12:対峙する魔眼
長いようで短い抱擁の後、カイルは今更ながらにぎこちない様子でリシュレナを腕の中から解放した。
「落ち着いたか?」
「うん。……いろいろと、ごめんなさい。それから、助けに来てくれてありがとう」
気持ちはずいぶんと落ち着いていた。そばにカイルがいるからだろうか。ひとりではないということは、こんなにも心を強くするのだとリシュレナは暗い闇に包まれながら改めてそう思った。
「まだ気を抜くなよ。ここは奴のテリトリーだ。見つかる前にさっさと脱出するぞ」
リシュレナも杖を片手に持ったまま、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。さっきまで自分のものではないと絶望していた魔力も、今はその強大さが心強い。自分を暗闇から掬い上げてくれたカイルを守るためなら、この力も思う存分使えるような気がした。
「出口の方角、わかる? 私が明かりを……」
「待て」
部屋から外に出て行こうとしたリシュレナだったが、肩を掴まれ、やんわりとカイルの方へ引き戻される。どうしたのかと振り返れば、カイルのそばに黒よりも濃い闇が渦を巻いているのが見えた。
「な、なに、それ?」
「ヴァレスの術を真似てみた。お前を攫った時、あいつは魔物の瘴気を使ってアーヴァンと魔界跡を繋ぐ道を作ったんだ。たぶん転送魔法の一種なんだと思う」
「それをどうしてカイルが作れるの?」
「魔物を操ってやることなら、俺にもできる」
そう言って眼帯を軽く上げたカイルは、赤い左目で漆黒の渦を見つめた。カイルと魔物の間に意思の疎通があるのかどうかはわからなかったが、渦がより大きく膨張したのは目で見て確認できた。
「実際に外から魔界跡の内部へ飛べたし、効果は俺で実験済みだ。心配するな。ここから魔界跡の外に出られる。外に出たら待機してるロアと一緒に、もう一回道を繋いでアーヴァンに戻るぞ」
躊躇う暇もなく手を握られる。そのままカイルに連れられて瘴気の渦へ飛び込んだリシュレナは、ねっとりとした舌のような何かが肌を撫で回していく感触にぞくりと背筋を震わせた。あまりの不快感に思わず開いた視界が灰色の曇天を捉えたのと同時に、緊迫したロアの声が辺り一面に響き渡った。
「カイルっ、避けろ!」
反射的に剣を構えて身を捩ったカイルのすぐ真横を、鋭い風の刃が切り裂いた。攻撃を受けることはなかったが、カイルの右頬には衝撃波による切り傷がうっすらと血を滲ませている。
状況を確認する間もなく、再度襲い来る漆黒の風の刃が今度こそカイルを屠ろうとしたその瞬間、二人を守るようにして紅蓮の炎が地を這った。ロアだ、と首を巡らせる前に眼前に降り立った蒼銀色の竜の背へ、カイルはリシュレナを連れて素早く飛び乗った。
二人が乗ったのを確認すると、ロアは翼を大きく羽ばたかせて灰色の曇天高くに急上昇した。その後を追って伸び上がった黒い稲妻に似た触手が、ロアの尻尾に絡みつく。どうあっても逃がさないと、執拗に責め立てる黒い攻撃。その先――、動きを封じられたロアの目の前に浮かんでいたのは、漆黒のマントを翻す鮮血に濡れたひとりの男だった。
「魔界王……ヴァレス!」
苦々しく名を呼んだカイルを、ヴァレスは不可解なものでも見るような眼差しで睥睨した。
「お前は確か、あの竜使いと一緒にいたな? 俺の目をかいくぐって侵入するとは……一体何者だ?」
答えようとしないカイルに、ヴァレスは苛立ちも嘲りもしない。さして興味もなさそうに溜息をひとつこぼすと、胸の前に上げた右手をゆるりと真横に振り払った。
ヴァレスの右手から黒い靄が滲み出る。それは汚れた油のようにどろりと垂れ落ちて固まると、鋭い棘の付いた球体に変化してヴァレスの周りを浮遊した。
「まぁ、お前が何者でも関係ない。リシュレナは置いていってもらおう」
黒い棘の球体に、ぎょろりと赤い眼球が浮かび上がる。それらすべてがカイルたちを目視するや否や、棘を更に長く引き延ばしながら一斉に飛びかかってきた。
ロアの尻尾を掴んでいる魔物は、今やその翼にまで絡みついて動きを完全に封じ込めようとしている。逃げることのできないカイルたちが球体の魔物をすべて躱しきることは難しい。そこに更に攻撃の手を増やして球体を量産したヴァレスが、手下の魔物すべてをカイルに向けて容赦なく投げ放った。
「血の一滴も残さず、食い尽くせ」
眼前にまで迫った魔物が、声にならない雄叫びを上げて棘と触手をカイルめがけて振りかぶる。血に飢えた切っ先が肌を裂くその前に、カイルは左目を隠す眼帯を掴んで勢いよく引き千切った。
「魔物を操れるのは、お前だけじゃないんだよ」
虚勢を張るように、カイルがにやりと笑みを浮かべた。揺れる金髪の奥、ヴァレスと同じ真紅の魔眼が妖しく煌めく。
カイルを貪ろうとしていた魔物が、同時にぴたりと動きを止めた。かと思うと、標的をヴァレスに変えてすべての魔物が飛びかかっていく。
突然命令を放棄して襲いかかってきた魔物に、さすがのヴァレスも驚きを隠せないようだった。しかし目を瞠ったのは一瞬。次いで背後から召喚された巨大な闇の鉤爪に、球体の魔物はあっけなく引き裂かれてしまった。
魔物の残骸が散りゆく灰色の空。若き竜使い――カイルを見るヴァレスの視線が、明らかに変わった。
「その目は、魔眼……だと!?」
対峙する、二つの赤。二人の魔眼。魔物を操ることのできるその目は、魔物を束ねる王の証だ。
「一族の生き残りがいたと、いうのか……? いや、違う。お前の纏う気配はひどく不快で……なつかしい……? ……何だ、お前は。何なんだ……」
戦意が削げ落ち、ヴァレスは明らかに動揺していた。逃げるには絶好のチャンスだ。幸いこの地には操れる魔物の気配がそこかしこにある。
未だ茫然としているヴァレスの虚を突いて、カイルが魔眼に意識を集中させた。周囲に漂う魔物同士が絡まり合い、ぐるりと円を描きながらカイルたちの後方に集まりはじめる。魔物による、転送魔法だ。術に緻密な魔法式を加えるやり方はわからないが、とりあえず行き先に魔法都市アーヴァンを強く念じてみると、カイルの意思を読み取ったように黒い瘴気が更に大きく渦を巻いた。
「しっかり掴まってろ!」
背中に添えられた手に力が篭もるのを感じて、リシュレナもロアから振り落とされないようにカイルの体にしがみ付いた。またあのねっとりとした感覚を体験するのは正直恐ろしかったが、体を包むカイルの力は変わらずリシュレナのそばにある。
カイルはリシュレナを裏切らない。その確かな思いが、リシュレナに挫けない勇気を与えてくれた。
杖に魔力を込めて、リシュレナはロアごと自分たちの周りに簡易の結界を張った。これで多少は移動の際の不快感も軽減されるはずだ。ついでに水晶にも淡い光を灯すと、それは暗い未来に差し込む希望の道標のようにも思えた。
過去はもう振り返らない。
リシュレナが大事にしたいものは、カイルが指し示してくれた未来にある。その光の中を笑顔で歩んでいけるよう、リシュレナは結晶石がもたらすレティシアの記憶と決別した。
「戻るぞ。アーヴァンへ」
「うん!」
ロアの咆哮を合図に、渦の中へ飛び込んでいく。追撃が来るかと肩越しに背後を振り返ったカイルの魔眼が、もうひとつの血に濡れた双眸と一瞬だけ重なり合う。
だが、それだけだ。
ヴァレスはカイルたちを追う気配もなく、未だ茫然としたまま転送魔法の闇に遮られ消えていくだけだった。