10:最深部に秘されたもの
長い間封印されていた魔界跡の内部は、驚くほど何も残されてはいなかった。
逃げ惑う人々を閉じ込めた壁画も、壁に取り付けられていた水晶のランプも砕け散り、そのすべてが風化して塵に帰っている。天界ラスティーンが墜落した衝撃で白と黒の魔力が混ざり合い暴発し、魔界跡のほとんどを吹き飛ばしてしまったのだろう。
けれども地底に澱む闇の重さは、三百年前のあの日と何も変わっていない。呼吸するだけで内側から熱を奪われていく感覚に、アレスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて唇をキュッと噛み締めた。
通路は狭くなかったが、それでもイルヴァールたちが通るほど広くもない。それにロアはイルヴァールのように小型化できなかったので、魔界跡へはアレスたち三人だけで入ることになったのだった。
「なぁ、アレス。アンタたちは一度、魔界跡へ降りたことがあるんだろう? 何かありそうな場所とかわからないのか?」
「ここは俺たちが通った場所とは別の通路だ。天界ラスティーンが墜落し、魔界跡も大半が崩壊した。月の涙鏡を求めて歩いた道など、とっくになくなってるさ」
今回アレスたちが進んでいる道は、地上から地底深くへ歩いていけるように作られている。魔界跡……元はシュレイクだったこの地は、地下神殿を封鎖して作られた場所だ。神殿の奥からあふれ出す魔物を封じるために張った結界を利用して、神界王バルザックが人捨て場にしたと、遠い昔にアレスも微睡みの蒼湖水で知った。
おそらくだがこの道は、惨劇のあの夜にヴァレスがエルティナの手を引いて逃げた場所なのだろう。そう思うと同時に、せつなく乞うヴァレスの幻聴がアレスの鼓膜を静かに揺らした。
「ヴァレスはイルヴァールの炎によって灼かれたんだろ?」
「厳密に言えば、イルヴァールの炎で塵になったのは当時の天界王クラウディスの体だ。ヴァレス本人の肉体は、ここ魔界跡の最深部に安置されていた。天界の墜落と共に奴の体も吹き飛んだはずなんだが」
「確かめてないのかよ!」
「当時は天界と魔界跡の魔力が絡み合い、メルドールでさえ安易に足を踏み入れられない場所だったからな。魔界跡からあふれる瘴気を食い止めるので精一杯だった。それにあの崩壊では、いかにヴァレスといえども無傷ではすまないだろう。俺も落ち着いてから確認するはずだったが、思いのほか瘴気の放出が強すぎて結界を解くことが難しかったんだ」
「それを今回、獣王ロッドの牙が取り払ってくれたのか」
渦を巻くほど大きく膨れ上がった瘴気を一瞬で吹き飛ばした白い閃光。アレスのそばに甘えるように寄り添った大きなライオンの姿がカイルの脳裏によみがえる。言葉など交わさずとも、二人の間には確かな信頼の絆がありありと感じられた。
「そういうことだ。最深部から漏れ出る瘴気が再びここを覆う前に、リシュレナを狙う何者かの痕跡を掴むぞ」
「やっぱり魔界王の可能性が高いのか?」
「不安は残る。だからはっきりとした確証が欲しい。奴の執念は生半可ではないからな」
びくりと肩を震わせたリシュレナを安心させるように強く頷いて、アレスが再び前を向いて歩き出した。遅れまいと続くリシュレナの後には、カイルが殿を務めている。
静寂すら黒く染まりゆく魔界跡の闇に恐怖がないと言えば嘘になる。頼りになる二人に挟まれていれば恐怖も少しは和らぐはずなのに、リシュレナの心はさっきからずっと見えない何かに怯えているようだ。ちょっとでも気を抜くと、レティシアの記憶に意識を奪われそうになる。一歩、また一歩と奥へ進むたびに、リシュレナは自身の存在が曖昧になっていくのを感じた。
もうずいぶんと奥深くまで歩いてきた気がする。闇は一層濃くなり、リシュレナの持つ杖の水晶の光も三人の足元を照らすのがやっとだ。それでも進むべき道を見失わないで済むのは、アレスが持つ青銀色の剣がほのかに光り輝いているおかげだ。
途中でいくつかに枝分かれしている道を、アレスは迷うことなく進んでいく。おそらく一番闇の濃い方を選んでいるのだろう。それとも、カイルたちには気付けない何かしらの気配を感じ取っているのかもしれない。そう思っていると、不意にアレスがピタリと立ち止まった。
「止まれ」
厳しい声で静止を促され、カイルが無意識に生唾を呑む。
いつの間にか、広い空間に出ていた。 瓦礫のせいで歩きづらかった通路とは打って変わって、やけに小綺麗な大広間のような場所だった。崩壊を免れた空間には灰色の石床が敷き詰められており、その上には漆黒の絨毯が奥の方にまで伸びている。絨毯の両脇に置かれた水晶のランプは真新しく、どう見てもそれはここ最近取り付けられたもののように見えた。そのランプの灯りすら届かない闇が、漆黒の絨毯の先に蠢いている。
求めている答えが、そこにあることを確信した。
「俺が先に行く。合図をするまでお前たちはここに……」
アレスの言葉を遮って、リシュレナが一歩足を踏み出した。
「呼ばれている……」
ぼうっとしたまま歩き出したリシュレナは、まるでかつてここを訪れたレティシアのようだ。二人の姿を重ねて見てしまい、アレスの判断が一瞬鈍る。その隙にリシュレナはアレスの横を通り過ぎて、絨毯の先に広がる闇の中へと消えてしまった。
「リシュレナ、待て!」
「レナ!!」
二人共が同時に叫んで駆け出した瞬間――。
『リシュレナ。時を操る娘よ』
地を這う不気味な声が闇をさざなみのように揺らしたかと思うと、その奥に隠していたものをアレスたちの前にさらけ出した。
一部崩壊した天井と、壁に張り付いたまま干からびている木の根のような物体。脇には古びたランプの残骸が散らばっており、新しいランプの光を鈍く反射している。
漆黒の絨毯が伸びた先、一段高くなったその場所に空の玉座があった。玉座の真上から、萎びた腕のような管が垂れ下がっている。それが支えるものを見て、アレスは言葉を失った。
「……っ!」
巨大な白い繭がそこにあった。繭が鈍く光を放つたびに、中に閉じ込められているものの影がぼんやりと浮かび上がる。人の形をしたそれは、白い繭の中で禁忌の色に揺れていた。
「ヴァレス!」
名を叫んだアレスを嘲笑うかのように、繭がざわりと揺れる。その下にふらふらと歩み寄るリシュレナの姿を見つけて、カイルが一目散に走り出した。
「レナっ! 何してる。目を覚ませ!」
腕を引かれたことでリシュレナの意識がぱちんと弾けた。目の前に白い巨大な繭がある。その奥に秘された真紅を捉えようとしたところで、リシュレナはカイルに有無を言わさず抱きしめられた。
「お前は見るな」
「でも、私っ……呼ばれた。ヴァレスが目を覚まそうと……!」
「奴はここで始末する! それで全部終わりだ!」
強く叫ぶことで、カイルは自分自身にもそう言い聞かせる。幸いヴァレスは繭の中で眠っているようだ。今のうちに繭ごとヴァレスを破壊してしまえばいい。
繭はどう見てもヴァレスを回復させている。一体誰がこんなことをしているのか想像もつかないが、現状を見るにヴァレスはまだ完全に復活する気配がしない。好機はこちら側にあると、カイルは素早く剣を抜いた。
「その娘を置いていけ」
声は突然響き渡った。
一切の感情をなくした声音は一瞬で周囲の温度を下げ、カイルの頬にひやりとした冷たい感触を与えてくる。それが剣による切り傷であることは後から知った。
背後に感じた強烈な殺意に体が本能的に動いたおかげで、カイルは腕を切り落とされずに済んだ。リシュレナを片腕に抱いたまま飛び退くと、さっきまで自分がいた場所に黒いフードを目深に被った何者かが立っている。
「誰だ、お前!」
「その娘を、置いていけ」
機械のように同じ言葉をくり返し、黒いフードの人物が右手に持った銀色の剣をゆっくりと構えた。かと思うと目にも止まらぬ速さで一気に距離を詰めてくる。薙ぎ払ったカイルの剣をひらりと跳躍して躱したかと思うと、その剣を足場にして更に高く舞い上がる。そして頭上からカイルの脳天めがけて、勢いよく剣を振り下ろした。