09:結界解除
開け放った窓から、少し強めの風が室内に流れ込んだ。重ねられていた資料の束がバサリと揺れる音に、エヴァは慌てて執務机から顔を上げた。
青空を切りとった窓のそばに、いつの間にか長身の男が立っている。こちらに背を向けてはいるが、赤銅色の短髪からも彼が誰であるか容易に判断できた。
「ヴィンセント? あなた、いつからそこにいたの?」
「数分前だよ」
「まぁ。全然気がつかなかったわ。気配を消していたわね?」
軽く睨みはするものの、それが冗談であることはヴィンセントにも伝わっている。口角を少しだけ上げて微笑むと、ヴィンセントは「邪魔をした」と短く告げてエヴァの執務室から出て行こうとした。
「何か用があったんじゃないの?」
「もう済んだ」
「何もしていないじゃない」
「君の顔を見に来ただけだ」
「言葉と表情が合っていないわよ」
「そうか」
エヴァが指摘したように、ヴィンセントの表情は甘い言葉を囁くには少々無愛想が過ぎる。そのちぐはぐな姿にエヴァは思わず笑みをこぼした。
「あら? ヴィンセント、それは……」
ヴィンセントの右手には一羽の小鳥が握られている。魔法で作られた小鳥は琥珀色をしていて、リシュレナがエヴァに向けて送る使い魔にとてもよく似ていた。
エヴァの視線を感じたのか、ヴィンセントは小鳥を素早く一枚の手紙に変えると、自身の服のポケットへとしまい込んでしまった。
「君が気にすることではない」
「でも……」
「大丈夫だ。すべてうまくいく」
まるで自身に言い聞かせているかのように呟くと、ヴィンセントは急ぎ足でエヴァの執務室から出て行った。
エヴァの執務室を出たヴィンセントは、その足で今度はパルシスの執務室へと向かった。扉を開けると、中にはすでにカミュの姿もある。パルシスは窓際に立ったまま、訪れたヴィンセントの胸元――そのポケットにしまわれている使い魔の手紙へと目をやった。
「それで、使い魔は何と?」
鋭い視線を向けられ、ヴィンセントが無言で胸のポケットから取り出した手紙をパルシスへと手渡した。手紙に素早く目を通すパルシスの眉間に、みるみるうちに深い皺が刻まれてゆく。
「知恵のないただの獣だと思っていたが……予想外じゃな」
「なんて書いてあるの? それ、リシュレナがエヴァに宛てて書いた手紙でしょ?」
ひとり状況を読めないカミュが、おもしろくなさそうに唇を尖らせている。パルシスはすでに今後の対策を練りはじめているのか無言になってしまったので、代わりに答えるのはヴィンセントだ。その彼の口調も、いつもよりは若干焦っている。
「獣王ロッドが、魔界跡ヘルズゲートへ侵入するための鍵を手にしていた。アレスたちは鍵と共に魔界跡へ向かっている。……もう到着し、奥へ足を踏み入れているかもしれない」
「何だって!」
「彼らは闇の奥を暴くだろう。我々は出遅れた。できることは少ない」
「そうじゃ。何を優先するかは考えるまでもない」
手紙に目を落としていたパルシスが、厳しい表情をしたままヴィンセントとカミュを見つめた。
「魔界王の保護を。それ以外は二の次じゃ」
互いを見合わせ、確認するように頷き合う。次の瞬間にはもう、執務室に三人の賢者の姿はどこにもなかった。
***
白と黒の絡み合う巨大な風壁が、唸るように音を上げながら渦を巻いていた。互いを侵蝕し合いながらどちらにも染まりきることはなく、まるで永久に続く攻防を目の当たりにしているようだ。
黒い魔力が優位になるたびに、辺りの空気がズンと重くなる。体にへばり付き、皮膚ごと奪われてずり落ちていくような感覚だ。そんな気味の悪い感触と共に、カイルの脳裏にはロアが傷ついたあの日の光景がよみがえる。無意識に粟立つ肌をさすっていると、隣に来たアレスに軽く肩を叩かれた。
「怯えるな。お前なら大丈夫だ」
「……そりゃどうも」
つい素っ気なく返してしまったが、アレスが隣に立つことで辺りに重くのし掛かっていた空気がほんの少しだけ和らいだのを感じた。
「今から俺がかけた結界を解く。結界の解除に伴って、魔界跡からは大量の瘴気があふれ出すだろう。三百年分の瘴気だ。触れるだけで塵になる」
「逃げる暇さえないんだろうな」
「そうだな。だが、逃げる必要はない。カイル。お前は結界消失と同時に、これを瘴気の中へ投げ込んでくれ」
アレスが手渡してきたのは、獣人界で手に入れた白い牙だ。アレスと共に世界を救った英雄のひとり、獣王ロッドが残した魔界跡へ入るための鍵。彼がこの鍵を残すために犠牲にしたものを思い出し、カイルはぎょっとしてアレスの方を振り返った。
「ちょっと待て! んなもん渡されても困る。これはアンタに託されたものだろ」
「俺たちは結界の解除で手が離せない。合図は送るから、これはお前が投げてくれ」
カイルが戸惑っている間に、アレスは背中から二枚の翼を現した。背後ではイルヴァールが先に空へと駆け上がり、渦を巻く風壁の方へ飛んでいく。遅れまいと背の翼を羽ばたかせたアレスが、飛び立つ前にカイルを振り返って――にっと勝ち気に笑った。
「獣王の牙だ。瘴気など簡単に吹き飛ばしてくれる」
普段は静かに笑うだけだったアレスの顔に、初めて楽しげな笑みが浮かぶ。長い時の中で感情が希薄になっていたアレスを、こうも簡単に変えてしまうかつての獣王に驚くと共に、カイルは少しだけロッドという存在に興味が湧いた。
「カイル、頼んだぞ」
返事も待たずに、アレスは空へと駆け上がっていった。風壁を挟んで互いに向かい合うように位置取ると、間を置かず二人の体が淡い光に包まれてゆく。
アレスとイルヴァール、互いの正面に浮かび上がった魔法陣が左右から風壁を挟むようにしてゆっくり移動すると、それに合わせて風壁から白い魔力の帯だけがうっすらと色をなくしはじめた。
「俺の心の準備はなしかよ! 失敗したらどうするんだ」
「失敗するとは思っていないのだろうな」
そう静かに答えた友を軽く睨むと、ロアは人が肩を竦めるような仕草を真似て翼をわずかに動かした。
「牙の力を過信しすぎた」
「共に旅をした仲間の牙なんだもの。その思いをアレスは信じているんだと思うわ」
「でも万が一ってこともあるだろ」
「大丈夫。アレスがその牙をカイルに託したように、私もカイルを信じてるから」
「……っ、とにかく逃げようにも状況がそうさせてくれなさそうだしな」
わずかに頬が紅潮するのがわかった。単純な言葉で動揺する自分に我ながら呆れもしたが、嫌な気分でないことはもうとっくに認めている。
それでもだらしない顔を見られたくなくて、カイルは背後にいるリシュレナを振り返ることはできなかった。
「レナ、お前はロアのそばにいろ。何かあったらすぐに逃げろ、いいな」
最後はロアに告げて、カイルは右手に託された獣王の牙をぎゅっと握りしめた。
肌に感じる空気が、殺意を孕み始めた。びりびりと震える空気は、まるで幾千に散った細かな刃の破片のようだ。瞬きひとつするだけで、カイルの額から冷や汗がこぼれ落ちていく。
圧倒的なまでに他者の存在を拒絶する黒。以前訪れた時に感じた、ロアを傷つけた力の比ではない。気を抜けば一瞬で闇に引きずり込まれる。まだかろうじて白の魔力が残っているというのに、辺りに満ちる冷気と腐臭はこの世の深淵を思わせるほどにおぞましかった。
見開いた青の隻眼に、黒い魔力に喰われ、引き千切られてゆく白い魔力の帯が映る。うねる黒に飲み込まれる形で白い魔力が完全に色をなくした瞬間、鈍い音を立てて風壁の結界が粉々に砕け散った。
「カイル、今だ!」
上空からの声を合図に、カイルは握り締めていた牙を膨張した瘴気の中へ力一杯投げ飛ばした。
『ガアァァッ!』
鋭く響く獣の咆哮が、魔界跡の枯れた大地に響き渡る。投げ飛ばした牙は白い閃光を放ちながら緩やかに形を崩し、弾け飛んだ光の中から白いライオンが姿を現した。
太く頑丈な四肢で大地を蹴り、光の粒子を振りまくたてがみを靡かせながら、ライオンは津波のように襲いかかってくる瘴気の中へためらうことなく飛び込んでいく。
空をも覆い尽くすほどに膨れ上がっていた瘴気が、一瞬だけ凍り付いたように動きを止めた。かと思うと内側から勢いよく破裂し、辺り一面に目も開けられないほどの真っ白な光が炸裂した。
肌を撫でる風から、闇の気配が消えていた。きつく閉じた瞼の向こう、ゆっくりと光が薄れていくのを感じて目を開くと、カイルの前方にいつの間にかアレスが降り立っていた。
アレスの隣には白いライオンが寄り添っている。淡い光に包まれた体はわずかな空気の揺れにすら耐えられぬように、たてがみの先からはらはらと崩れ、細かな粒子となって空へ上っていく。
「ロッド」
アレスがライオンのたてがみを撫でると、大量の光の粒子が舞い上がる。それでも彼はうれしそうに、なおも頭をアレスの方へとすり寄せていく。そのたびに光があふれ、ライオンの姿が薄くほどけていった。
「ありがとう」
最後に顔を撫でてやると、その手のひらをぺろりと舐められた。
アレスの手のひらに確かな熱を残して、ライオンの姿が完全にそこから消えてしまった。わずかばかり残った光も、ふわり――空を漂いながらゆっくりと色をなくして見えなくなる。
最後の光はアレスの手のひらに落ちて、ぱちんと弾けた。その瞬間、アレスの耳にロッドの声が聞こえたような気がした。
「あぁ。……またな」
手のひらに落ちた光は白い牙の姿に戻り、そしてやっぱり風化するようにほろほろと崩れ去って、空の彼方へ流されてしまった。
何も残らなかった手のひらをぎゅっと握りしめて、アレスは深く息を吸い込んだ。背の翼をしまい、後ろで見守ってくれていたカイルとリシュレナを振り返る。二人を見つめる深緑の瞳に、感傷の色はもうどこにもなかった。
「カイル。リシュレナ。――行くぞ」
ロッドが命を削って消し去ってくれた瘴気の壁。その向こうに広がる魔界跡の入口は、三百年の時を経て再びその全貌をアレスの前にさらけ出していた。