10:父と子
ずっと、鼓膜にこびり付いて離れない音がある。肉を斬り裂くぬめった音だ。
斬り裂かれたのはエルティナ。その柔肌に食い込む大剣は彼女の腹の奥にまで達し、臓物を、そして生命の塊でもあった赤子さえ容赦なく突き刺したはずだ。
そうだ。死んだのだ。
エルティナも、そして二人の子も。
なれどあの時、怒りと絶望に心が支配されなければ、違った未来を進むこともあったのだろうか。闇を取り込み、魔界王として生まれ変わらなければ、あの場で我が子を腕に抱くこともできたのかもしれない。
一瞬だけ脳裏に浮かんだ淡い夢想。けれどそれをすぐに否定する。
ヴァレスの手は、もう数多の血を吸いすぎてしまった。こんな手では、無垢な命に触れることなどできない。触れる資格が、ヴァレスにはない。
なぜならヴァレスは、魔界王となった時から、子供の存在を忘れてしまったからだ。己を突き動かすのは常にエルティナの復活のみ。エルティナさえそばにいれば他はどうでもいいと宣言して、世界すら滅ぼそうとしたのだ。その先の未来に生きていたであろう、我が子の命さえ犠牲にして。
「……ル、ティナ」
エルティナ。
エルティナ。
その名を呼ぶたびに、愛しいエルティナの笑顔がよみがえる。エルティナだけがヴァレスの心の支えだった。一度は拒絶されても、なお諦めきれない。今も惨めに、エルティナの虚像に縋っている。
ヴァレスにはもう、自分が何を求めているのかわからなくなってしまった。
エルティナを取り戻したい。取り戻して、再び皆でひっそりと幸せに暮らしていきたかった。結晶石を作り始めた時は、そんな思いがヴァレスを突き動かしていたはずだ。
けれど――過去の真実を目にして、初めてヴァレスの願いに罅が入った。
エルティナと共にありたい願いは今も変わらない。しかし結晶石に込められた「エルティナ復活」の願いを叶えれば、二人の子が生きるこの世界は消滅してしまう。
迷うことなく突き進んできた道の先に、ヴァレスは自分の手で残酷な選択肢を作ってしまった。エルティナと、二人の子供。ヴァレスの願いは、どちらか片方の命しか救わない。
『……な、さい……。守れ、なくて……』
エルティナは最期の瞬間まで、子供を守れなかったことを悔いていた。ならばこの時代で奇跡的に巡り逢った運命を、ヴァレスは受け入れるべきではないだろうか。そう考えた後で、ヴァレスは自嘲する。とっくに親としての責任を放棄していたヴァレスに、今更何ができるというのだろう。
ヴァレスは親としての自分を想像できない。何をすべきかもわからない。それに何より、子であるあの青年が……ヴァレスの存在を認めてなどいないだろう。
「……カイ、ル」
確か、そういう名前だった。
無意識にこぼれ落ちた声は、日の差し込む部屋に静かに響いて落ちてゆく。けれど、その音を拾って返す声があった。
「……何だよ」
わずかに驚愕して顔を上げれば、部屋の中、扉の近くにその名を持つ金髪の青年が立っていた。朝日を浴びて輝く金色の髪は、ヴァレスが失ってしまった本来の自分の姿を思い出させる。
陽光の下、改めて見たカイルの姿。魔界跡で対峙した時、懐かしさを覚えたのは、やはり錯覚などではなかったのだと思い知る。
目元が、エルティナによく似ていた。
「……何をしに来た」
「俺だってわからねぇよ。でも……アンタとは、一度ちゃんと話しとかなきゃって思ったんだ」
「何を話すことがある? 今更、父と子の関係になどなれはしないだろう」
「確かに俺を育てたのはロアだ。でも、だからといってお前が俺を捨てたとか……そんなことを思ってるわけじゃない。あの状況じゃ、誰もが死んだと思うだろ。実際死んでたしな」
冗談めいて笑った顔に、ヴァレスの胸の深いところがズキリと痛む。笑った顔は、よりエルティナを思い出させて、息をするのが苦しかった。
光の射さない部屋の隅に座り込んでいるヴァレスの前に進み出て、カイルが意を決したように腰を落とした。腹を割って話すつもりなのか、目線を同じにしたカイルの青い瞳に強い光が宿る。
窓から差し込む陽光に照らされて、カイルの金髪がやわらかく煌めいている。落ちることのない鮮血に濡れたヴァレスの髪とは似ても似つかないが、もしかしたらあの夜に違う道を選んでいたのなら、ヴァレスもカイルのように光の下を歩いていたのかもしれない――と。また、愚かにもそう夢を見た。
「ヴァレス。俺はこの世界に大事なものがある。それをお前に壊されたくない」
ヴァレスの脳裏に、白い法衣を着た女魔道士の姿が浮かび上がる。時間魔法を得るために、ヴァレスが用意した道を歩ませた傀儡の娘リシュレナ。カイルがたったひとりで魔界跡に乗り込んでくるくらいだ。彼にとって、よほど大事な娘なのだろう。
あの夜エルティナが父バルザックに殺されたように、ヴァレスもまた息子であるカイルの大事な人を奪おうとした。これではまるでヴァレス自身もバルザックと同じではないかと、愕然とする。
「お前にとっての大事なものはエルティナだって、それは俺もわかってるよ。それにあの夜を経験しちまったら、お前が壊れるのもわかる気がする。でも……お前の願いは、きっと誰も幸せにはしない。それはエルティナ本人だってそうだ」
月下大戦でエルティナ自身に拒絶された時から、ヴァレスの心には鋭い棘が突き刺さったままだ。未だ血を流し続ける傷跡を塞ぐ薬も見つからず、エルティナを求めることしか知らないヴァレスは月の結晶石に縋るしか道がなかった。それがヴァレスの生きる理由だったからだ。
けれど今、カイルという存在が目の前にいる。それはこの部屋に差し込む陽の光のように、ヴァレスに新しい道を指し示す道標にさえ思えた。
「……俺は、エルティナを求め続けることしかできない」
そうこぼした声には、諦めの色が混ざっていた。
「俺が今も生き長らえているのは、エルティナに会うため……ただ、それだけだ」
「だから、方向性を変えてみようって話だ」
「……何だと?」
「ここに来る前に、アレスたちと話してきた。アンタ、覚えてるか? 過去でリゼフィーネが最後に言ってたこと。月の結晶石を元に戻すより、エルティナを救う方法があるかもしれないって」
「そんなもの……あるわけが」
「あの時、リゼフィーネは高台の城を見てた。あの城は誰の城だ? お前ならもう、リゼフィーネの言葉の意味がわかるんじゃないのか?」
高台に聳える城。あの時代、あの巨大な城は恐怖の対象でしかなかった。
神界人の住まう城。それはバルザックの居城だ。
「……まさか……っ」
「そう。俺たちはもう一度過去に渡って、惨劇が起こる前にバルザックを倒す。あの時は干渉できなかったけど、今度は大丈夫だってパルシスのじいさんが言ってた。さすがに何万年も前の過去を遡るのはレナにとっても危険だが、それを補うためのものをリゼフィーネが残してくれてた」
カイルが胸元から取り出したもの。首飾りのチェーンの先で揺れているのは、リゼフィーネが託した金色の指輪だ。そこに込められたリゼフィーネの魔力と、リシュレナに埋め込まれた結晶石のかけらがあれば、数万年の時を越える扉を開くのも難しくはない。
今度はこちらの意思で、あの夜への扉を開くのだ。過去へ干渉できるのなら、すべての元凶を元から絶つことも不可能ではない。
エルティナを失ってから数万年。ヴァレスの瞳に初めて未来への希望を願う光が宿った。
「ヴァレス。お前はどうしたい? 世界中を敵に回してでもエルティナを復活させるか、それとも俺たちと手を組んでエルティナの死そのものを回避するか。これは俺たちにとっても、お前が裏切らないっていう賭けだ。でも……」
言い淀むように言葉を切って、カイルが視線を床に落とした。けれどもさまよった視線はすぐにヴァレスをまっすぐに射貫く。
「お前は俺の存在に、少しでも動揺した。だからそこにまだ、お前の人間としての情があることを……信じたい」
ヴァレスを正面から見つめる青い瞳に、あぁ――と、ヴァレスは息を漏らした。エルティナが持っていた強い意思が、カイルの中にも確かに宿っている。
「……お前は……エルティナと、よく似ている」
ヴァレスがいなくても、二人の子は立派に成長している。カイルの人生に、ヴァレスの存在は必要ないのだ。それはうれしくもあり、同時に切なさも感じた。
この切なさはヴァレスが生涯背負っていくものだ。カイルを見てこなかった自分への贖罪として、受け入れるべき痛みでもある。
父親らしいことなど、今更できるわけもない。ならばカイルの信頼を裏切らないことだけが、今のヴァレスにできる唯一の償いだ。
「いいだろう」
ゆっくりと閉じた瞼の奥に、父としてのヴァレスを封じ込める。再び開いたその瞳は、冷たい輝きを放っていた。
「俺を過去へ連れて行け」
そう低く呟いて、ヴァレスは己の顔に魔界王の仮面を被った。