04:バルザック
風の匂いが変わった。
視界を埋め尽くす白い光が消えたと思えば、アレスたちは夜闇に沈む深い森の中に立ち尽くしていた。見上げた空には獣の爪のように細く折れそうな三日月が浮かんでいる。
少し進めば森はすぐに開け、前方には高台に聳え立つ巨大な城が見えた。以前訪れた時に、リゼフィーネが指し示したあの城だ。
儚い月光の下でも威厳を植え付けるように濃く影を落とす城の一角に、束の間、淡い光が瞬く。と同時に、光の消えた城の一角が強烈な殺意と憎悪の気配に包まれる。
「バルザック!」
その気配にいち早く気付いたのはヴァレスだった。怒号と共に空を駆け上がっていくヴァレスを見失わぬよう、アレスもカイルの腕を掴んで背中の翼を解放する。
翼が出せたということは、この時代でアレスたちの力が通用するということだ。バルザックの力がどれほどのものなのかはまだわからないが、魔界王となったヴァレスと神界人の力を覚醒させたアレス、そして魔眼の力を振るうカイルが揃えば、かの暴君にも同等に立ち向かえるのではないか期待する。
「カイル。魔眼は使えそうか?」
「多分、大丈夫だ。あいつの向かってる先に、強い魔の気配を感じる。あそこまで行けば、魔物を使って俺だって空くらい飛べるだろ」
この時代にロアはいない。カイルは今、アレスに腕を掴まれ空を飛んでいる状態だが、魔物の多く集まる場所ならば、それらを操り足場にして空を駆け上がることも可能だ。アレスやヴァレスのように魔法を扱うことはできないが、魔物がいれば攻撃も防御もカイルにできることはたくさんある。
「あの先は……もしかしてシュレイク、か?」
ヴァレスが向かう先に、古びた神殿の入口が見えてきた。シュレイクは確か朽ちた地下神殿の奥に作られていたはずだ。そのシュレイクの更に最奥には、魔物の生まれる大穴がある。カイルが感じた強い魔物の気配は、シュレイクの大穴のことだったのだ。
ならばアレスたちが目指す先にいるはずのバルザックは、エルティナを追ってシュレイクへ向かう途中ということになる。バルザックがシュレイクへ降りる前に阻止できれば、エルティナだけでなくシュレイクの民も救うことができるかもしれない。
アレスの脳裏を掠めたのは、魔界跡ヘルズゲートに残されたシュレイクの民が変貌した石像の姿だ。恐怖におののき、逃げ惑うシュレイクの人々。泣き喚く者。諦めて蹲る者。助けを求め手を伸ばす者。その悪夢を体験したのはアレスではないのに、彼らの絶叫が生々しく鼓膜を震わせていく。
その幻聴をかき消すようにして、雷鳴の如き轟音が響き渡った。
「アレス。あそこだ!」
カイルが指差した先、シュレイクから少し離れた場所にある森の一部が、乱暴な力によって広く抉り取られていた。力を使ったのはヴァレスだ。薙ぎ倒されたはずの木々はヴァレスの闇に触れて塵と化し、剥き出しになった地面は強い炎で炙られたように黒く焦げ付いてしまっている。
一瞬で命を奪われた森の、その黒い大地の中央にいるのはヴァレスともうひとり。――その男は、まるでこの世の悪を凝縮したようなおぞましい魔力を纏って立っていた。
「……何だ、お前は」
男がたった一言放つだけで、場の空気が重みを増した。眼前に立つヴァレスの存在を推し量るように、男――バルザックが蒼の双眸を薄く細める。
「……魔眼の一族? まだ生き残りがいたのか」
ヴァレスの背後に蠢く闇のにおいを感じたのか、バルザックが不快さをあらわにして眉を顰めた。その視線はヴァレスの背後に降り立ったアレスたちにも向けられている。明らかに敵意を持って対峙するアレスたちに、バルザックは驚きも焦りもしていないようだった。
「その翼……。神界人であるお前が、なぜ私の邪魔をする? まさかこの私を知らぬわけでもあるまい」
「嫌というほど知っている」
「ならば私に刃向かうことがどれほど愚かであるかもわかるだろう? お前たちの刃が私に届くことなど、万に一つもありはしない」
「それでも俺は……俺たちはお前を止めに来た」
「笑止!」
怒号とも嘲笑とも取れる野太い声でバルザックが吠える。辺り一面に隕石が落ちたような強い衝撃波が広がり、バルザックを中心にして白い風の帯が渦を巻いた。可視化するほどに濃い魔力は森の木々を裂き、押し潰して、破片すら粉々に粉砕してゆく。
「お前たちと遊んでいる暇はない。私の行く手を阻むな、痴れ者が」
「無論、遊びではない。俺はお前を殺しに来た」
淡々と語るヴァレスの声音には、押し殺した怒りが垣間見える。右手に絡みついた魔物を漆黒の剣に変えたかと思うと、ヴァレスは間髪入れずにバルザックへと駆け出した。
「何度でも殺してやる! 俺の世界にお前は不要だ、バルザック!」
「返り討ちにしてくれるわ!」
ヴァレスとバルザック。ただ残虐性にのみ特化した強烈な二つの魔力がぶつかり合った瞬間、暗い夜空を裂く雷の如き轟音が世界をも大きく揺り動かした。
***
激しい地響きと空をも震わせる轟音に、誰もが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ついにバルザックがシュレイクへ降りてきたのだと、そう予感させるほどに恐ろしい魔力の気配がした。
けれど、何かが違う。感じる魔力の質は幾つかある。そしてそれはシュレイクではなく、ここを囲む森の奥からだ。
何かあったのかとつい足を止めると、逃げ惑う人の波に押されて向かうべき方向へ進めなくなってしまった。
人混みに流され、そばにあった大切なぬくもりが遠ざかっていく。縋るように伸ばした手を掴んで引き寄せてくれたのは、モーリスだった。
「エルティナ様!? ヴァレスと一緒に逃げたはずじゃ……? あいつはどこに」
「モーリス。わからないの。気付いたらヴァレスとはぐれてしまって……」
「まったく、こんな時にあいつは何やってるんだ」
「バルザックは……?」
「まだここには来ていないようです。エルティナ様も今のうちに早く逃げましょう。ヴァレスなら後で俺も一緒に探しますから、今はご自身の体のことを第一に考えて下さい」
モーリスに手を引かれて人の波から抜け出ると、先ほど感じた強い魔力の波動をより鮮明に感じ取ることができた。
肌を刺すほどに強烈な悪の気配を曝け出しているのは、間違いなくバルザックが振るう凶悪な力だ。対して同じくらいにおぞましい闇の濃さを纏った力が、バルザックの悪を貪る勢いで膨張している。
その力の傍らに、エルティナと同じ神界人の魔力の煌めきを感じた。バルザックに刃向かう者がまだいたのかと驚愕する一方で、一体誰が彼と対峙しているのか疑問が湧いた。
彼らの魔力に遠く及ばずとも、その場に留まり続ける小さな力もある。弱くとも逃げずに立ち向かうその小さな輝きの波動を感じた瞬間、エルティナは胸の奥が強く揺さぶられるのを感じた。
「……誰、なの?」
バルザックと互角か、あるいはそれ以上に膨れ上がる魔力は、シュレイクの大穴で感じた深淵に巣食う闇と似ている。一切の光を拒絶する黒の中にありながら、滾る血潮の如き激情を秘めた迸る鮮血の色。
その中で一番小さな魔力にも、同じ深淵の黒と血の赤を感じた。けれどこの小さな力に宿る真紅に邪悪さは少しも見当たらない。
強大な真紅が残虐な血の色を表すのなら、頼りなく揺れる小さな真紅は生命を表す鮮血の色だ。
同じ色を纏っていても、性質がまったく異なる二つの赤。けれど、なぜだかそのどちらにも、意識が強く引っ張られてしまう。
「エルティナ様? どちらへ……」
背中にモーリスの声が届いたと思った瞬間にはもう、エルティナはほとんど無意識に森の方へ走り出していた。
「エルティナ様!」
本当はモーリスと一緒に逃げる方がいいとわかっていた。それと同時に、今逃げてしまえば、何か大切なものを……大事なことを見落とすような気もした。
人混みを掻き分けて進む途中、離れたところに茫然と立ち尽くすヴァレスの姿が目に映った。その姿は闇に薄くほどけて、周りにいる誰もがヴァレスの姿を認識できていない。
本当なら今すぐにでも駆け寄り、その体を抱きしめたかった。こちら側へ引き戻したかった。
けれど。
なればこそ、エルティナは行かなくてはならない。
根拠も何もわからなかったが、ヴァレスを取り戻すにはそうするしかないのだと、心の奥がエルティナを激しく急き立てている。
「ヴァレス!!」
向かう先にヴァレスがいるはずもないのに――エルティナはそう叫ぶのをとめられなかった。