03:巡り逢う魂
深く白い、霧の中にいた。
何をしていたのか、どうしてここにいるのかもわからない。ただ胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、とてつもない空虚感だけがあった。
焦燥に駆られ、無我夢中で腕を伸ばした。闇雲に伸ばした手が何かを掴むことはなく、流されるだけの体は白い闇の底へどんどん、どんどん落ちていく。もがく気力も失われ、そもそももがいていたのかどうかさえもわからなくなる。
わからないことだらけだ。何に怯え、何に悲しみ、何を望んでいたのか。この体に刻まれた記憶が、思いが、白い闇に落ちていくたびに少しずつ掠れて消えてゆく。ただ――ずっと胸元で揺れる深緑色の石を見ていると、不思議と心が安らいだ。
『レティシア』
誰かを呼ぶ声がする。
それはもしかしたら、自分の名前だったのかもしれない。
『レティシア。必ず、お前を見つける』
声は誓う。揺るぎない決意を秘めて。
白い闇を震わせて響く声音に、一片の迷いもない。彼ならば、必ず「私」を見つけてくれるだろう――と。そう思った瞬間、レティシアの周りを囲む白い闇が一変した。
漆黒の空、皓々と輝く満月がレティシアを見おろしている。胸を射貫くような鋭い光に恐怖を覚え、堪らず逃げだそうとした体は、けれどまったく動かない。足元から這い上がった赤黒い触手がレティシアに絡みついて、完全に自由を奪い去っていた。
『逃がすものか』
耳元まで這い上がった触手が、赤い髪の男に姿を変える。男は血に濡れた体でレティシアを背後から抱きすくめたまま、延々と呪詛の言葉を繰り返した。
『あと少しだったのに……。ここまできて、諦められるわけがない』
今度ははっきりと、レティシアは自分の意思で逃げようともがいた。この男は危険だ。捕まってはいけないのだと、本能的に悟る。
けれどもレティシアの脆弱な抵抗など何の意味も成さず、抱きすくめられた背中側にぞわりとした悪寒が走る。その瞬間、背中の傷跡を押し開いて、得体の知れない何かが体内へ侵入したのを感じた。
やめて、と叫んだ声は、音にならなかった。
『エルティナ。……エルティナ。俺にはお前が……お前だけが……』
哀願する男の嘆きを最後に、そこでレティシアの意識が途切れた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。やっと……ようやく「自分」としての自我をはっきりと認識できた。体に染みついていた嫌な感じはなくなっていたが、何かとても……とてもひどいことをしてきたような気がする。誰かを悲しませたような気もする。体が、心が、穢れてしまったかのようだ。
こんな体では帰れない。どこに帰りたいのかもわからないのに、涙だけがほろほろと止めどなく流れてゆく。
いつの間にか、体の半分は涙に沈んでいた。蒼く冷たい、涙の海だ。水底できらきらと輝いているのは、流した涙の結晶だろうか。その透き通る清らかな蒼を見ていると、穢れたこの体も浄化してくれるのではないかと期待した。
いっそのこと、このまま蒼に溺れてしまいたい。考えることを放棄して、泡となって消えてしまいたい。
けれど「私」を呼ぶ声が、それをさせてはくれなかった。
『レティシア』と。そう呼ばれるたびに、遠い記憶に色が付く。もうとっくの昔に失ったはずのぬくもりを全身に感じた瞬間、虚ろだった体の中に溢れんばかりのあたたかな愛おしさが花開いたような気がした。
「……――」
声も満足に出せていないのに、わずかな空気の揺らぎを感じたのか、そばにいた人物がはっと息を呑む音が聞こえた。
誰だろうかと考えることもない。気が遠くなるほどに、ずっとそばにいてくれた大切な人だ。躊躇うように伸ばされた手のひらへ、そっと自分から頬をすり寄せると、いつもは冷静で落ち着きを払っていた深緑色の瞳が涙に濡れていくのが見えた。
「……アレス」
もうずいぶんと長い間その名を口にしていなかったのに、たった一度呼ぶだけでレティシアの心は一気にあの頃の自分へと戻ってゆく。
自分の命を犠牲にして世界を救ったこと。アレスと共に生きたいと嘆いたこと。最期の瞬間に、なつかしい兄とラスティーンの姿も見たような気がする。自分が生きていてアレスと再会できたことに胸の内は驚きと感動でいっぱいだったが、それでもまだどこか夢心地なところはあった。
だから、そっと手を伸ばしてみる。目の前にいる愛しい人は、触れても消えないだろうか。夢ではないのかと、確かな証を求めた指先が、強くあたたかな手のひらに包み込まれた。
「ずっと……お前を探していた」
レティシアが何かを言うよりも先に、ベッドに横たわったままの体を抱きしめられた。その熱を感じた瞬間、レティシアの中でせき止められていた思いが一気に溢れ出した。
「アレス。……アレス……っ」
繰り返し、名前を呼んだ。もう二度と忘れないように。心の奥に傷を付けるほど強く刻み込んで、レティシアは自分を抱くアレスの背中にしがみ付くようにして腕を回した。
なつかしい匂いに、頭の芯があまく痺れる。戻ってこられた。生きて再び出会うことを許されたのだと実感すれば、涙は止めどなく溢れ出て、アレスの肩口をあっという間に濡らしていく。
「私を見つけてくれて、ありがとうございます」
「もう二度と、俺のそばから離れるな」
「……はい……っ」
ずっと抱き合っていたいのに、顔も見たくて少しだけ体を離してみる。それでもやっぱり熱を感じていたくて額を合わせると、今度は鼻先同士をくすぐられた。
二人の間で湿った吐息が絡まり合う。見つめ合ったのはほんの一瞬。重なるくちびるは、あまく幸せな涙の味がした。
***
「レティシア」
三百年待ち望んだ再会には短すぎる時間だったが、今はいつヴァレスが襲ってくるかわからない状況である。身を切られる思いで体を離すと、レティシアも何かを感じ取っているのか、硬い表情を浮かべてアレスを見つめ返してきた。
「何があったのか、覚えているか? お前はあの日、クラウディスとラスティーンに助けられて、月の結晶石を引き剥がされたんだ。その時に生じた時空の歪みに飲み込まれて……今はあれから三百年が経っている」
「操られている間の記憶は、ぼんやりと残っています。ここが、あれから三百年経った後の世界だということも、エヴァに成り代わっていた時に知りました」
記憶があるというのなら、自分が何をしてきたのかもわかっているのだろう。レティシアの表情は暗く、自責の念に駆られているようだった。
「アレス。あなたは三百年もの長い間、私をずっと探してくれていたのですね。その顔の傷から、微弱ですが結晶石の力を感じます。あなたが時を止めてしまったのは、月の結晶石のせいなのですね」
申し訳なさそうに眉を下げて、レティシアがアレスの顔に残る傷跡にそっと触れる。その小さな手を握り返し、大丈夫だと告げるように、アレスはレティシアの手のひらにやわくくちづけを落とした。
「お前を探すのにはちょうどよかった」
「でも私は……私がここに来たのは、三十年ほど前です。ヴァレスの術が切れた今、私の時は動き始めてしまった。このままでは、私はまたアレスを置いて……」
「その時はまたお前を探しに行こう」
確かにアレスの中に残る結晶石の魔力は、三百年の間徐々に弱まりはしても、完全に失われてはいない。アレスの時は止まったままだ。魔物を引き剥がされたレティシアとは、どうやっても歩む時の速さが違う。
それでも、レティシアと再び出会えたことに勝る喜びはない。遠い未来、アレスの中から結晶石の力が完全に消えて、幾度目かのレティシアと共に生を終えることができるのなら――あと少し続く不老の孤独も耐えきれるような気がした。
「レティシア。ヴァレスはどうやってお前を操ったんだ?」
二人を隔てる時間の問題もあったが、今はそれよりも優先すべきことがある。敢えて話題を変えると、レティシアもアレスの意図を汲んだようで、一旦は時間の話を胸の奥にしまってくれた。
「時空の歪みに飲み込まれていたのは私だけじゃなかったんです。ヴァレスも私と同じように、時の狭間をさまよっていました。ヴァレスは私と違って魂だけの存在だったので、本来ならそのまま朽ちていくはずだったのですが……私を見つけて、エルティナへの執着が再びよみがえってしまった」
「……どこまでも奴を動かすのは、エルティナへの思いなんだな」
エルティナの体が失われても、魂を宿したレティシアを時空の狭間で見つけたことで、再度ヴァレスに生きる目的が芽生えてしまった。そこにわずかな希望があれば、ヴァレスはエルティナを諦めることはしない。エルティナ復活こそが、ヴァレスの生きる意味なのだから。
もはやエルティナの影に囚われた、憐れな男だ。
「ヴァレスと共にこの時代に落ちた私は、魔界跡で損壊したヴァレスの体の修復と、砕けた月の結晶石を集めることを命令されました。その後は……アレスも知っている通りです」
レティシアがここに来たのは三十年ほど前だと言った。その間に結晶石のかけらを集め、パルシスたちを操ってヴァレスの体を修復させていたのだろう。結晶石を元の石に戻すために時間魔法も必要になる。だから孤児だったリシュレナを引き取り、エヴァに成り代わって育てることにした。
そうしてすべての準備が整い、後はヴァレスが真に復活を遂げる頃合いを見計らって、呪眠で一気に人々の生気を集めることにしたのだろう。呪眠に罹る者が増えたのは数ヶ月前だ。リシュレナが時間魔法を習得した時期とも合致する。
「いくら操られていたとはいえ、私はこの世界の人々にひどいことをしてしまいました。賢者の方々や、それに……リシュレナにも」
「お前のことに気付けなかった俺にも責任がある。もっと早くにお前を見つけられていたら、お前や他の皆を苦しめずに済んだ」
「いいえ、アレス。私が……」
「でも、起きてしまったことは変えられない」
レティシアの言葉を遮って、アレスは互いに後悔する時間を断ち切った。
自分の意思とは関係なく人々を苦しめ、最終的に魔界王ヴァレスを復活させてしまった後悔はレティシアにも、そして四賢者たちにもあるだろう。もちろん世界を守るために生き続けてきたアレスにも、悪事を見落としてしまった責任は強く感じている。
けれど後悔に下を向いていては、変わるものも変わらない。
アレスたちはこれ以上の悲劇を起こさないために、前を向いて進む責任がある。そうできるだけの力が、いまここに集まっている。
「いま俺たちがやるべきは、後悔に嘆くことじゃない。ヴァレスを止めるために、できることをやろう」
「アレス。……そう、ですね。私に出来ることがあるのなら何でもやります」
「俺たちはリシュレナの時間魔法で過去に渡る。そこでお前には賢者にかけられた術を解いてもらいたい。操られていたお前がかけた術だ。たぶん、お前にしか解呪できない」
「わかりました。やってみます」
レティシアの青い瞳に強い光が戻ってくる。その意思を後押しするように、アレスはレティシアの細い手をぎゅっと強く握りしめた。