13:賢者の陰謀
地下を震わせて響くレティシアの絶叫は、攻撃を仕掛けたはずのカイルでさえ次の一手をためらうほどに悲痛な思いに満ちていた。
怖い。かなしい。死にたくない。そんな思いがありありと伝わってきて、目の前で頭を抱え苦しんでいるレティシアにカイルはただただ困惑する。
さっきはまるで感じなかった感情が、今のレティシアには確かに存在した。無機質な人形などではなく、カイルの操る魔物の攻撃に対して明らかに怯えている。戦意すら失い、華奢な体を震わせて縮こまるレティシアを見ていると、まるでカイルの方が悪者であるかのようだ。
けれど……カイルがここにいるのは、リシュレナを守るためだ。魔界王復活のためにレティシアがリシュレナを望むのなら、カイルは何としてもそれを阻止しなくてはならない。どんな手を使ってでもだ。
アレスがレティシアを守ろうとしたように。
魔界王がエルティナを求めたように。
カイルが大事にしたいのは、リシュレナだ。
出会った時から芽生えていた淡い思いは、獣人界の夕暮れの中で確かなものへと変化した。だからもう、カイルは迷わない。リシュレナを傷付けようとする者は、相手が誰であろうと容赦はしない。
途切れかけた戦意を呼び戻し、魔眼に意識を集中させると、再びざわりと蠢き出した魔物がレティシアの体に触手を絡みつかせていく。レティシアはなおも悲鳴を上げ続けていて、体の自由を奪われたことにすら気付けていない。この好機を逃すまいと、カイルは剣を振りかざし一気にレティシアへ向かって跳躍した。
「やめろっ! あいつには手を出すな!」
アレスの声に重なって、剣の交わる高い金属音が響き渡った。レティシアめがけて振り下ろされたカイルの剣を受け止めたのは、アレスの青銀色の剣だ。レティシアを守るように立ちはだかったアレスの一閃によって、カイルの体が後方へ勢いよく吹き飛ばされる。カイルを傷付けるものではなかったが、それでも年季の違う重い一撃に剣を握るカイルの手は痛みを覚えるほどに痺れていた。
「……っ、目を覚ませ! あいつはレティシアなんかじゃ……」
「レティシアだ。俺にはわかる」
「馬鹿か! 攻撃されたんだぞ!?」
「レティシアを傷付けるなら、たとえお前でも容赦はしない」
レティシアを背に庇ったまま、アレスがカイルに剣を向けた。退くことを強要する深緑の瞳は、今まで感じたこともないほどの鋭利さを纏ってカイルの肌をびりびりと刺激した。敵として向かい合うアレスの、情けすら微塵も感じない冷徹さにただただ圧倒される。
それでも、カイルにだって退けない思いがある。アレスがレティシアを守るために動くのなら、せめて自分だけはリシュレナの味方であり続けようと、カイルは剣を握る手に力を込めた。
「カイル。アレス。二人ともやめて!」
二人の様子にリシュレナが声を張り上げた瞬間、突如として地下の空間全体が大きく揺れ動いた。激しい振動と共に強風が吹き荒れ、床に散らばった石屑さえも翻弄して渦を巻く。その石屑は天然の刃となり、レティシアを捕らえていた魔物の塊を容赦なくバラバラに切り裂いた。
魔物の枷を失い、ぼうっとしたままのレティシアがゆっくりと前に頽れる。その体を支えたのはアレスではなく――いつの間にかレティシアのそばに現れていた火の賢者ヴィンセントだった。
「ヴィンセント様!?」
驚くリシュレナを一瞥もせず、ヴィンセントはレティシアをその腕に支えるとアレスたちから隠すように身を翻した。
「一旦退く。ヴァレス様の保護が最優先だ。行くぞ」
力なく頷くレティシアを抱いたまま、ヴィンセントが転移魔法を発動した。足元に現れた魔法陣の光によって、二人の姿が徐々に薄く掠れてゆく。レティシアを白く覆っていく光は、まるで月下大戦のあの夜のようで……強烈に引き戻された別れの記憶にアレスは堪らず二人に向かって駆け出した。
「待て! レティシア。二度も消えるなっ!」
伸ばした手の先で、レティシアがわずかに振り返る。アレスを映した青い目は変わらず冷淡で、そこに一切の情すら見つけられない。それでもアレスはレティシアに駆け寄ることをやめられなかった。
「レティシアっ!」
「私を呼ぶな。私はお前を知らない」
無情に突き放した声が響くと同時に、ヴィンセントに支えられたレティシアの姿はアレスの前から完全に消えてしまった。
どおん、と激しい音がして、地下の空間が更に大きく崩れ始めた。天井の一部が崩壊し、人の頭ほどの瓦礫が降り注いでくる。未だ吹き荒れる渦はこの場所ごとアレスたちを生き埋めにするかのようだ。
「きゃあっ!」
背後でリシュレナの悲鳴がした。真っ先に反応したカイルが振り返った視線の先、怯えるリシュレナを数匹の黒い魔犬が取り囲んでいた。壁際に避難していたはずのリシュレナはいつの間にかヴァレスを包む白い繭の下に移動しており、その体は一匹の魔犬から伸びた長い闇色の尻尾によって完全に自由を奪われている。
「レナ!」
カイルが駆け寄る間もなく、リシュレナを捕らえた魔犬の背に人ひとり分の瘴気が渦を巻いた。その中から現れた黒髪の少年は魔犬の背に腰掛けたまま、足をぶらぶらと遊ばせながら楽しげにカイルの方を見やる。
「お前は……」
あの魔犬は魔界跡でカイルたちの前に立ちはだかったものと同じだ。それを操る術者として魔犬の背に座る少年の姿には見覚えがある。魔法都市アーヴァンで風の賢者として紹介された彼の名は確かカミュといったはずだ。レティシアを連れ去ったのも火の賢者ヴィンセントなのだから、残り二人の賢者も姿を現すかもしれない。そう思った矢先、ヴァレスを包む繭が半透明の青い結界に包まれた。
「ここでおぬしらとやり合うつもりはない」
静かに響く声と共に、頭上からゆっくりと降下してくる影があった。藍色の法衣を翻してリシュレナの前に降り立ったのは、土の賢者パルシスだ。彼の爪先が床に触れた瞬間、パルシスを中心にして白い魔法陣が浮かび上がった。
ヴィンセントがレティシアを連れ去ったものと同じ魔法の匂いを感じて、カイルが即座にリシュレナを奪い返そうと飛びかかる。けれどパルシスが展開した魔法陣は転移魔法の他に結界の役割も兼ね備えていて、カイルは彼らに近付くことすらできずに弾き飛ばされてしまった。
「憐れな。もはやおぬしらに残された手はないぞ」
「俺たちを……レナを騙していたのか!」
窪んだ目をわずかに見開いたあと、まるで子をあやすかのようにパルシスが笑った。
「リシュレナは魔界王復活のため、わしらが育てた人形にすぎぬ」
「なんだと……」
「砕けた月の結晶石を元に戻すことこそ、リシュレナの存在意義じゃ。そのための時間魔法じゃよ」
それは災いを呼ぶもの。
それは死を導くもの。
それはわずかな希望すら奪い尽くす破壊の石。
『私が世界を救うことを、許してくれますか?』
どくん、とアレスの心臓が不吉に跳ねた。
皓々と輝く満月の下、結晶石開放か世界救済かの残酷な死の選択を迫られたレティシア。世界が救われ、大切なものを失ったあの夜のことは忘れもしない。今も目を閉じるだけで、あの夜の冷え切った空気の匂いまでも鮮明に思い出すことができる。
あの夜の出来事は、レティシアの決意であり願いだった。その祈りを、思いを、パルシスたち賢者は、再び月の結晶石を使って踏みにじろうとしている。レティシアが命をかけて守った世界を弄ぼうとしている。
心の奥が、息もできないほどに捻れて軋む。ぎりっと強く唇を噛んで、アレスは目の前のパルシスを睥睨した。
「俺がそれを許すと思うのか」
パルシスに向けて剣を構え、アレスが全身から恐ろしいほどの殺気をあふれ出させた。声音は淡々と、そして静かに響くのに、込められた怒りは今にも弾けそうだ。
一歩パルシスへ近付くと同時に、アレスを中心にして強烈な衝撃波が走る。けれどもパルシスの結界を壊すには至らず、ただ白と白、同じ属性の魔法のぶつかり合いによって地下の空間全体が軋みながら陥没した。
「おぬしの許可は必要ない。砕けた結晶石はすべて集めた。あとはリシュレナを使い、ひとつの石に戻すだけじゃ。おぬしらに結晶石復活を阻む時間は残されておらんのじゃよ」
パルシスが杖を一振りすると、共鳴するかのように魔界跡全体が激しく上下に揺れた。ヴァレスを守っていた場所だけあってこの場所は多少頑丈に造られているものの、それでも床の一部は穴を開けて崩れ落ち、天井からは絶えず瓦礫が降り注いだ。地上へ戻るための通路はすでに岩で塞がれており、その奥からは崩壊の振動と轟音が響いてくる。その音は、まるでアレスたちを呑み込む巨大な魔物の唸り声のようだった。
「無駄に足掻くな。ヘルズゲートと共に朽ちた方がおぬしらのためじゃ」
パルシスの声がわずかに小さくなる。かと思えばその姿すら薄く掠れていて、ヴァレスを包む繭ごと魔界跡から消え去ろうとしている。
「レナっ!」
駆け寄るカイルを一瞥して、カミュが無邪気に笑った。子供の残酷さを孕む微笑が余計にカイルの癪に障る。
「じゃあね、ばいばい」
カイルの声も手も届かぬうちに、リシュレナとヴァレスの繭を連れて賢者たちの姿が消え失せる。崩壊の止まらない魔界跡の地下深く、残されたアレスたちの逃げ場はどこにもない。それを示すかのように、魔界跡を照らしていたランプの灯りがひとつ、またひとつと瓦礫に潰され、辺りは奈落の闇に沈みはじめていった。