11:リシュレナが手に入れたもの
どれくらいそうしていたのだろう。一切の光さえ差さない暗闇の中、時間を知る術もなければ、体の感覚さえも狂わされていく。壁際に蹲ったまま、リシュレナは自分が何をしていたのかすらわからなかった。物思いに耽っているつもりで、一瞬うたた寝していたのかもしれない。自分の指先も見えない中、存在自体が闇に溶けてしまったかのようだ。
身に染みた癖で杖を握りしめてはいるものの、先端に付いた水晶に明かりを付ける気にはなれなかった。それでもこの場において唯一頼りになるものでもあるから、リシュレナは杖を完全に手放すこともできない。そんな自分に嫌気が差して、リシュレナはまた立てた膝に顔を伏せて項垂れてしまった。
リシュレナがヴァレスに攫われたと知れば、きっとアレスは救出に来てくれるだろう。月の結晶石を復活させないために、アレスは死に物狂いでリシュレナをヴァレスから遠ざけてくれるはずだ。けれどそれは、リシュレナが月の結晶石のかけらを持ち、時間魔法を行える唯一の人間だからに過ぎない。
アレスにとっての一番は今も昔もレティシアただ一人で、そこに偽りの記憶を持ったリシュレナの入る隙間は最初からどこにもなかったのだ。
かなしい。
せつない。
むなしい。
そう嘆くこの思いだって、月の結晶石がもたらす偽物の感情なのだろう。アレスと出会い、一気に芽吹いたレティシアとしての記憶に、思えばリシュレナの自我はどんどんと飲み込まれていったように思う。けれどもう、リシュレナは自分の思いがどこにあるのかさえわからなくなってしまった。
ただひとつわかるのは、リシュレナはもうレティシアではいられないということだ。
じわりと目頭が熱く潤んだ。泣いている場合ではないのに、周りを覆う闇が心まで侵蝕してきて、リシュレナに激しい孤独を植え付けてくる。
この世界に何も持たない「リシュレナ」はいらない。必要なのは人形として育てられた「リシュレナ」の方だ。体内にある月の結晶石のかけらを失い、時間魔法を行えなくなったリシュレナは――誰からも必要とされない。
ふと、何の前触れもなく、脳裏に金髪の青年の姿が浮かび上がった。
不器用で、けれどやさしい隻眼の青年は、思えばいつもリシュレナのそばにいてくれた。無謀な願いを承知でリシュレナを魔界跡へ連れて行ってくれたし、アレスのことで悩んでいる時もロアの背に乗せて獣人界の空中散歩に連れ出してくれたりもした。
アレスを追うことに夢中で気付かなかったけれど、こうして一人きりになった今になってその存在の大きさに気付いてしまった。無条件でそばにいてくれるカイルを当たり前だと感じていた自分がひどく恥ずかしい。
きっともう、カイルだってリシュレナに愛想を尽かしただろう。元々カイルがリシュレナたちと行動を共にする理由もなかったのだ。謂わば成り行きで魔法都市までついてきてくれたカイルが、ここから先、魔界王ヴァレスを相手に自ら危険な道へ進むこともないだろう。そして去っていくカイルを引き止める権利も、リシュレナには最初からないのだ。
(私は……ひとりだ)
すっと、胸の奥が冷えていく。こぼれた涙の熱も心を温めるには足りず、体温さえも闇に奪われていくようだ。
唇をきゅっと噛み締めて、必死に嗚咽をこらえてみた。けれども静まり返った闇の中ではわずかな努力も虚しく、リシュレナの泣き声は暗い廊下の向こうにまで響き渡っていった。
「また泣いてるのか?」
唐突に。
その声は闇を揺らして、確かにはっきりとリシュレナの耳に届いた。
はっと顔を上げても、漆黒の闇の中では声の主はおろか自分の指先さえも見えない。慌てて手にした杖に魔力を込めようとして、リシュレナは一瞬だけ躊躇ってしまった。
耳にした声は、孤独からくる幻聴かもしれない。もし明かりを付けた先に何も見えなかったとしたら、リシュレナはまたいたずらに心を乱されてしまうだろう。そうなってしまえば、今度こそ声を上げて泣き喚いてしまうかもしれない。
けれど――。
「そこにいるんだろ?」
再び聞こえた声に、リシュレナは無我夢中で杖に魔力を注いで闇の中に明かりを灯した。
ぼぅっと薄明かりに照らされた視界の端に、かすかに動く人影が見える。それが誰かを確認するまでもなく、リシュレナは嗚咽に震えた声音で彼の名を呼んだ。
「……カイル」
「やっと見つけた」
格子状に入口を塞ぐ魔物の檻の向こう側、息を潜めて周囲の様子を伺うカイルの表情は少しだけ疲弊しているように見える。死と血のにおいしかない魔界跡の深部だ。黙って座っているリシュレナでさえ生気を奪われる気がするのだから、ここを探し当てるまでにさまよい歩いたカイルの疲労は相当なものだろう。そんな思いをしてまで魔界跡に降りてきたカイルの行動に、リシュレナはただ驚くばかりだ。
「どうして……」
「どうしても何もないだろ。こんなところ、さっさと出るぞ」
左目の眼帯を少しずらして、カイルが入口を塞ぐ魔物を睨む。赤い魔眼に魅入られた魔物はしゅるしゅると闇の向こうへ消えていき、リシュレナを閉じ込めていた檻はあっという間に解放される。きっとここに来るまでも、カイルは魔眼を使って魔物を避けてきたのだろう。彼の顔に浮かぶ疲労の色は度重なる魔眼の使用のせいだったのだ。
「立てるか?」
大股で部屋の中に入ってきたカイルに腕を掴まれる。けれどもリシュレナはわずかに腰を浮かせるだけで、立ち上がるだけの気力がなかった。魔界跡の闇に体力を奪われているからだけではない。リシュレナの心は、もう悲しみと絶望の底に沈みかけていた。
「……どうして、来てくれたの? 私にはもう……何も残っていないのに」
「レナ?」
呼ばれた愛称に、リシュレナは一瞬だけ自分の存在を許されたような気がした。
結晶石を復活させるためだけに育てられたリシュレナを、ただのリシュレナに戻してくれる。レナと呼ぶカイルの声は、闇に堕ちかけたリシュレナの心を優しく掬い上げてくれるようだった。
その声に甘えて、彼の手を取りたいと思った。
けれど、ずっとカイルを見てこなかった自分にその資格があるとも思えない。都合のいい時だけ救いを乞おうとする自分に、また嫌気が差す。
「私は結晶石をよみがえらせるためだけに育てられた、ただの人形だった。私を育ててくれたエヴァ様はレティシア本人で……そんなことも知らずに、私は自分をレティシアだって信じてて」
喋るたびに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。今は逃げる方が先なのに、一度堰を切った思いは止まることを忘れたかのように後から後から溢れてくる。そんなリシュレナをカイルは黙って見つめているだけだったが、腕を掴んだ手は決して離そうとはしなかった。その力に、リシュレナはまた甘えてしまいそうになる。
「バカみたい。ひとりで浮かれて、ひとりで嘆いて……。もともと最初から、私は何も持っていなかったのに。時間魔法だって、この体に埋め込まれた結晶石がもたらした産物で、私が自分で手に入れたものなんて……何ひとつ、なかったの」
言葉にすると惨めさが際立った。
「私には、何もない。皆が必要なのは時間魔法を操るリシュレナで、ただのリシュレナは……」
「必要ないとか言うなよ」
少しだけ怒ったように、カイルの声が低く響いた。腕を掴む手にもわずかに力が篭もる。
「カイ……」
「本当に必要ないのなら、こんなトコまでお前を迎えになんか来ないだろ」
そう言って腰を落としたカイルが、リシュレナを正面から見つめてきた。眼帯に隠されていない青い右目は宝石みたいに輝いて、その清らかでまっすぐな光はリシュレナの心に漂う闇にひとすじの光を差し込んでくる。
カイルの言葉に、淡い夢を見てもいいのだろうか。時間魔法を操るリシュレナではなく、ただのレナを救うためだけにここまで来てくれたその行動の理由を、自分の都合のいいように解釈しても許されるだろうか。
「レナ」
カイルがリシュレナを呼ぶ。どんな時も、カイルはずっとレナと呼んでくれた。彼の中でリシュレナはずっと、ただの「レナ」だった。そう思うと、リシュレナの瞳から、またぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「お前はひとつ勘違いをしてる。自分が何も手に入れてないなんて、そんなことはないだろ。レナ、お前自身が手に入れたものがあるはずだ」
「……え?」
「いまさら忘れたとか言わせねーぞ。初対面で魔界跡に連れて行けって、無理難題を押し付けた相手がいるだろ」
「あ……」
確かにカイルの存在は、ヴァレスや操られていた賢者たちにとっても予想外だったはずだ。それは決められた道を歩むだけだったリシュレナが、唯一自分で手にした繋がりでもある。ヴァレスにとって見れば脅威にすらなり得ない微弱な力でも、今のリシュレナにとっては自分自身の存在を認めてくれる強力な絆だ。
リシュレナをリシュレナとして見てくれる相手は、出会った時からずっと変わらずそばに在り続けていたのだ。
「カイル。……私……」
涙が止まらない。こんな自分を見限らず、魔界跡まで追ってきてくれたカイルの存在がリシュレナの中で大きくなる。それは結晶石がもたらすレティシアの記憶すら飲み込んで、リシュレナだけが持つことのできる確かな感情の輝石として、進むべき道を照らし出してくれたような気さえした。
「いい加減、泣き止め。いつからそんなに泣き虫になったんだ?」
「そんなこと言われても……だって……」
腕を少し強引に引かれたかと思うと、リシュレナは瞬きする間もなくカイルの腕の中に抱きしめられていた。
「カイル……!?」
「笑ってろ」
耳朶をくすぐる吐息の熱に、胸の奥までがじんとあたたかくなる。そのぬくもりが心地良くて、リシュレナは無意識にカイルの背に腕を回してきゅっとしがみ付いた。
そのわずかな力に、カイルの肩がぴくりと震える。けれどリシュレナを抱きしめる腕が離されることはなかった。
「お前は笑ってた方がずっといい」
「……うん」
抱き合いながら、至近距離で見つめ合う。涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を見られるのは恥ずかしかったけれど、それでもぎこちなく笑ってみせると、カイルも安心したように微笑んでくれた。それがうれしくて、リシュレナはまた涙をひとつこぼしてしまった。