀色の、髪だ。
「……アンタ、何でこんなとこに」
自分でも覚えのない記憶のかけらが、心の奥で小さく爆ぜる。はじめて目にする銀髪の佳人の姿に、カイルは彼女がエルティナであることを本能的に確信した。
「これは一体、何が……。あなたたちは」
ずしりと、空気が重くのし掛かった。と同時に、カイルはバルザックの歪んだ笑みの意味を知る。
「ここから離れろっ!」
エルティナの腕を掴んで森の方へ駆け出したカイルを追って、嘲笑の混じるバルザックの絶叫が三日月を震わせる勢いで響き渡った。
「エルティナァァッ! 逃がさんぞ。その穢れた血ごと呪い殺してくれるっ!」
大きく振り上げられたバルザックの右腕。その手にしっかりと握られた大剣が彼の血と魔物の体液、そして死に際に込められた呪いの魔力によって赤錆色に鈍く煌めいた。
「エルティナのいない世界を、何度も一人で生き続けろ!!」
最期にヴァレスを一瞥して、バルザックが勝ち誇った笑みを浮かべる。その手に握られた剣が勢いよく振り下ろされるのと、バルザックの体が膨張して破裂するのは、ほとんど同時だった。