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月の記憶  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第12章 懐かしき邂逅
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12:記憶を揺さぶる魔眼

 指に絡まる深緑に、忘れられない過去がよみがえる。


『……なに、を……言ったらいいのか、わかりません。こんな……こんな気持ちは、はじめてで』


 見つめ合う視線の先で、青い瞳が戸惑いに揺れていた。あふれ出す感情を持て余し、思わず飛び出した白い翼に心が躍った。


『だめっ! アレス……、来ないで。力が、暴走しています!』


 皓々(こうこう)と輝く満月の下、消えゆく光を取り戻そうとして必死に手を伸ばしたことを覚えている。何も掴めなかったアレスの手に残る無念は、どれだけ時を経ても未だ少しも色褪せてなどいない。


『私がこの世界を守ることを、許してくれますか?』


 許せるはずがないと叫んでも、時は無情に過ぎてゆく。あの日、あの時、アレスにできることは何もなかった。アレスはまだ未熟で、信念を貫くにはあまりにも無力だった。


『アレス。あなたが……あなたが、大好きです』


 涙をこぼしながらそれでも微笑む美しい光を、アレスは一度も忘れたことがない。再び出会う日を夢見て、三百年ものあいだ必死に生きてきたのだ。

 あの日から途切れた二人の時間が、魔界跡の闇の中からようやく動き出す。けれどもその再会は、新たな悲劇の幕開けをアレスに突き付けるだけだった。



 呼吸と共に、意識までもが一瞬途切れた。

 世界を救うためにその身を犠牲にしたレティシア。月の結晶石がレティシアを「世界」として崩壊させる寸前に、石とレティシアを強制的に引き剥がし、すべての負荷を代わりに背負ってくれたラスティーンとクラウディス。彼らはレティシアがまだ生きていると断言し、この世を一人で生き抜くアレスに唯一の希望をくれた。三百年の間どれだけ孤独と不安に苛まれようとも、二人の言葉があったからこそアレスはここまで耐えることができたのだ。

 再び出会える日が来たのなら、もう二度とその手を離さない。強く抱きしめて、今度こそ何ものからも守ろうと強く己に誓ってきた。そのために鍛錬もしてきたし、何事にも動じない精神力も身に付けてきたはずだ。


 それなのにレティシアの顔を見ただけで、アレスの体は指先までもがカタカタと無様に震えている。その理由が何なのかアレスにはわかっていた。けれど、認めたくないのだ。

 アレスを敵と認識し、襲ってくるレティシア。その姿は、かつてこの地で対峙したアレスの両親と酷似している。魔物に操られたジークとアシュリア、そして天界の衛兵だったエミリオもそうだ。脳裏に彼らの姿が浮かぶと同時に、ぞくりと嫌な悪寒がアレスの背筋を伝う。


 ――魔物に操られた人間は、二度と元には戻らない。


『救いたいのなら、殺すべきだ』


 かつて口にした言葉が、巡り巡ってアレス自身に重石のようにのし掛かる。

 フードを掴む手が震え、アレスの指先がわずかにレティシアの頬に触れた。そこから伝わる熱が確かに生きていることを証明しているのに、アレスを見つめる青い双眸に命のぬくもりはかけらも見当たらない。それどころかアレスを敵と認識し、恐ろしいまでの殺気を込めて睨んでくる。姿形はレティシアなのに、まるで知らない女が目の前にいるかのようだった。


「……レティ……シア」


 震える唇から、音すら纏えない掠れた声がこぼれ落ちる。衝動的にレティシアを抱きしめようとアレスが腕を広げたその瞬間。


「アレス! 何やってんだ、馬鹿!」


 響くカイルの怒号と共に、アレスは力尽くでレティシアから引き剥がされてしまった。目をみはるアレスの視界には、さっきまで自分が立っていた場所に走った亀裂が映っている。床を鋭く裂いたのはレティシアの剣から放たれた風の刃だった。

 防げなかった攻撃の一部がアレスの腕を傷付け、滴り落ちる血が灰色の石床を彩るように落ちてゆく。傷は深くはなかったが、それでも痛みはアレスの心を鋭く抉ってくるようだった。

 カイルがとめなければ、アレスはレティシアの剣で心臓を貫かれていたことだろう。血に濡れた手のひらをぎゅっと握りしめて、アレスは何かに耐えるように瞼をきつく閉ざした。


「アレス! カイル!」


 二人を心配して駆け寄ろうとしたリシュレナを、カイルは視線だけで素早く制止した。力なく項垂れるアレスはもはや戦力外だ。そんななか、アレスとリシュレナを守りながら戦うのはさすがのカイルにも荷が重い。


「自分に結界張って離れてろ!」


 リシュレナに向かってそう叫ぶと、カイルは不抜けたまま動かないアレスに変わってレティシアへと剣を向けた。

 対峙する敵の、あまりにもまばゆい白。おぞましいほどの負の魔力を溢れさせているくせに、その闇を照らす光のようにレティシアの持つ内包的な輝きは少しも衰えていない。

 カイルがレティシアを見たのは初めてだったが、絶世の美女と謳われただけのことはあると納得する。それほどまでに敵は目を奪われるほどに美しく、だからこそレティシアが無表情でいればいるほど空恐ろしい。人形のような無機質さにゾッとした。


「目覚めはすぐだ」


 ヴァレスを包む繭が淡く点滅を繰り返している。そのたびに浮き出る真紅の影が今にも動き出しそうで、カイルは無意識のうちに怯えてしまった自分を戒めるようにぎりっと唇を噛み締めた。


「足掻いたところでその女は逃げられない。運命から逃れられないのならば、早くに身を任せた方がいい。その方が苦しまずにすむ」

「勝手に決めつけるな! レナはどこにもやらない。ヴァレスもここで始末する!」

「……愚かな。互いの力量くらいは測れると思っていたのだが……お前を高く評価しすぎていたようだ」


 再び剣を構えたレティシアの周りが、急速に温度を下げていく。ごぅっとうねる冷気の風が地下に吹き荒れ、中に混ざった氷刃のかけらがカイルの頬を浅く切り裂いた。滲み出る鮮血を指先で雑に拭い、カイルはそれでも諦めないと告げるように青の隻眼に強い意思を込める。


「何と言われようと構わない。俺はここを退くつもりはないし、レナを渡す気もない。俺が守ると決めたんだ!」


 互いの力の差を目の当たりにしてもなお、諦めることなく挑み続けるカイルの姿勢にレティシアの胸がふと軋んだ。かすかな痛みと共に、形を成さない記憶の断片がレティシアの脳裏を掠めてゆく。けれども瞬きひとつする間に、レティシアの頭の中は再び漆黒に塗り替えられてしまった。

 気を逸らしたのは一瞬。再びレティシアの殺気が鋭さを増す。


「お前では私には勝てない」

「どうだか」


 二人共が同時に駆け出した。カイルの薙ぎ払った剣を軽々と避け、後ろへ退いたかと思えば着地した瞬間にこちらの懐へ飛び込んでくる。剣と剣がぶつかり合えば筋力の少ないレティシアには不利だ。カイルが力任せに押しやると、あろうことかレティシアはその剣の刃を指先でつまんでくるりと一回転して空中に飛び上がった。そのままカイルの背後へ着地するや否や、休む間もなく襲いかかってきた。

 儚き佳人として後世に記録されていたはずのレティシアが、男顔負けの剣技でカイルに攻撃を仕掛けてくる。 けれどその動きはカイルから見ても乱暴で、体にかかる負荷を一切考えない捨て身の攻撃のようにも思えた。


「お前の攻撃は私には届かない」


 カイルから少し距離を取ったレティシアが、一瞬だけ攻撃の手を止めた。カイルを見つめる青い瞳は変わらず冷淡で、告げる声音にも熱がない。


「そろそろ終わりにしよう」


 剣の切っ先で石床を削りながら、レティシアがカイルへ駆け出したその瞬間。


「そうだな。――終わりだ」


 勝ち誇ったように笑ったカイルが、左目を隠す眼帯を外した。異変を感じ取ったレティシアが身を退くよりも早く、彼女の背後にどろりとした黒い塊が噴き上がる。

 それは自らの形を成せず、魔界跡の隙間に潜むことしかできなかった魔物の集合体。魔物の生まれる大穴がある魔界跡にならどこにでも存在する、地上でいえば謂わば雑草のようなものだ。けれど魔物であることに変わりなく、魔物であればカイルの左目――赤い魔眼が効く。


「何!?」


 魔物の集合体がレティシアを捕まえようと、更に大きく膨れ上がった。汚泥のように広がる漆黒の中には、いくつもの赤い眼球がぎょろぎょろと蠢いている。それらが一斉にレティシアを捉えたかと思うと、まるで嘲笑うかのように無数の触手が突き出した。

 レティシアを獲物と認識して襲いかかってくる魔物の赤。そしてカイルの赤い魔眼に、レティシアの記憶がまたも強く揺さぶられた。


『レティシア。運命の姫。俺のために死んでくれ』


 一度は閉じかけた記憶の片隅で、熱を持たない凍えた満月が揺らめいていた。降り注ぐ月光の下、項垂れたまま立ち尽くすのは銀髪の青年だ。ゆっくりとこちらを振り返った彼の、その前髪に隠れた双眸が鮮血の如く闇にくっきりと浮かび上がる。


『消えたくない。……私、まだ死にたくないっ』

『世界はお前の手に委ねられたのだ』

『エルティナを……っ!』


 浮かんでは消えていく、誰の顔かもわからない残像。そのどれもが掠れていて、レティシアの心にはひとつも残らない。けれど、心のずっと奥の方がしきりに音を立てていた。


『――怖い』


 それは死に対する恐怖。この世界から、愛しい人々の前から、自分という存在すべてが消えてなくなる、孤独にも似た底の見えない恐怖だった。

 カイルの隻眼に()()()()が重なって見えた瞬間、それまで強く封じられていた記憶のかけらがレティシアの中へ一気に流れ込んだ。


「いやあぁぁっ!」


 脳を強く揺さぶる記憶の残像を理解する前に、レティシアの唇を割って激しい絶叫が響き渡った。




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