02:黒幕の名前
地図にある赤い印が示した場所は、神殿の最上階へと続く階段の途中だった。階段の側面の壁には、月の厄災を表したレリーフが彫られている。
月光に照らされて涙するレティシアの姿。月の結晶石を抱くその姿は、以前と比べて少しだけ揺らいでいるように見えた。リシュレナが言っていたように、パルシスは扉を封印するための力を欠いているようだ。アレスが軽く指を触れただけで、そこにかけられていた封印が脆く崩れ去っていく。見た目には何ら変わりはないが、触れたアレスの手は壁をすり抜けていた。
無言のまま、肩越しにカイルを振り返る。互いが頷き合うのを確認して、アレスは先に壁をすり抜けた。
まるで汚泥の中に飛び込んだような感覚だ。肌にべとりと纏わり付く不快な感触に、体が無意識に身震いする。振り向けば通り抜けてきたはずの壁はなく、代わりに漆黒の闇の中、青白い魔法陣が扉のように浮かび上がっていた。その魔法陣が淡く光ったかと思うと、中からカイルの姿が現れた。
「ここは……」
闇に覆われた空間。灯りと言えば、入口の魔法陣が放つ燐光と足元を照らす青白い光だけだ。その光に照らされて、階下へ続く階段がぼんやりと浮かび上がっている。階段の先は闇に沈んでおり、魔界跡で感じたものとは若干雰囲気の異なる重圧感が満ちていた。
月の結晶石を隠している場所だ。入口の他にも侵入者を欺く魔法や排除する罠が仕掛けられているかもしれない。急ぐ気持ちとは裏腹に進む足は自ずと慎重になる。そうやってようやく辿り付いた部屋は決して広くはなく、大理石の床には緻密な魔法陣が描かれていた。
部屋の中央に、空の黒い台座がある。その台座を囲むようにして、パルシスとカミュ、そしてヴィンセントまでもが意識を失い倒れ込んでいた。
「一体なにが……」
リシュレナの話では、エヴァがパルシスたちを止めに入ってくれたという。その結果が目の前の現状であるならば、なぜこんなにもパルシスたちに残された力の残滓が黒いのか。これではまるで、魔界跡に澱む闇のようだ。
「……アレ、ス……殿」
呆然と立ち尽くすアレスの足元で、パルシスがわずかに身じろぎをした。
「よかった。……無事で……あった、か」
魔界跡でアレスたちを生き埋めにしようとした張本人が口にする言葉ではない。けれど彼の声音には必死さが感じられた。
「結晶石はどこだ」
弱り切ったパルシスに対してどう接していいのか判断がつかない。彼らはアレスたちを欺き、結晶石とヴァレス復活を目論んでいたはずだ。なのに今のパルシスからは敵意のかけらがまるでなく、それどころか何者かによってひどく傷付けられている。
「……すまぬ。わしらでは……力及ばなかった」
か細い声でそう呟いて、パルシスが縋るようにアレスの足を掴んだ。手は震えていて、でも一縷の望みを繋げるように、その力は強い。
無念はあれど、パルシスの瞳はまだ絶望に落ちてはいない。その強いまなざしにアレスは自然と跪き、パルシスの体をゆっくりと支え起こしてやった。
「何があった」
「……意識は常にあった。しかし、別の何かに支配されたように、わしらには自由が利かなかった」
「操られていたと?」
「そう……そうじゃ。わしらは全員、操られておった。そして集めてしまったのじゃ。月の、結晶石を。魔界王復活に必要な、人々の生気を」
パルシスの言葉が本当なら、各地で起こっている呪眠も彼らの仕業だということになる。呪眠で眠らされた人々は、ヴァレスに生気を与え続ける餌だったのだ。
月の厄災で損傷した本体を人々の生気でよみがえらせている間、パルシスたちは粉々に散った月の結晶石を集めてまわっていたということか。そして結晶石をひとつの石に戻すために、時間魔法を修得したリシュレナを狙った。魔界跡でパルシスがリシュレナを「育てた」と言っていたが、もしかすると時間魔法習得の裏にも何か秘密が隠されているのかもしれない。
「月の結晶石は奪われてしまった」
「何だと!」
「頼む……。結晶石を取り戻し、魔界王復活を止めてくれ」
元よりそのつもりだと、アレスはパルシスを見たまま強く頷いた。アレスの敵は「この世界を脅かすもの」だ。パルシスたちにその脅威がなくなれば、ここで無駄な争いをしている暇もない。
こうしている間にも、月の結晶石を奪った何者かがヴァレス復活のために動いているのだ。力ある賢者たちを操るほどの人物となれば限られてくるが、その最たる者――ヴァレスは体を損傷していて動けないはずだ。ならば誰が……と考えて、背筋が震える。
魔界跡で対峙して、今この場にいない者がひとりいる。アレスの脳裏に、銀色の光が揺らめいた。
「……パルシス。結晶石を奪ったのは、誰なんだ?」
レティシアの名を覚悟して訪ねたアレスだったが、パルシスから告げられた真実は別の形をしていた。
「わしら四賢者がひとり……。水の賢者、エヴァじゃ」
***
アレスたちと別れて執務室へ戻ってきたリシュレナは、扉を開けた先にいたエヴァの姿を見て目を丸くした。
「エヴァ様? 起き上がって平気なんですか?」
名を呼ばれた本人エヴァは、窓際に立って外の様子を眺めていた。何でもないように笑ってはいるが、彼女がパルシスたちから受けた傷は相当にひどかったはずだ。腕も背中も斬り付けられ、深手を負った体は鮮血に染まっていた。彼らを撃退し、何とか執務室へ避難した後も、エヴァはベッドに倒れ込んだまま起き上がることも難しかったのだ。
それが今は血糊の付いた服も着替え、背筋をしゃんと伸ばして自力で立っている。自身に回復魔法をかけることもままならないほど弱っていたはずなのに、今のエヴァは魔力が漲っているかのようだ。その力の影に土と水、そして火の魔力がうっすらと絡みついている。
「大丈夫よ、レナ。元より傷など負っていなかったのですから」
「……え?」
「パルシスとカミュに私を斬り付けるよう命令し、ヴィンセントには私の盾になってもらったの。あの血はヴィンセントの返り血よ」
少女のように笑うエヴァの真意をはかりかね、リシュレナの思考が一瞬だけ固まった。
「エヴァ様? 何を……」
「こんな茶番でも、あなたはよく信じてくれたわね。ありがとう、レナ」
リシュレナが戸惑っている間にエヴァが距離を詰めた。無意識に一歩だけ後退したリシュレナだったが、その手をエヴァに取られて、柔く、けれど逆らえない強さで引き戻される。優しい雰囲気はそのままエヴァに残っているのに、リシュレナを真正面から見据える目は恐ろしく冷たかった。
リシュレナをじっと見つめる水色の瞳に、底知れぬ闇が揺れている。リシュレナは、初めてエヴァに恐怖を抱いた。
「魔界跡でパルシスが言ったことは本当よ」
心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような気がした。それに比例するようにして、リシュレナを掴むエヴァの手の力も増してゆく。
「身寄りのないあなたを引き取り育てたのは、時間魔法を習得してもらうため。他の賢者でもよかったけれど、私たちはそれなりに忙しい身であったし、それに子供の方が術の飲み込みも早いでしょ。だからあなたにしたの。……けれど、ただの子供に時間魔法の習得なんて無理な話よね。私もそう思うわ」
穏やかな口調で語られる真実に、リシュレナの心がさっきからずっと軋んでいる。親代わりであり、誰よりも信頼していたエヴァが、目の前で崩れ去っていくようだ。
「リシュレナ。あなた、不思議に思わなかった? 世界最強の白魔道士と謳われたメルドールでさえ手にすることの叶わなかった時間魔法を、どうしてあなたが短期間で習得することができたのか」
どくんと、心臓が跳ねる。答えを知っているはずもないのに、リシュレナの心がざわめき出す。
「あなたを引き取った後も、私たちはずっと探し続けていたの。そしてようやくすべてを集めることができた」
エヴァに握られた手をゆっくりと持ち上げられた。胸の前まであげられたリシュレナの手のひらに、エヴァが静かに乗せたもの。それはいくつもの星屑の輝きに似たかけらを内包した、ひとつの小さな水晶球だ。
その無数の小さな光を見た瞬間、リシュレナは悟ってしまった。
「これがあなたに時間魔法を授けた力の源よ。三百年前に砕けた月の結晶石。そのかけらの最後のひとつは、リシュレナ、あなたの中に埋め込んでいるの」
磨かれた透明な水晶には、怯えや驚愕がない交ぜになったリシュレナの顔が歪んで映っていた。