01:エヴァの謀反
地底深くから、唸るような地響きが木霊した。大地は大きく揺れ、罅割れた箇所から毒を含んだ瘴気が噴き上がる。異変を感じ取って上空へと避難したイルヴァールとロアの眼下で大地がべこりと陥没し、巨大な黒い穴が出現した。
底の見えない大穴はまるで飢えた魔物のように、魔界跡の乾いた大地を塵に変えて吸い込んでゆく。さながら漆黒の滝壺だ。上空にいてもそのおぞましさが伝わってくるのだから、地底に進んだカイルたちは無事では済まないかもしれない。
そう不安が押し寄せてきたところで、ロアの視界に大穴から勢いよく飛び出してきた白い光が映り込んだ。ロアたちよりも高く飛び上がった光は更に二つに分裂し、そのまま重力に逆らうことなく落下していく。そのうちのひとつに何かを感じ取ったロアが動くと同時に、イルヴァールももう片方の光の方へ素早く翼を羽ばたかせて飛んでいった。
「カイル。無事か!」
背にカイルを拾い上げ、ロアが再び上昇する。視線の先ではもうひとつの光――アレスを受け止めたイルヴァールの姿が見える。崩壊する魔界跡の深部から必死で抜け出してきたのだろう。遠目で見てもアレスには疲弊の色が浮かんでいたし、背中のカイルは未だ無言のままだ。どちらも傷を負っているわけではなさそうだが、何やら重苦しい気配が纏わり付いていることはわかった。それに、リシュレナの姿がどこにもない。
「……大丈夫だ。アレスが助けてくれた」
「地下で何があった? リシュレナは……」
「あいつは……パルシスに連れ去られた」
ロアの背に触れるカイルの手に、ぐっと力が篭もる。後悔と焦燥が滲み出ているかのようだ。
「月の結晶石を元に戻すために、リシュレナを利用してやがった」
「結晶石を、リシュレナに? ……時間魔法か!」
「そうだ。急いで後を追わないと。ロア! アレスのところへ行ってくれ」
翼を羽ばたかせ方向を変えると、ちょうどアレスを乗せたイルヴァールもこちらへ飛んでくるところだった。すでに術を発動させているのか、イルヴァールの体は転移魔法の風を纏って淡く光を帯びている。
「カイル! アーヴァンへ急ぐぞ!」
こちらの返事を待つ時間も惜しんで、イルヴァールの白い羽根が雨のように降り注いだ。カイルに手綱を引かれるまでもない。ロアは一声鳴いて、淡い光を放ちながら舞う白い羽根の中へ飛び込んでいった。
***
どおんっと派手な音を響かせて神殿の入口が粉砕された。敵の本拠地に騒々しく乗り込んだアレスたちだったが、神殿内は予想に反して静まり返っていた。
パルシスとて、アレスたちが追って来ることは想定内だろう。なのに、この静けさは異常である。警備兵ひとりもおらず、アレスたちを阻む結界の類いもない。不気味なくらいだ。
「待て、カイル。何かがおかしい」
「俺たちが魔界跡でぶっ潰されたとでも思ってるんじゃねーか?」
「そうかもしれないが……人の気配がまるでしない」
「考えるよりも、今はレナを探す方が先だ。アンタだってそうだろ」
急かすように言われ、アレスの脳裏にレティシアの姿が浮かび上がる。ようやく見つけたレティシアはアレスではなくヴィンセントの手を取り、またも目の前から姿を消してしまった。捕まえきれなかった悔しさと置いていかれた悲しみと、選ばれなかった嫉妬心がアレスの心を軋ませてゆく。
「カイル! アレス!」
暗い思考に落ちていくアレスの耳に、攫われたはずのリシュレナの声が届いた。驚いて顔を向けると、リシュレナが階段を駆け下りてくる姿が見える。その足取りから無事であることは確認できたが、アレスたちの疑問は深まるばかりだ。
「よかった。二人とも無事だったのね!」
「それはこっちのセリフだ。レナ。お前、どうやってパルシスから逃げおおせたんだ?」
いくらリシュレナが時間魔法を操れるといっても、魔力量や経験値において秀でている四賢者から一人で逃げ出すことは難しい。彼らにとってリシュレナは生まれたての雛と同様だ。
リシュレナなど、いつでも捕まえられる。その余裕が生み出した結果であれば、リシュレナが自由でいる今は四賢者たちの罠とも考えられる。しかしアレスがどれだけ周囲を警戒してみても、四賢者たちの気配はどこにも感じられなかった。
「レナ。お前、怪我したのか!?」
カイルの焦った声に振り向けば、リシュレナの白い法衣に赤い染みが付いていることが確認できた。裾と袖口に飛び散った血痕は怪我をしたものというより返り血に近い。そう冷静に判断するアレスの目の前で、リシュレナは予想通り首を真横に振った。
「ううん、違うの。これはエヴァ様の……」
「エヴァだって?」
確かに魔界跡にエヴァの姿はなかった。けれど彼女だって四賢者のひとりであることに変わりはない。何を信じればいいのかわからず困惑するカイルの腕を掴んだのはリシュレナだ。怖い思いをしたのか、その手は少しだけ震えている。
「私を助けてくれたのはエヴァ様だった」
「それは……でも、あいつだって四賢者だぞ。いくらお前の親代わりでも……」
「違うの、カイル! エヴァ様は、パルシス様たちが何をしようとしているのかを知らなかったのよ。私をパルシス様たちから助けるために、エヴァ様はひとりで立ち向かってくれたの! そのせいでひどい怪我を……」
この場にエヴァがいないということは、受けた傷の具合が相当ひどいのだろう。
アレスがエヴァを見たのは、初めて四賢者に会った時だけだ。水色の髪に水色の瞳をした、儚げな印象の女性だった。争いごとを好まない雰囲気に見えたが、大事なものを守るためにはその身を犠牲にしても強大な敵に立ち向かう。その姿はアレスの胸に懐かしくもせつない過去を思い出させた。
「エヴァの様子は?」
カイルも、今はリシュレナの言葉を信じることにした。ひとりでリシュレナが動き回っていられるのも、おそらくはエヴァのおかげだ。何をしたのかはわからないが、相打ち覚悟でパルシスたちを足止めしてくれたのかもしれない。
「今は執務室で休んでいるわ。部屋には結界を張っていたんだけど、カイルたちが来たことを感じて一時的に結界を解いたの」
「無事を確かめられたのはありがたいが、何で出てきたんだ。危ないだろうが」
「エヴァ様から伝言を預かってるのよ」
「伝言?」
「そう。パルシス様たちは、地下の隠された部屋に月の結晶石を保管しているらしいの。エヴァ様はもう動くことができないから、代わりにカイルたちで結晶石を処理して欲しいって」
「言われなくてもそうするさ。だからお前は今すぐエヴァのところへ戻ってろ」
「でも……」
「お前がまた捕まればそれこそ終わりだ。結晶石は俺とアレスが何とかする。そうだよな?」
同意を求めてカイルが振り返れば、アレスも当然だと言わんばかりに頷いた。
「時間がない。リシュレナ、地下への道を教えてくれ」
束の間逡巡したあと、リシュレナは一枚の紙を広げて見せた。神殿の見取り図が描かれた紙には、黒い印と赤い印が付けられている。場所から見て、黒い印はアレスたちが今いる場所のようだ。動けば印も移動するらしく、ゆっくりと点滅を繰り返している。
「隠された扉は、その赤い印のところにあるって言ってた。エヴァ様が戦ってくれたおかげでパルシス様たちも疲弊しているから、扉にかけられている封印も弱まってるはずだって」
「そうか。わかった」
リシュレナから地図を受け取ったアレスは、もうすでに赤い印の場所を目指して踵を返している。カイルもリシュレナの背を軽く叩いたかと思うと、アレスに遅れまいと駆け出していく。
「二人とも気を付けて!」
手を振り返したカイルの姿が角を曲がって消えるまで、リシュレナはその場を動くことができなかった。