09:蒼に溺れる
静寂を揺らして、湖面を震わせるかすかな水音がした。
深い緑のトンネルを抜けた先、木々の天蓋が開けた頭上から白銀の月光が降り注いでいる。蒼く透き通る水面が怯えるように震えていた。そのたびに広がる銀色の波紋、その中心に翼を広げ立っているのはレティシアだ。
物憂げに水面を見つめるその姿は、まるで月の化身かと見紛うほどに美しい。片翼が闇色に染まろうとも、レティシアの持つ内包的な輝きは何も変わらない。アレスが愛した、あの頃のままだ。
レティシア、と。声にならない声で名を呼んだ。心よりも先に動いた足元で小枝が小さな悲鳴を上げ、その音に驚いたレティシアが見てわかるほどに肩を震わせてアレスの方を振り返った。
「竜使い……っ」
未だアレスの名を呼ばないレティシアだったが、その表情は嫌悪感というより困惑の色が強く滲み出ている。精霊界の清浄な空気に触れて、レティシアの中に潜む魔物の気配が薄れているのだろうか。押さえつけられていた記憶が揺り動かされているのであれば、この蒼い水面のように、ほんのわずかな振動を与えるだけでその波紋はレティシアの心に届くかもしれない。
逸る気持ちのまま、更に一歩進み出れば、レティシアは怯えたように背の翼を大きく羽ばたかせた。
「来るな!」
「レティシア」
逃げようとするレティシアよりも早く翼を広げ、アレスは空を駆け上がった。伸ばした手に、今度こそレティシアを捕まえられるように。捕まえたら二度と離さないと誓うように。三百年ものあいだ積み重なった孤独を浄化して、ただひとつ求め続けた希望に――やっとアレスの指先が届く。
触れた瞬間、無我夢中で細い腕を引き寄せた。びくりと震える華奢な体を強引に腕の中に閉じ込めて、壊してしまいそうなほどにきつく、暴力的に抱きしめる。
力の加減などできるわけがなかった。腕の中で、レティシアがなおも激しく暴れている。そのたびに巻き上がるレティシアの匂いに、頭の奥がくらくらした。
「レティシア……っ!」
「離せっ!」
互いの翼がぶつかり合い、蒼い水面に白と黒の羽根が舞い落ちてゆく。
こんなにもわがままに、自分の思いをぶつけたことはない。レティシアに触れる時はいつも優しく、彼女が怯えないように接してきたつもりだ。
けれど今は違う。レティシアを気遣う余裕もなければ、冷静でいられる自信もない。そんなアレスの思いを表すように、彼の背で羽ばたいていた二枚の翼が光に弾けるようにして消えた。レティシアの両翼だけでは二人分の体を支えられるはずもなく――。
二人はもみ合うようにして、蒼くゆらめく湖の中へと落下した。
真珠色のやわらかい水の泡に包まれて、どこまでも深く沈んでゆく。それはかたく閉ざされた記憶の底へ落ちていく感覚にも似ていて、レティシアは心の奥がさざめき立つのを感じた。
見開いた視界。蒼水晶の咲く湖の中は差し込む月光に淡く照らされて、銀にも蒼にも揺らめいていた。清浄で、畏怖すら感じる月光と冷たい水に包まれながら、レティシアはアレスにきつく抱きしめられたまま緩やかに水底へと落ちていく。堕ちていく。アレスという存在に心が陥落していくのをとめられない。深く、どこまでも深く自分の中に押し入ってくる感情を――受け入れたいと、願ってしまった。
体を捕らえる腕の中から逃げ出したいのに、この熱と強い力を心地良いと感じてしまう。アレスに触れられた箇所すべてが、火傷するように熱かった。
レティシアが逃げられないように、体を捕まえるアレスの力は痛いくらいだ。このまま抱き殺されるの先か、それとも呼吸が続かずに溺死するのが先か。
あまりの息苦しさに、もがく腕が触れた何かにきゅっとしがみ付く。それがアレスの背中だったことは、ようやく水面に浮上した時にわかった。アレスがレティシアを抱きしめているように、レティシアもまたアレスの背に腕を回して体を預けきっていた。その儚くも強い力に喜びを感じているのか、レティシアの名を呼ぶ声が少しだけやわらかさを纏う。
「レティシア」
「やめろ……。私を呼ぶな」
「お前が俺を思い出すまで、何度でも呼んでやる」
ささやくように呼ばれる名前が、レティシアの濡れた耳朶をくすぐっていく。掠める吐息は熱く、鼓膜を震わせる声音はどこまでもせつなくて、あまい。
体が、心がおかしくなりそうだ。もうすでにおかしくなっているのかもしれない。今すぐここから逃げ出したいのに、足は水底につかず、泳げないレティシアはアレスから手を離せば水中に溺れてしまうだけだ。もしもアレスがそれを知っていたのなら、レティシアを巻き込んで湖に飛び込んだのはわざとだったのかもしれない。
意地悪な確信犯に苛立ちを覚えつつ、けれどレティシア自身も翼を広げ逃げ出す思考がすでに失われている。この状況に、無意識に身を委ねてしまっていると気付けていないのだ。それほどまでにアレスの腕の中は、欠けたものがぴったりと収まるように気持ちがよかった。
「お前は、一体何なんだ。なぜ私を追いかける……!」
答える代わりに、アレスの腕の力が増した。
「離せ……! ……離、して……っ」
「嫌だ」
低く響いた声に、レティシアの胸がどくんと鳴る。いつだろう。以前も同じやりとりをしたような気がする。
はっとして、思わず顔をあげたレティシアの瞳と、アレスの深緑の瞳が間近で重なり合う。その強くまっすぐな視線に射貫かれて、レティシアはまるで全身が麻痺したかのようにアレスから目を逸らすことができなかった。
「……アレス……」
ぽつりと。ほとんど無意識に呟いた名前に、レティシア自身が驚愕する。敵であるはずの男の名は以外としっくり舌に馴染み、名を紡ぐ声音も自分が発したとは思えないほどにやわらかい。
まるで腑抜けだ。なつかしさすら感じる美しい蒼の世界で、あろうことか敵に抱きしめられ、それを心のどこかで待ち望んでいた自分を実感してしまった。
「もう一度、名を呼んでくれ」
レティシアに名前を呼ばれたことがよほどうれしいのか、アレスは深緑色の瞳を細めて、今にも泣きそうに……儚く微笑んでいる。
「レティシア。お前の声で、俺の名前を呼んでくれ」
乞うようにあまく強請られて、レティシアの胸が自分でもわからない喜びに打ち震えた。
「……ア、レス……」
「あぁ。……もっと聞かせてくれ」
「……アレス。……アレス……っ」
「レティシア」
吐息のように名を呼び返して、アレスがレティシアの頬を右手でそっと包み込んだ。反射的にレティシアの肩がぴくりと震えて、頬を包むアレスの指先が怯えたように離れようとする。それを嫌だと告げるように、レティシアは離れていこうとするアレスの右手に自ら頬をすり寄せた。
もう、自分を誤魔化せない。
レティシアはこのぬくもりを、愛おしいのだと感じてしまっている。
再び重なる視線に、熱が絡まるのがわかった。
どこか安心したようにアレスが淡く微笑んで、レティシアに覆い被さるように身を屈める。
「やっと見つけた」
アレスの声に重なって、彼の髪先から滴り落ちたしずくが蒼くゆらめく水面をやさしく揺らした。そのかすかな水音に意識を戻される間もなく、レティシアの唇をアレスの熱い吐息が掠めてゆく。
「今度は逃げないでくれ」
その言葉に反応して、レティシアの背から白と黒の翼が大きく羽ばたいた。逃げるためではなく、ただ誰の目からも隠れてしまえるように広げられる。羞恥心と、敵に堕ちた罪悪感を、月にさえ見られたくないと思った。
広げた翼の先がアレスの翼に触れる。レティシアと同じように大きく羽ばたいたアレスの翼は互いの体をすっぽりと覆い隠して、その狭い空間だけがまるで二人に許された世界のようだ。
ここにはレティシアとアレスの二人しかいない。
あまい罪は、互いの翼が覆い隠してくれる。
――アレス、と。再度名を呼んだ声は、塞がれたくちびるの奥に消えていった。それを合図にレティシアの中で光が弾け、激しい記憶の波が頭に、心に、体中に駆け巡ってゆく。
あまりの激しさに息ができないのは、押し寄せる記憶のせいか、それとも息継ぎすらままならないくちづけのせいか。けれどその苦しさを嫌だとは思えない。むしろずっと待ち望んだ触れ合いに、閉じた瞼を押し上げてひとすじの涙がこぼれ落ちた。
落ちてゆく。
溺れてゆく。
記憶の波に、アレスの熱に、触れ合うやわらかなくちびるに。
アレスを求める気持ちが止められないのなら、もういっそのことこの蒼くゆらめく世界に二人で永久に溺れてしまいたいと――そう愚かにも願ってしまった。