03:最後の魔導球
地下を出て、リシュレナと会った場所まで戻ったところで、神殿内に大きな爆発音が轟いた。音の発生源は上からだ。神殿の上層階には四賢者たちの執務室がある。そして執務室には、リシュレナとエヴァがいるはずだ。
「レナ!」
アレスを追い越して、カイルが階段を駆け上がっていく。エヴァの執務室がどこなのかわからなかったが、神殿の三階に差し掛かった時、一部屋だけ扉が粉々に砕け散っているのが見えた。
確認せずとも、そこがエヴァの執務室だろうと直感する。二人とも武器を手に駆け込んだものの、室内はすでにもぬけの殻で、壊れた家具や割れた窓ガラスの破片が床いっぱいに散乱していた。
執務室から続くもうひとつの扉は仮眠を取るための簡易的な寝室だろうか。そちらにもずかずかと足を踏み入れるカイルを尻目に、アレスは執務室に何か残されていないか辺りを注意深く観察した。
床に散らばったガラス片。割れた窓ガラスから吹き込む風が、執務机から資料の束を巻き上げている。その乾いた音を辿ったアレスの瞳が、ふと中途半端に開いている執務机の引き出しを捉えた。手がかりを求めて引き出しを開けると、両手で包み込めるくらいの大きさしかない水晶球が転がり出てきた。
パルシスは月の結晶石を小さな水晶球の中に保管したと言っていた。ならばこれがそうかと思ったものの、エヴァの引き出しから出てきた水晶球は普通のものだ。
月の結晶石が埋め込まれた水晶はこれではない。
けれどアレスは、この水晶球を誰よりもよく知っていた。
「……魔導球!?」
なぜこんなところに……と、思わず魔導球に触れた瞬間。
「おう! アレス、遅かったな」
唐突に聞こえた懐かしい友の声に、アレスはびくりと肩を震わせて振り返った。そこはもうエヴァの執務室ではなく、新緑の木漏れ日がやさしいそよ風に揺れる獣人界の景色が広がっていた。
アレスの目の前には小麦色の肌をした中年の男が立っている。皺の増えた顔には無精髭も生えていたが、アレスにはそれが誰だか言われなくてもわかった。思わず名を呼ぼうとしたが、アレスの声は別の男の声によって遮られてしまった。
「勝手に待ちくたびれるな。俺はだいたい時間通りだぞ、ロッド」
「そうだったか? いやぁ……俺、朝から待ってたからな!」
豪快に笑うロッドの姿は年相応に老いてはいたが、それでも底なしの明るさと無邪気な笑顔は健在だ。その彼の隣に立つ男の姿に、アレスは目を見開いた。
「……俺、か?」
ロッドの隣には、アレスが立っていた。月の結晶石の影響で時間を止めたアレスと、時の流れのまま老いていくロッド。二人は今、アレスの目の前で他愛ない雑談に花を咲かせている。その奇妙な光景に驚いて、思わずもう一人の自分の体に手を伸ばしてみる。するとおおよその予想通り、アレスの指先はもう一人の自分の体をすり抜けていった。
「何だ……これは」
アレスの声に反応したのか、二人の姿は淡い光を纏いながらゆっくりと薄れほどけてゆき、やがてそれは小さな水晶――魔導球の姿に変化した。二人の幻影は水晶球の上部に浮かび上がり、アレスは魔導球の光が映し出す映像を眺めている。いつの間にか獣人界の風景も消え去っており、アレスを包むのは前も後ろも何もない、ただ白いだけの空間だ。
『ロッド。お前のそれ、魔導球だよな。どうした?』
『試作だから実験に使えって、メルドールが置いてったんだ。お前が持ってるやつはレティシアの姿を映すだけだろ? これは姿だけじゃなくて、声も残せるって言ってた。もちろん成功すればの話だけどな』
声よりも雑音の方がひどかったが、それでもロッドの存在はアレスの心を軽くしてくれる。そういえば昔こうして話したことがあった……と感傷に浸っていると、不意にアレスの前で誰かが動く気配がした。
同じようにカイルも飛ばされてきたのだろうか。そう思って顔を上げた先、アレスと向かい合う形で魔導球を覗き込んでいたのは、水の賢者エヴァだった。
「エヴァ!?」
驚くアレスの声など聞こえていないように、エヴァは魔導球に照らされて浮かび上がる過去の映像を食い入るように見つめている。エヴァからは敵意どころか、生きた人間の存在感のようなものが感じられない。試しに手を伸ばしてみると、先程の幻影と同じように、アレスの指先はエヴァの体をいとも簡単にすり抜けた。
魔導球を見つめるエヴァの姿すら幻だ。魔導球やエヴァの幻影に囲まれながら、白い空間にひとり佇んでいる。奇妙な光景に、アレスは言葉を失った。
『そうそう、冬に生まれるんだってな。ロゼッタの赤ちゃん』
『お前だってもうすぐ三児の父親だろう』
『まだまだだぞ。目標は十人だ!』
他愛ない会話に笑うアレスたちの過去を見つめるエヴァの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。涙が魔導球に落ちて砕けた瞬間、浮かび上がっていた映像が切り替わった。
緑あふれる獣人界の景色から一変して、落ち着いた紺色の絨毯が敷き詰められた書斎が映し出される。部屋の奥に佇む長い白髭を生やした老魔道士と向かい合うのは、過去のアレスだ。
『ロッドに魔導球を渡したのは間違いだったな。あいつ、関係ないものまで撮りまくってたぞ』
『まぁ、そう言うな。あれはあれでなかなか楽しめた。それに完成までの道筋もおおよそは把握できた。雑音がひどいのは考慮せねばなるまいがの』
『もしかしてこの魔導球……まだ記録しているのか?』
『そうじゃ。完成にはまだまだほど遠いからの』
『あれだけ作れればたいしたものだ』
『おぬしに渡したものは正直未完成じゃ。わしはおぬしに、レティシア殿の姿だけでなく、声も残してやりたいのじゃよ』
メルドールとアレスのやりとりを見ていたエヴァの幻影が、胸元をぎゅっと掴んで苦しそうに眉を寄せた。
『私を……呼ぶな。私はお前たちを知らない。なのに、なぜお前たちは私を知っている? なぜ私を語る? なぜ、私は……こんなにも胸が苦しいのだ?』
アレスの目の前で、エヴァの幻が魔導球にそっと手を伸ばした。その指先が触れようとしているのは、魔導球の光によって浮かび上がったアレスの幻影だ。
まるで壊れ物に触れるように、エヴァの指先は弱々しい。ためらいと恐れと、そしてほんの少し、愛おしさも混じっているような気がした。
『……アレス。お前は誰だ。私の……何であるというのだ』
魔導球を見つめるエヴァの瞳が涙に濡れる。悲しみに染まるように、エヴァの瞳が水色から宝石のような青い色へと変化した。
その瞳の色に激しく感情を揺さぶられ、アレスが本能的に声を張り上げた。
「レティシアっ!」
なぜそう呼んだのかはわからない。けれどそう呼ぶべきだと、心が叫んでいた