02:メルドールの書斎にて
アーヴァンの神殿の最上階。当時のまま残されているメルドールの書斎に、レティシアはアレスと共に訪れていた。
「懐かしいですね」
レティシアはアレスと手を繋いだまま、懐かしい部屋を時折息を漏らしながら感慨深く見回していた。貴重な文献はリシュレナの時間魔法にも必要だということで、今は四賢者による扉の結界は解除されている。
「メルドール様が残してくれた魔導球に、私もずいぶんと救われました」
アレスと繋いでいないほうの手には、エヴァに化けていた時から見ていた魔導球が握られている。それを胸の前に上げると、アレスも同じように自分の魔導球をレティシアの持つ魔導球にこつん、と触れ合わせた。
「これを見ている時は理由のわからない悲しみや焦りが沸いて苦しかったんです。なのにまた覗いてしまう。……ここに残された記憶が、もしかしたら私を繋ぎ止めてくれたのかもしれません」
「俺もそうだ。魔導球がなければ、とっくに心が壊れていただろう。メルドールにも、そしてロッドにも助けられた。皆の助けがあったから、俺はお前を見つけられた」
繋いだままの手にきゅっと力を込めて、レティシアはアレスを見上げた。見つめあい、微笑みを交わして、繋いだ手から伝わる熱を確かな証とするように指を絡める。
「本当に、ありがとうございます」
数え切れないほどの悲しみがあった。絶望に押し潰された夜もあっただろう。それでもわずかな希望を信じて、アレスは三百年という長い月日を闇に堕ちることなく生き抜いてくれた。その行動が、意思が、ヴァレスとは違うことを物語っている。
アレスには、苦しみを分かち合う存在がいた。相棒のイルヴァールだけではない。魔導球を作ったメルドールもそうだし、アレスのために寿命を削ったロッドだってそうだ。生きる時間は違えども、皆がアレスと一緒になってレティシアを探そうと協力してくれた。その絆があったからこそ、レティシアは今こうして再びアレスと出会うことができたのだ。
もしヴァレスにもそういう存在がいたのなら、彼の心も少しは救われていたのかもしれない。
「そういえば、ここからはじまりましたね。結晶石の謎を解く、私たちの旅が」
「ずいぶんと長くかかってしまったが、明日……すべてを終わらせる」
「……ヴァレスの苦しみも、救われるといいのですが」
レティシアの体に流れる血の中にはエルティナの魂がある。月の涙鏡がラスティーンによって割られたことにより、エルティナの魂はレティシアと同化しているのだ。
だからだろうか。ヴァレスのことを考えると、今も胸の奥が憎しみではなく哀願に似た思いに締めつけられる。天界の皆や兄クラウディスにした仕打ちを忘れたわけではないが、彼もまた激動の時代に翻弄されたひとりであることを思えば、ヴァレスだけを非難することもできなかった。
「アレスはその……大丈夫、ですか?」
恐る恐る訊ねると、わずかに目を瞠ったアレスがふっと淡い笑みをこぼした。
「心配するな。奴のやってきたことすべてを許せるとは言えないが、世界を救うにはヴァレスを救うしか道がないこともわかっている」
「アレス……」
「それにつらいことがあったのは俺だけじゃない。お前だってそうだ。この世界の人々も、賢者たちもリシュレナだってヴァレスに弄ばれた。それでも皆が力を合わせて世界を……ヴァレスを救おうとしている。カイルの存在でヴァレスの願いに歪みが生じたこの好機を逃すわけにはいかない」
まるで自分自身に言い聞かせるように、アレスは言葉一つ一つを噛み締めるように呟いた。
長い時間がかかった。多くの犠牲も払った。世界を、そして人々を恐怖に陥れたヴァレスを救う日は明日に迫っている。
時間魔法で過去に渡り、バルザックを倒す。そうして再びアレスたちが帰ってきても、この時間軸ですでに失われている者たちは戻らない。リシュレナがこことは違う新たな時間軸を作るからだ。
レティシアたちが今いるこの時間軸は「エルティナが死んだ未来」だ。この時間軸では月の結晶石が作られている。それはつまりリシュレナの時間魔法が存在する未来であり、過去へ渡ったアレスたちが無事に戻る場所はここしかないのだ。
この世界を救うために必要なのは、皮肉にも月の結晶石に他ならない。それでも皆が力を合わせてヴァレスを、この世界を救おうとしている。憎しみと悲しみ、それぞれの葛藤を今は密かに胸の奥にしまって。
「アレス。バルザックの力は計り知れません。どうか……無事に、戻ってきてください」
「もう二度と離れないと誓っただろう? それに俺が今までお前との約束を破ったことがあったか?」
そうだ、とレティシアは思う。アレスは三百年の孤独を必死に耐え抜き、こうしてレティシアを見つけてくれた。
何を恐れることがあるだろう。
アレスはきっと大丈夫だ。信じて待つことが彼の力になるのなら、不安も恐れも振り払って、ただアレスのために、二人が進みたいと願う未来のために祈ろう。
強い願いは力になる。それはアレスが身をもってレティシアに教えてくれたものだ。
ヴァレスの願いもそうだ。絶望から月の結晶石を生み出してしまったが、エルティナが無事であるなら、彼の願いはきっと純粋に光の方を向くだろう。そうであってほしいと、レティシアは姿の見えないヴァレスを思って密かに祈った。
「レティシア」
二人して窓際からアーヴァンの街並みを眺めていると、アレスが意を決したかのように少し硬い声音でレティシアの名を呼んだ。
「お前は帰りたいと思うか? 俺たちが生きていた、あの時代に」
「それは……」
「もしもの話だ。時間魔法があれば、過去に戻ってクラウディスも救うことができるだろう」
久しぶりに聞いた兄の名に、レティシアの心臓がどくんと鳴る。
確かに過去を変えられるのなら、クラウディスが魔界跡へ調査に行くのを止められるかもしれない。そうすればクラウディスはヴァレスに体を乗っ取られずに済むし、どうにかして真実を伝えることができれば月の厄災が起こるのを防ぐことも可能だろう。
けれど元の時間軸は上書きされ、レティシアはアレスと出会うことがない。万が一出会えたとしても、きっと今のように強い絆は結ばれないだろう。
そしてその時間軸ではヴァレスも救われないままだ。ならばきっとまた、違う形で悲劇は起こる。
今までの経験がどんなにつらく悲しいものだったとしても、レティシアが歩んできたこの道だからこそアレスと出会い、そしてヴァレスを救えるのだ。その過去を、悲しみを、失われた多くの命と願いをなかったことにはしたくない。
「お兄様にもマリエルにも、もう二度と会えないのは悲しいです。でもその悲しみの先で、私はアレスに出会えたんですよ。だから……悲しみも喜びも、全部纏めて私の人生だと思っています」
アーヴァンの街並みを見おろすアレスの横顔が、ほんの少しだけ哀愁を帯びているような気がして、レティシアはそっと彼の隣に体を寄せた。意識的に指先を触れ合わせると、アレスの方から強く手を握られる。
「悪い。余計なことを聞いた」
「いいえ。でも……過去を変えるという意味ではなく、懐かしいという意味ではメルドール様やロッド、そしてロゼッタたち皆にはもう一度会いたい、ですね」
「そう……だな。会いたいな……皆に」
彼らの顔を思い出すと、胸の奥が鈍い痛みに疼く。自然と涙の滲む瞳で隣を見上げれば、アレスも同じ思いに耐えるようにぎこちなく笑みを返してきた。
しばらくの間寄り添って外を眺めていたレティシアだったが、ふと何かを思い出したようにアレスから体を離した。今日は午後からリシュレナと約束をしていたのだ。
「アレス。私、そろそろ行きますね。明日の時間魔法について、リシュレナと最終確認をする約束をしているんです」
「そうか。なら俺も戻ろう」
懐古に浸る時間は終わりだと、二人そろって扉をくぐる。階段へ続く廊下の先で白い法衣が翻った気がしたが、角を曲がったところにはもう誰の姿も見えなかった。