05:結晶石の傀儡
夜の訪れた魔法都市の上空に、巨大な繭が浮かんでいた。元は白かったはずの繭は赤黒く変色し、わずかにひび割れた隙間から時折鈍い金色の光が呼吸するように点滅している。
繭を支えるのは五本の支柱だ。赤黒い糸をいくつも絡めて強化された柱は魔法都市を穿つかのように突き刺さり、そこから広がる蜘蛛の糸にも似た粘着質な触手が街全体を侵蝕している。その街のいたるところに、アーヴァンの住民たちが倒れていた。触手は彼らの体にも纏わり付き、そこからじわじわと生命力を奪っているかのようだった。
「これは……呪眠か!」
イルヴァールの背に乗って上空から街を見おろしたアレスは、その光景の異様さに息を呑んで絶句した。倒れた住民たちの様子は、今まで見てきた呪眠に侵された町や村の姿と類似している。唯一違うのは、住民たちに直接纏わり付いている触手だ。悪事が明るみに出た以上もう隠す必要もないと言わんばかりに、触手はなりふり構わず生命力を奪い始めている。それに合わせて、魔法都市上空の巨大繭がまた強く朱金の光を輝かせた。
「街の奴らは大丈夫なのか!?」
「今はエヴァを信じるしかない。俺たちはリシュレナを取り戻しに行くぞ」
正気に戻ったパルシスならば、この現状を見て即座に指示を出せるはずだ。彼らはアーヴァンを統治する四賢者だ。皆が揃えば、呪眠を解除できないまでも、その速度はかなり落とせるだろう。
エヴァに渡したものと同じ羽根をパルシスたちの分まで渡せればよかったが、万が一に備えてアレスも力を温存しておきたい。今はエヴァの治癒術を信じて、アレスは魔法都市の上空、魔界王のゆりかごとなった赤黒い繭を目指して空を駆け上がっていった。
***
めまぐるしく変わる状況に、思考がまったく追いつかない。
魔界跡でパルシスたちの裏切りに遭い、そして水の賢者エヴァに救われた。親代わりでもあるエヴァが味方であることを心強く思った矢先に、今度はそのエヴァ本人によってリシュレナは体の自由を奪われ、魔法都市の上空へと連れ去られている。
リシュレナの目の前には、魔界跡で見たあの不気味な繭があった。赤黒く色を変えた繭の表面はずいぶんと膜を薄くして、その中にあった人の影をより鮮明に浮かび上がらせている。急激な回復の理由は、住民たちの生気を一気に奪っている呪眠だ。眼下に見える光景に、以前カイルと訪れたアグレアの町を思い出して、リシュレナの背筋がぞっと震えた。
「エヴァ様。正気に戻ってください!」
「私は正気よ、レナ。あなたを引き取った時から、ずっとね」
リシュレナの愛称を呼んだ声が、今は空々しく響く。
幼い頃からエヴァを母として、時には姉として慕ってきた。そんなリシュレナを、エヴァはどういう思いで見てきたのだろう。記憶に残る優しい微笑みも、今まで注がれてきた愛情も、まだリシュレナの中に強く残されているというのに、目の前のエヴァだけがどんどん形を変えていく。歪んでいく。
まるで薄氷の上に作られた虚像のようだ。リシュレナが呼吸を繰り返すたびに、その振動でエヴァとの思い出に罅が入っていく。
「ヴァレス様の復活はもうすぐよ。最後の仕上げはあなたにやってもらおうかしら」
「何、を」
「うふふ。心配しないで。大丈夫。命までは取らないわ。だってあなたにはまだやってもらわなくちゃいけないことがあるんだもの」
笑う声は可憐なまま、エヴァがリシュレナの腕を強く引いた。拘束の魔法をかけられているリシュレナはまともに歩くことができず、空中に膝を付いた状態で倒れ込んでしまった。その拍子に、リシュレナを中心にして足元に水の波紋が広がった。二人の足元には、目に見えない水の床が張り巡らされている。その魔法の属性を目の当たりにして、リシュレナの胸がまた強く軋んだ。
エヴァは本当にリシュレナを道具としか見ていない。笑う顔はやわらかさを残しつつも、リシュレナを見つめる水色の瞳の奥に、もう育ての親としての愛情を感じることはなかった。
「リシュレナ。あなたの生命力を少しだけヴァレス様にもらうわね」
リシュレナの体がふわりと浮いて、そのまま赤黒い繭の方へ引き寄せられた。繭の表面からは産毛に似たいくつもの小さな触手が伸びてきて、リシュレナの生命力を奪おうと動けない体に絡みついてくる。触れた箇所から急速に熱を奪われ、リシュレナの視界がぐにゃりと歪む。
「エヴァ様……っ」
「私はもう、エヴァではないわ」
静かにそう告げたエヴァの顔から笑みが消えた。
「ヴァレス様のためだけに存在する、彼の傀儡」
「……あなたは、一体……」
ごぅっと大きなうねりを伴って冷たい風が吹き抜けていく。ひとつに纏めていたエヴァの髪が強風に煽られてほどかれ、リシュレナの目の前で星屑のように煌めいた。
その輝きは――銀色だ。
風に靡く長い銀髪の隙間から、宝石のように青い瞳がリシュレナをじっと見つめている。髪の色も、瞳の色もエヴァと違う。見慣れた顔さえ変えて目の前に立つ女性の姿に、リシュレナはすみれ色の双眸を大きく見開いて絶句した。
その色を知っている。その姿を知っている。神殿の壁画に彫られたレリーフの曖昧な象徴などではなく、リシュレナは自身の夢の記憶としてはっきりと彼女の姿を覚えていた。
三百年前の月の厄災で、命と引き換えに世界を救った月の佳人。英雄アレスの恋人で――そしてリシュレナの前世だったはずだ。そう信じて疑わなかった。
天界ラスティーン最後の姫、レティシア。結晶石と共に散ったはずの彼女が、リシュレナを憐れむように小さく笑う。
身寄りのないリシュレナを育ててくれたのは、エヴァではなく……それはエヴァに化けたレティシアだった。リシュレナはずっと、本人を前にしてアレスへの恋心を募らせていたのだ。
「レティ……シ、ア」
こぼれた声は、おかしいくらいに震えていた。
その名を呼ぶことが怖い。名前を呼べば、彼女の存在を認めることになる。認めてしまえば、今度はリシュレナの存在が淡く掠れてしまう。
こんなにも滑稽な話があるだろうか。魔界王ヴァレスの夢に呼ばれ、アレスと出会った。三百年前の過去を自分のものと勘違いし、アレスに抱いた淡い恋心をエヴァに化けたレティシア本人に諫められる。
何もかもが、作られた人生だ。ヴァレスの夢も、淡い恋心も、習得した時間魔法もすべて、リシュレナの中に埋め込まれた月の結晶石のかけらがもたらしたものに過ぎなかったのだ。そこにリシュレナの意思は必要ない。いや、必要ないと拒否されるほど、リシュレナは「自分」の思いを持っていただろうか。
たとえば今、この体から結晶石のかけらが取り出されたとして、リシュレナには何が残るのだろう。
何もない気がした。リシュレナは常に、記憶に残るレティシアの影を追い求めてきた。自分こそがレティシアで、アレスとの恋を今度こそ実らせるのだと夢をみた。けれど現実はリシュレナの稚拙な夢を真っ向から否定して、残酷な真実を突き付けてくる。
胸を締め付ける絶望が濃さを増す。自然と溢れた涙に視界が歪んで、目の前のレティシアの姿が二重に見えた。
――あぁ……。私の方こそ、結晶石の傀儡だ。
抵抗をやめた体が、一気に繭の中へと引きずり込まれる。つらい現実から目を背けようとして瞼を閉じた瞬間。遠くの方でリシュレナの名を呼ぶカイルの声が聞こえたような気がした。