08:ロッドの願い
言葉の意味を理解すると同時に、アレスは深緑の瞳を大きく見開いて硬直した。
過去の映像を記憶する魔導球。そこに本来あるべき以上の力を求めた、その代償。
「……――二十年もの命を削ったのか……っ」
ロッドの姿が歪んで見える。熱を持つ眼裏を嘘だと言い聞かせるように、アレスは目を瞑って首を緩く横に振った。
三百年を生きる間に、親しい者たちのほとんどがアレスを残して先に逝ってしまった。
レティシアを探すために一人で未来を生き続けること、この道を選んだことに迷いも後悔もない。けれど時を重ねるごとにのし掛かってくる孤独は想像していたよりもはるかに重く、気が狂いそうな時間のなか細く儚い希望に縋って必死にここまで生きてきた。
ここでロッドと再会できたことは奇跡に近い。純粋にうれしかったのだ。ロッドと言葉を交わし、笑い合えることが。
――それが、彼の命を犠牲にして成り立っていたとは。
「俺の意識の一部を魔導球に閉じ込めたんだ。どうしてもアレスにもう一度会って、話がしたかったんだ。……二十年の寿命のことはセリカと何度も話し合ったよ。結局は俺のわがままを押し通しただけだったけど、でも俺は後悔してない。ここでアレスに会えてよかったと思ってる」
「俺がここへ来なければ、お前の二十年は無駄死になったんだぞ」
「それでもよかったんだ」
「何がいいんだ!」
アレス自身、何を言葉にしていいのか、何をどう伝えたいのかがわからない。ただ激情のまま、怒りと悲しみとやるせなさ全部をロッドにぶつけるようにして叫んだ。そして叫んだあとで、違うのだと首を振る。
その怒りは、悲しみは、やるせなさは――全部アレス自身に向けたものだ。ロッドにそうさせてしまった自分自身に対する、激しい動揺。
レティシアを探すための選択を後悔したことはない。けれどアレスはいま、はじめて後悔に近い感情に押し潰されてしまった。
「何が……いいんだ。お前には守るべき家族がいた。未来があった。それを……それをっ……俺のためなんかに捨てるな」
うまく言葉が紡げない。あらゆる感情ばかりが生まれては胸の中で衝突し、砕けたかけらが不完全な思いとなって舌の上を転がり落ちていく。
そっと肩に手を置かれた感触に、アレスはびくりと体を震わせて顔を上げた。ロッドにそうされるまで、アレスは自分が頭を抱えて項垂れていたことにすら気付いていなかった。
「アレス。違うよ」
金色の髪を風に靡かせて、ロッドが安心させるように微笑んだ。
「俺は二十年を捨てたんじゃない。アレスに会いたかったから使ったんだ。自分のために、使ったんだ」
「……おれはもう、命の犠牲なんて……見たくない」
弱々しく呟いて、アレスがロッドから顔を逸らした。それでもなお肩に置かれた手は離されず、より一層強い力で掴まれる。
「犠牲なんかじゃない」
肩に感じる力の強さから、ロッドの意思が伝わってくるようだ。まぶしい太陽の如く強烈にアレスを照らして、むりやり光の方へ導いていく。
あたたかく、なつかしい光だ。
「俺、お前のために何ができるかずっと考えてた」
ぽつりと呟いた言葉を、アレスはもう遮ることはしない。
アレスが相当の覚悟を持ってこの道を選んだように、ロッドもこの決断をするまでにかなりの時間を費やしたことだろう。彼には家族がいた。独り身で自由の利くアレスとは、動ける時間もわがままを貫ける自由もなかったはずだ。
そんな彼の決意を、アレスはちゃんと聞くべきだと思った。
「俺はどうやったって、お前より先に死んでしまう。お前の苦しみや悲しみを代わりに背負うこともできなければ、軽くすることもできないんだ。俺にできることは限られてた。お前を思い、祈るだけ……ただそれだけだ。こんなに悔しい思いをしたことはない。お前の力になりたいのに、俺にはもうお前と一緒に行く時間も手段もなかったんだ」
どんなにそばにいたいと願っただろう。かけがえのない友は、きっと今もどこかでひとり声を殺して泣いている。
最愛の人を失い、彼の世界だったすべてを捨てて永遠をひとりで生きていく。それは、終わらない苦しみをさまよう永久の牢獄にも等しい。
その重い鎖に捕らわれたアレスを救いたい。残された者たちが願うのは、ただそれだけだった。
「俺、ずっとお前と一緒にいるからな。ひとりだなんて思うなよ」
胸の奥がやさしいぬくもりに包まれる。
捨てざるを得なかった世界だというのに、こんなにもアレスを思ってくれた人がいる。ロッドやメルドール、アンティルーネも、アレスがレティシアを探し出すための道を一緒になって進んでくれていたのだ。わかっているつもりだったのに、長い年月降り積もった孤独の影に、彼らの優しさを感じる余裕がなくなっていた。
ロッドたちだけじゃない。大事な妹のロゼッタも、ガッシュだってきっとそうだ。レティシアを探すために旅立ったのはアレスだが、残された皆も同じ気持ちでアレスの背を押してくれている。
皆の思いをしっかりと胸に刻み込んで、アレスは深呼吸と共にゆっくりと顔を上げた。視線の先に懐かしい友の変わらない笑顔がある。釣られて笑えば、まだ少し硬い表情をあたためるように、涙がひとしずくアレスの頬を静かにこぼれ落ちていった。
どれくらい、そうしていただろう。
二人とも黙ったまま、ただ静かな時だけが流れてゆく。草原を吹き抜ける風の音を聞いていると、激しく揺さぶられていた心がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
「……ロッド。お前とこうして会えて、よかった。……ありがとう」
心からの感謝を込めてぎこちなく笑うと、隣に座るロッドがお手本を見せるように満面の笑みを向けてきた。そのまぶしい笑顔が、ゆっくりと薄く、儚く色をなくしてゆく。
風の匂いが変わった。終わりが近いのだと悟っても、アレスはそれを言葉にすることはしない。ただ懐かしい友の姿を眼裏に、記憶に、心に強く深く刻み込んでいく。
「なぁ、アレス」
「何だ?」
「俺たち、またみんな一緒に会える日が来ると思うんだ」
「そうだな。……その日が来るといいな」
「絶対に来る。だから、アレス。約束しよう」
「また会うと?」
「そうだよ」
そう言って、ロッドがアレスに小指を突き出してきた。この年になって指切りかと戸惑いはしたものの、それがロッドらしくてアレスは久しぶりに自然と声をこぼして笑った気がする。
そっと絡ませたお互いの小指。少し太いロッドの小指の感触が伝わったのはほんの一瞬。別れの合図のように吹き抜けた風にほどけて、ロッドの姿はもうアレスの瞳に映ることはなかった。
『アレス、忘れるなよ。お前が呼べば、俺はいつでも現れる。お前はひとりなんかじゃないんだから』
胸の奥にロッドを感じた。それだけでアレスは救われた気がした。
***
テーブルに置かれた魔導球は、もう二度と光を放つことはなかった。けれどアレスは、それをさびしいとは思わない。
アレスの中に、ロッドはいる。アレスが願えば、それはいつでも鮮やかによみがえるのだ。
長い時を隔てても心は常にそばにあるのだと、そう伝えてくれた友を思い、アレスはゆっくりと目を覚ます。そこにはアレスの思いに応えるかのように、木箱に入ったロッドの白い牙がほのかに淡く光り輝いていた。