08:ロアの告白
遠くの方で、自分を呼ぶ声がする。徐々に近付くその声がレティシアのものだとわかった瞬間、アレスは引き寄せられるように目を覚ました。
「アレス! よかった……。どこか怪我とかしていませんか?」
「……レティシア。ここは……」
勢いよく体を起こしたためか、それとも時空を越えたからか、アレスの頭の中は軽い脳震盪を起こしたように状況が把握できていない。ふらつく体をレティシアに支えられながら辺りを見回すと、ぐにゃりと歪んでいた意識が次第にはっきりとしてきた。
瓦礫の散乱した練習場。少し離れたところにカイルとリシュレナの姿が見える。ゆっくりと起き上がったカイルの姿に、彼も無事に戻って来られたのだと安堵した。
「アレス。一体何があったのですか?」
「何が……。そう、だ。時間魔法で俺たちは過去に……」
おぼろげだった記憶に色が付き、アレスは弾かれたように立ち上がった。覚束ない足がたたらを踏み、倒れ込もうとする体を再度レティシアに支えられる。その手を、ぎゅっと強く掴んだ。
「ヴァレスはどこにいる?」
そう問うと、レティシアは少し逡巡した後、部屋の隅の方へ視線を促した。そこには魔力の鎖で体を拘束されたヴァレスの姿があった。そばにヴィンセントとカミュが立っていることから、ヴァレスの体を封じている鎖は二人の魔法によるものだろう。
仮にも魔界王を名乗るヴァレスだ。あれくらいの拘束魔法など力で押し返せるはずなのに、ヴァレスは特に抵抗する気配もなく、ただ項垂れたままされるがままになっている。心ここにあらず、といった状態だ。
「アレスたちが戻ってきてから、ずっとあんな感じなんです」
「……そうか」
どこから話せばいいのか。そもそもアレスが勝手に話していい事柄ではないような気もした。当事者はカイル、そしてヴァレスだ。
「カイル」
気遣うように名を呼べば、一瞬重なった視線が意図的に外される。彼も、突然知った事実をどう受け止めていいのかわからないのだ。眼帯に隠された魔眼を押し潰す勢いで、ぎゅっと手のひらを顔に押し付けている。
「魔界王がいるということは、おぬしらが渡った過去は違う時間軸だったのじゃな」
「そう、だな。……エルティナが死んだ、あの夜に飛ばされた」
「何じゃと!?」
「でも俺たちからは何も干渉できなかった。過去の出来事をありのまま、見せられた感じだ」
「襲撃によって時間魔法に歪みが生じたから……か? では魔界王は再び惨劇を目の当たりにしたことで、抜け殻のようになっておるのか」
「それは……」
ヴァレスの方を見れば、さっきと同じように項垂れているだけだ。パルシスの言ったように、今のヴァレスには魂というか意識がまるで感じられない。敵意はおろか、生気すらない人形のようだ。
ヴァレスにとって、カイルの存在はそれほどまでに衝撃的だったということだ。そしてそれはカイルも同じだろう。さっきから一度もこちらを見ないし、一言も喋らない。
カイルの隣ではリシュレナが心配そうに顔を覗き込んでいる。そのリシュレナの顔にも、強い疲労の色が浮かんでいた。
「……悪い、パルシス。少し情報を整理したい」
「それは構わんが……」
「レティシアとリシュレナは休んでおいてくれ。ヴァレスは俺が連れて行く」
「どこへ行くんじゃ」
「イルヴァールとロアのところだ。……カイル。お前にも来てほしいが……強制はしない」
しばらく返事を待っていると、諦めたようにカイルがゆっくりと立ち上がった。
「……行く」
それだけを言うと、カイルは一人でさっさと練習場から出て行ってしまった。
未だ茫然としているヴァレスを連れて外に出ると、神殿前の長い階段の途中にイルヴァールたちが揃っているのが見えた。
「何があった? アレス。過去へ渡ると聞いていたが……」
「そうだな。過去には行った」
アレスの背後で項垂れたままのヴァレスを見て、イルヴァールが怪訝に目を細めている。それもそうだろう。時間魔法を阻止しようと襲撃したはずの男が、数分後には腑抜けになって姿を現しているのだ。
そのことを疑問に思えども、イルヴァールはアレスたちの間に流れる微妙な空気を感じ取ったらしい。自分からは何も言わず、アレスが口を開くのを静かに待ってくれた。
「イルヴァール。お前は……世界を創った双龍の一頭だったんだな」
「ほう? これはまた、ずいぶんと古い話をするものだ。おぬしに言われるまで、わしも忘れていたくらいだぞ」
「冗談を言うな。お前だって片割れをなくして、一人でずっと生きてきたんだ。……俺と同じだったんだな」
「人とわしとでは時間に対する感覚が違う。おぬしの三百年など、わしにとっては五、六年だ。それに新しい世界を見ることは苦ではない」
「それでも……お前がそばにいてくれたから、俺は三百年を乗り越えることができたんだ。ありがとう、イルヴァール」
「今更どうしたというのだ? それにその話はもう、この世界の誰もが忘れ去ったものだぞ。おぬし、一体誰からそれを聞いた?」
「……バルザックの妻、リゼフィーネだ」
その名を口にした瞬間、ロアの金色の目がわずかに見開かれた。
聡いロアのことだ。アレスたちが何を見てきたのか、きっともうわかっている。
「俺たちは、エルティナが殺されたあの夜の――その後を見てきた」
しんと、束の間の静寂が流れる。その静けさを動かすべきは、この場でただひとり――ロアだ。それがわかっているから、カイルもロアからじっと目を逸らさない。
たった数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。
軽く両翼を羽ばたかせると、ロアはゆっくりを、長く息を吐いてから頷いた。
「そうか。見てきたのなら、そういうことだ。私はリゼフィーネ様に、竜の形を頂いた使い魔だ。私の目的はただひとつ。カイルを守り、育てること。ただそれだけだ」
真実はとうにわかっていても、もしかしたらという思いがあったことも否めない。けれど改めてロアの口から告げられた言葉を聞けば、やっぱりカイルは胃の奥がずんと重くなるのを感じた。
「……やっぱり俺は、コイツの……」
その先を敢えて口にせず、カイルはヴァレスから視線を逸らした。
「カイル。間違えてはいけない。ヴァレスとお前は違う。たとえ血が繋がっていようとも、その業までお前が背負う必要はないのだ」
「ロア……」
「カイルはカイルだ。胸を張って、堂々と生きろ。それがリゼフィーネ様の願いでもある」
「……何で黙ってた?」
「言う必要がないと判断した。カイルにとって、ヴァレスは過去の遺物だ」
容赦のないロアの言葉に、ヴァレスの肩がぴくりと動いたような気がした。けれどそのわずかな反応もすぐに消え、ヴァレスの周りは再び虚無に包まれていく。
「しかし此度の件で、奇しくも二人の運命が交差してしまった。正直、私もどうすべきか判断しかねていた。そのせいでカイルを苦しめてしまったのなら、すまないことをした」
「別に……謝ってほしいわけじゃない。ただ……心が追いついてないだけだ」
「そうか。……だが、カイル。これだけは心に留め置いてほしい。お前は他の誰でもない、ただのカイルだ。魔界王の影に引きずり込まれないでくれ」
カイルは無意識に、またヴァレスの方を見てしまった。
戦意を失い、すっかり抜け殻になってしまったヴァレスの姿はただただ憐れだ。そうさせてしまったのが子である自分の存在であることに、カイルの胸の中はいろんな感情が渦を巻いている。
そしてその感情に付くはずの名前を、カイルはまだ言葉にできなかった。