07:カイル
誰もが声を失って、リゼフィーネの腕に抱かれた小さな命を凝視している。血に濡れたおぞましいこの場所で、その無垢な輝きはまるで異質だ。あまりに白く純粋な存在は、この場に染みついた悪意にさえ染まってしまうのではないだろうか。そう、愚かにも危惧してしまう。
こちらの存在など見えないはずなのに、赤ん坊は茫然と立ち尽くすアレスたちの方を見て無邪気に笑っている。その大きな青い瞳が一番近くにいたヴァレスを捉えると、ふわふわとした小さな手を真紅の男の方へと伸ばしてきた。
「……っ」
ぎくりと体を大きく震わせて、ヴァレスが赤ん坊から後ずさった。
「何……だ。何をした。それは……その子供は……っ」
「死から呼び戻し、この子の時を少しだけ進めました。あなたとエルティナとの間に生まれるはずだった、二人の子供です」
「違う。子供は死んだ。バルザックがエルティナの腹を裂いて……っ、死んだはずだ! そうでなければ……俺は……っ」
認めたくないとでも言うように、ヴァレスが両手で抱えた頭を何度も強く振る。
エルティナをよみがえらせること、ただそれだけしか見えていなかったヴァレスの視界に、突然現れたエルティナとの子供の存在。忘れていたわけではなかった。ただエルティナをよみがえらせれば、必然的に腹の子もよみがえるのだろうと思っていたのだ。ならば優先順位は必然的にエルティナになる。
そうしてエルティナを求め生き長らえていくうちに、いつしかヴァレスの中から子供の存在が薄れていったことは否めない。だからこそ今、目の前の光景に喜びよりも驚愕と困惑の感情が勝っているのだ。
ヴァレスはここにきて初めて、父親としての自分の立場を突き付けられた気がした。
「これは何もできなかった私の、せめてもの償いです」
そう呟いたリゼフィーネの眼前に、彼女の白い髪が一纏めになって宙に浮く。リゼフィーネが軽く指を動かすと、髪束は見えない風の刃によってバッサリと切り落とされてしまった。
次に魔力の残った片翼から一枚の羽根を引き抜いたリゼフィーネは、髪と羽根とを纏めて握りしめると、そこへ唇を寄せて聞こえないほどの小さな声で呪文を唱えた。
蒼白い光が髪と羽根を包み込み、次第に形を崩していく。一度崩れた形は再び一つに纏まって大きく、更に大きく膨れ上がると、蕾が開くように蒼い光を弾かせた。
バルザックが認めるほどの強い魔力を持つリゼフィーネ。その魔力のひとかけらと、彼女の体の一部を核として作り上げられたそれは、蒼い両翼を広げた一頭の美しい竜だった。
「ロアっ!?」
その竜の姿に真っ先に反応したのは、やはりカイルだった。
蒼にも銀にも輝く不思議な色彩の羽根を重ねた両翼と、星の輝きに似た金色の瞳を持つその竜は、紛れもなくカイルと行動を共にしていたあのロアだ。
竜ではあり得ないその体の色。イルヴァールと同じく人語を理解し、話すこともできるロアに、アレスはずっと不思議な違和感を覚えていた。竜であって、竜ではない。竜に似せて作られていると思った感覚は、どうやら間違いではなかったようだ。そしてアレスたちの敵ではない、という判断も。
「あなたにロアという名前を与えます。どうかこの子を、よろしくお願いしますね」
そう囁いてリゼフィーネが頭を撫でると、生まれたばかりのロアが甘えるように彼女の手のひらに頭をすり寄せた。
「それから、これを。大きくなったら、この子に渡してください。この子が将来、自分の出自に悩んだ時、その道標になるように。生活に困るようであれば、売って頂いても構いません」
リゼフィーネが首から外したネックレスには、金色の指輪がかけられていた。二頭の龍が交差する形を模した指輪だ。重なり合う双龍の頭の部分を台座にして、蒼い石がはめ込まれている。
その指輪と同じ意匠のものを、アレスは見たことがある。ほとんど無意識にカイルを窺い見れば、彼は首から提げたネックレスを服の下から引っ張り出して、信じられないといった表情で自分の持つ指輪を凝視していた。
「昔、この世界は二頭の神龍によって創られたと伝えられています。一頭は世界の礎として大地になり、もう一頭はその世界を静かに見守っているのだと。もともと神界人はその神龍と共に、世界を護り導くための民でした。それがこんな時代を生もうとは……」
リゼフィーネが語る神話は、竜の民として生きてきたアレスでさえ知らないものだった。きっとバルザックの治世で、神話も神界人の役割も継承が途絶えてしまったのだろう。
アレスがイルヴァールを目覚めさせる時、龍のゆりかごで見た夢がある。そこでイルヴァールはラスティーンに、世界のはじまりから生きていると、そう確かに告げていた。
片割れの龍が姿を変えたこの世界を見守り続けるイルヴァール。そしてレティシアが救った世界を護り続けてきたアレス。奇しくも二人は似たもの同士でもあったということか。
「ロア。神龍のように立派にならなくてもいい。あなたが護るべき世界は、この小さな命です」
指輪に軽くくちづけして、リゼフィーネがそこにわずかな魔力を込めてやる。力のない赤ん坊と竜の形を与えられた使い魔が、何の保護もない世界で生きていけるように。
赤ん坊を包む布の奥に指輪を押し込んで、リゼフィーネは最後にロアと赤ん坊の額にも別れのくちづけを落とした。
「神龍を最初に従えたのは、私たち神界人の始まりの王とされています。賢王として残したその名を、この子に授けます。――カイル。どうかバルザックの、忌まわしき血の楔に負けないように」
赤ん坊を包む布の端を咥えたロアを中心にして、再び時間魔法の魔法陣が浮かび上がった。文字盤の針は時計回り。彼らを導く先は、遠い未来だ。
「ロア。カイル。あなたたちを導く未来に、どうか多くの幸せが訪れますように」
光が弾け、ロアと赤ん坊の姿がアレスたちの目の前から消えた。そしてリゼフィーネも、まるで役目を終えたかのようにその体からゆっくりと色が薄れている。
違う。薄れているのはアレスたちの方だ。腕に絡みつく光の糸に体を引っ張られるような感覚がある。過去の……夢の終わりが近付いている。
「リゼフィーネ!」
アレスが叫ぶと、まだ声が聞こえているのかリゼフィーネがこちらを見る素振りがあった。
「俺たちをここに呼んだのはお前なのか!? 過去を見せて、お前は俺たちに何を望んでいる!?」
時間魔法の暴走によって、アレスたちは本来向かうべき過去ではない時代へ飛ばされた。けれどこちらからの干渉もできなければ、向こうからアレスたちを見ることもできない。ただリゼフィーネだけは、その魔力の高さからアレスたちの存在を認識できていた。
でも、それだけだ。惨劇の後、誰もが知らない過去をアレスたちに見せただけで、この「どちらも交わらない邂逅」は終わりを迎えようとしている。
アレスたちがここへ飛ばされてきたのはただの偶然なのか。それともこちら側にヴァレスがいたことで、過去の因縁に引き寄せられてしまったのか。
「どうか覚えておいてください。時間魔法はすべてを助けられる便利な魔法ではありません。それでも……あなたの望む未来が過去の変容にしかないのなら……」
リゼフィーネの視線が、まっすぐにヴァレスの方を向いた気がした。
「月の結晶石を元に戻すよりも、もっと別の方法でエルティナを救うことができるのかもしれません」
エルティナの名前に、ヴァレスがはっと顔を上げた。けれどヴァレスとリゼフィーネの視線が交わることはない。リゼフィーネの目はもうヴァレスではなく、森の向こう――高台に聳え立つ巨大な城の方を向いていた。
「どの未来を選び取るかは、あなたたち自身です。どうか悔いなき未来を……皆の手で掴み取ってください」
最後に淡く微笑んで、リゼフィーネの姿はアレスたちの目の前から完全に薄れて消えてしまった。それを合図にして、体がくんっと後ろへ引っ張られる。
急速に時を駆け上がる感覚に、脳が軽く麻痺するようだ。
いろんな時代が見えた。
魔界王となったヴァレスが、命を薄く伸ばす激痛に耐えながら月の結晶石を生み出した過去。
動かないレティシアを抱いて静かに泣くアレスと共に、終わりを迎えた月の厄災の過去。
送り出された新しい土地で、親代わりの竜と共に健やかに成長していくカイルの過去。
それぞれの過去を追想する合間に、エルティナと共に微笑み合うヴァレスの未来や、龍神界でレティシアと暮らすアレスの未来、リシュレナと二人で世界を旅するカイルの未来も垣間見えた。
――どの未来を選び取るかは、あなたたち自身です。
めまぐるしく移りゆく過去と未来の渦の中、アレスたちが最後に目にした光景は、消えゆくリゼフィーネが指し示したものと同じあの城だった。
そして意識は黒く塗り潰されて、何も見えなくなった。