04:時間魔法、発動
アレスたちは神殿の一階へと移動した。ここはメルドールの時代から今もなお続く、若き魔道士たちのための魔法の練習場だ。アレスも昔メルドールを訪れた時に見たことがあったが、こうして中に入るのは初めてだ。
壁や天井、床に至るまで、どの属性の魔法も吸収する特殊な魔法壁が張り巡らされている。これによって魔道士たちの放った魔法が神殿や他の魔道士を傷付けないようになっているのだろう。しかし吸収できる量は多くなく、未熟な魔道士たちの力に耐えうるだけの強度のようだった。
だからリシュレナが時間魔法の準備を始めた途端、練習場に張り巡らされていた魔法壁はその強大な魔力に耐えきれず粉々に弾け飛んでしまった。一瞬だけ慌てた様子のリシュレナだったが、パルシスが心配ないと無言で頷いて、術の続きを促した。
広い練習場の床には、大きな白い魔法陣が淡い光を纏って浮かび上がっている。きらきらと星が蒸発するように細かな粒子が魔法陣から弾かれており、練習場は神聖でやわらかな光に満たされていた。
「レティシア殿は?」
「エヴァに治癒術を施してもらっている。あいつの体力が戻るまで待つことができればよかったんだが……急を要するからな」
「無理をさせてすまぬ」
「あいつも罪滅ぼしをしたいんだ。心配ない。俺があいつのそばにいる。過去に渡り、必ずお前たちにかけられた術を解いてくる」
「頼んだぞ」
扉が開き、エヴァと共にレティシアが姿を現した。足取りは少し覚束ないものの、顔色はさっきよりもずいぶんとよさそうだ。アレスの隣に来ると、パルシスたち賢者の顔をそれぞれに見て、深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。罪滅ぼしになるかはわかりませんが、私の力でよければ存分に使ってください」
「よろしく頼みます」
「はい」
パルシスと固い握手を交わした後、レティシアはアレスと共に白い魔法陣の中へと進み出た。魔法陣を維持しているリシュレナとすれ違ったその一瞬、わずかに頭を下げて淡く儚く微笑む。
「リシュレナ。あなたにもたくさん謝らなければいけません。もしよければ、過去から戻った時……私に少し時間をくれませんか?」
「……エヴァさ……ま」
姿は違えども、リシュレナを育てたのはレティシアだ。その微笑みに育ての親だったエヴァの面影を見て、リシュレナの視界が涙で歪む。返事の代わりに頷くと、「ありがとう」と小さく答える声がした。
「リシュレナ。過去へ渡る者とおぬしを繋ぐ糸を決して忘れぬようにな。それがなければ、アレスたちは過去からこちらへ戻ってくることができぬ」
「はい。わかりました」
時間魔法で過去を変えた後、再びこの時間軸へ戻ってくるためには術者と渡る者とを繋ぐ糸が必要だ。その糸がなければ過去に取り残され、次第と意識も体も過去の自分と融合するのだという。謂わば命綱である。
「では、リシュレナ。心を落ち着かせ、時の扉を開くのじゃ」
リシュレナの持つ杖の水晶に、金色の時計の文字盤が浮かび上がる。水晶の光に反射した文字盤が床の白い魔法陣に重なるように影を落として、カチッとその秒針が反時計回りに回り始めた。
「悠久の時を機織るユーリスベル。去来の糸を紡ぐスラヴァール。我に応えよ。我が名はリシュレナ。時を操る我が望むは過去の撚り糸。糸を紡ぎ、過去への道を織り示せ」
秒針が進むごとに魔法陣の光が増し、その向こうに立つアレスとレティシアの姿が薄く色をなくしていく。
「過去へ渡る者と我を、時織りの糸で繋ぎたまえ」
カツンと、リシュレナが杖で床を叩く。そこからひとすじの光が魔法陣の方へ流れ、アレスとレティシア、そしてリシュレナを繋ごうとした瞬間――神殿内を大きく揺るがす轟音と共に練習場の壁が激しく吹き飛ばされた。
荒れ狂う風に混ざって、砕けた壁の破片が宙を舞う。被害がこちらに及ばぬよう、パルシスとカミュが咄嗟に張った結界をいとも簡単に破壊して、真紅の男があろうことか魔法陣の中に降り立っていた。
「俺の道具を勝手に使って何をしようとしている」
「ヴァレス……っ!」
「喚んでも来ないと思ったら……どうやってレティシアから魔物を排除した?」
ヴァレスの手がレティシアを捕らえる前に、アレスが剣を構えて二人の間に割り込んだ。ヴァレスからできるだけ離そうと背後に強く押しやった拍子に、レティシアの体が魔法陣の中から弾き出される。
賢者の総攻撃はヴァレスのマントに吸い込まれ、彼に傷ひとつ付けることも叶わない。そうしている間にも時間魔法の秒針は刻々と時を刻み、魔法陣の中にいるアレスとヴァレスを過去へ導こうとしていた。
「レナ! 時間魔法を止めろ!」
「だめ……っ。もう魔法陣が動き始めてる。ここでやめたら、アレスは時の狭間に流されてしまう」
リシュレナとアレスを繋ぐ糸も、ヴァレスの襲撃により断ち切られている。再び結ぼうとしても、魔法陣の中で激しく戦うアレスを捉えることは難しい。それ以上に、この場に渦巻く大量の魔力に翻弄され、リシュレナは魔法陣を維持するのが精一杯だった。
少しでも気を抜けば魔法陣が消滅してしまう。ただでさえ不安定な状態の魔法陣だ。一瞬の隙が命取りになる。
「レナっ!!」
激しく名を呼ぶカイルの声にはっと顔を上げたその先で、ヴァレスがこちらに腕を伸ばしてくるのが見えた。その腕を横から掴んでリシュレナから引き剥がしたカイルが、勢いを殺さないままヴァレスと共に魔法陣の中へ転がり込んだ。
「カイル!」
焦った拍子にリシュレナの意識が逸れ、魔法陣がぐにゃりと歪んだ。
「リシュレナ! 魔法陣を維持させるのじゃ!」
緊迫したパルシスの声が響く。そんなことはわかっているのに、焦れば焦るほどリシュレナの心は千々に乱れ、魔力は大きく揺らいで制御不能になってしまう。
早く魔法陣を安定させなくてはと思うのに、歪んで姿さえ混ざり合い認識できなくなってしまったカイルたちを思うと、杖を握る手がカタカタと震えた。
――その手に、ふわりとあたたかな熱が触れる。
「落ち着いて、リシュレナ。深呼吸をして、もう一度魔力を練ってみて」
リシュレナを背後から抱きしめるようにして、レティシアが一緒に杖を握っていた。
「……レティ……」
「大丈夫。あなたならできる。私も力を貸すわ」
握られた手から、あたたかい力が流れ込んでくるのがわかった。レティシアの……それは子供の頃からずっと感じていたエヴァの優しさと同じだった。つらい時も、うれしい時も、いつもそばにいて見守ってくれていた親としてのぬくもりに、リシュレナの心が落ち着きを取り戻してゆく。
杖を握る手は、もう震えてはいなかった。
「過去へ渡る者と我を、時織りの糸で繋ぎたまえ!」
再度強く、杖で床を叩いた。再び光が魔法陣の中へと流れ、中にいるであろうアレスたちとリシュレナを繋ぐ一本の糸になる。もはや魔法陣の中は歪みきっていて、誰が誰だかわからない状態だ。きっと糸はヴァレスにも繋がれたかもしれない。それでもカイルたちが無事に戻って来ることの方が重要だ。
カチリ、と秒針がちょうど一回りした瞬間――魔法陣から弾き出された黄金の光と共に、アレスとカイル、そしてヴァレスの姿が完全にそこから消失した。