06:落日の空中散歩
リシュレナが案内されていた部屋は城の二階だ。窓の下は綺麗に手入れされた生垣が見えたが、飛び降りて無事では済まない高さである。咄嗟に魔法を、と思って伸ばした手には杖すら握っておらず、リシュレナは落下する恐怖にただカイルにしがみ付くしかできなかった。
その体が軽い衝撃に大きく揺れた。体はどこも打ち付けていないようだったが、必死にしがみ付いたせいでカイルの肩を握りしめた手が強張っている。
「レナ。目、開けてみろ」
カイルの落ち着いた声音と共に、リシュレナの髪を揺らしてさわやかな風が吹き抜けていく。ゆっくりと瞼を開くと、しがみ付いたままのカイルの肩越しにどこまでも続く獣人界の森が広がっていた。西の地平線に沈みゆく夕陽が、生命の満ちあふれる深緑を照らしていて、まるで黄金色の海のようにやさしく光り輝いている。
「空の上……」
ぽつりとこぼれた声に応えるように、リシュレナの真下から力強く羽ばたく音がした。ロアだ。リシュレナはカイルと一緒にロアの背中に乗って、獣人界を囲む樹海の真上を悠然と飛んでいた。
「窓の下にロアを待機させてたのね」
「まぁな。さすがに俺も無策で飛び降りるほど馬鹿じゃない」
「それはそうだけど……でもちゃんと言ってよ。びっくりするじゃない」
「少しくらい刺激があった方が楽しいだろ」
「刺激とかそういう問題じゃないの!」
「じゃあ、やめるか?」
そう言うカイルは、さっきからずっと勝ち誇ったように笑っている。リシュレナが断らないのを知っていて聞いてくる、そんな顔だ。彼の思惑にはまってしまったようで若干癪ではあったが、眼下に広がる壮大で美しい景色をもっと見ていたい気持ちも抑えられない。
「……続き、お願いします」
「了解」
リシュレナの了承を得て、カイルがロアを更に高く舞い上がらせる。肌を撫でる風に混じるのは、瑞々しく深い森の香りだ。精霊界で嗅いだような甘い花の匂いはしなかったが、さわやかな森の香りはリシュレナの心と視線を少しだけ前に向けさせてくれるようだった。
落日に染まる黄金色の樹海。徐々に薄闇が広がろうとも、その闇の侵蝕を不気味なものだとは感じない。むしろ心地良い夜の訪れのようにも思えた。
日が差さないという点ではどこにいても闇は闇でしかないのに、獣人界の夜には心を苛む不安な気配がまるでない。打算などなく、本能のままに生き、自然を愛する獣人が暮らす国だからだろうか。人の感情、記憶に悩まされてきたリシュレナにとって、獣人界の空気はとても心が安らいだ。
「レナ。お前、やっと笑ったな」
「……え?」
「怒ったり笑ったり、くるくる変わるお前の表情を見るのは嫌じゃない。今の方が、よっぽどお前らしいと俺は思う」
「ど、どうしたの? 急に」
リシュレナの顔から笑顔が薄れて、代わりに不安げなまなざしがカイルを捉えた。
今ならその先を言わずに、空中散歩を楽しいだけで終わらせられる。けれどカイルはとまれなかった。リシュレナとようやく二人になれたこの時間を少しも無駄にはしたくない。
「一緒に窓から飛び降りて、お前びっくりしただろ。今はこうやって獣人界の景色を眺めて笑ってる。……何を思った?」
そう訊ねておきながら、リシュレナが何かを否定する前にカイルは更に言葉を重ねた。
「お前が感じたその思いの中に、レティシアの影はなかったはずだ。少なくとも俺はそう感じた。今ここにいる間、お前はずっとリシュレナだった。お前はどうだ? 今もレティシアを感じるか?」
「……どうしてそんなこと言うの」
「お前がレティシアの影に隠れてるからだ」
「隠れてなんかない! 私の中にはレティシアだった頃の記憶がある。何を思い、何に悩んで行動していたのかを全部感じることができるわ。それが唯一の証拠よ!」
予想通りの反応を返したリシュレナに、わかっていてもカイルの心中は乱される。少し強くリシュレナの肩を掴むと、カイルは力のままにグイッと自分の方へ上半身を向けさせた。
わずかな驚きに見開かれたすみれ色の瞳に、カイルが映っている。なのに、リシュレナはここにはいないアレスの姿を追っているのだ。そう思うと、余計にカイルの胸がズキリと痛んだ。
「記憶に縋るな! ここに……俺の目の前にいるお前はレティシアなんかじゃない。お前はいつだってリシュレナだ!」
「やめて! 私から居場所を奪わないで!」
咄嗟に振り上げた手をカイルに掴まれる。そのまま手を引かれ、リシュレナはカイルの腕の中に強く抱きしめられてしまった。強引で不器用な力なのに、リシュレナの肩を抱くカイルの腕がかすかに震えている。
「過去にお前の居場所なんてない。お前がいるべき場所は、こちら側だ」
カイルの肩越しに、赤く燃え上がる大きな夕陽が見えた。朝日のさわやかさとは違う心安らぐオレンジ色の落陽は、まるであたたかな暖炉の火に包まれているような心地よささえ感じる。
そのぬくもりは一番近いところでリシュレナを抱きしめていて、「カイル」と名を呼べば「レナ」と消え入りそうな声で応えてくれた。
久しぶりに、愛称で呼ばれたような気がする。
「お前がレティシアかどうかは俺にはわからない。でも……お前はレティシアである前にリシュレナであることを忘れるな」
抱きしめているカイルの方が、縋るようにリシュレナの首筋に顔をうずめる。
吐息ほどの小さな声でささやかれた言葉は夕陽と同じオレンジ色に染まって、リシュレナの心の奥に深く確かに刻まれていった。
***
「アレス殿。こちらにおいででしたか」
城の最上階。一番眺めのよい窓から外の景色を眺めていたアレスは、かけられた声に背後のジェダールを一瞥して、再び視線を外へと戻した。
「魔導球の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」
「二人が戻ってからにする」
アレスの視線の先には、黄昏時に沈む空を悠然と飛ぶ蒼銀色の竜ロアの姿があった。その背に乗っているであろう二人の表情まではさすがに見えないが、落ち着いたロアの様子から特に大きな異変はないと判断できる。
精霊界での一件から塞ぎ込んでしまったリシュレナが気がかりだったが、うまく気分転換に連れ出してくれたカイルには感謝しかない。リシュレナが落ち込んでしまった原因であるアレスが動くよりも、リシュレナの気持ちは紛れるだろう。
「不可思議な竜を伴う青年と、時間魔法の習得者。ずいぶんと個性豊かな仲間ですね」
「お前もそう思うか?」
無意識に口角を上げて笑うアレスとは逆に、ジェダールは難しい表情を浮かべて意味深に黙した。その視線は鋭く、上空を旋回する蒼銀色の竜に向けられている。
「レティシア様の記憶を持ち、その名を語る白魔道士も不可解ですが……私はそれ以上に、あの青年が脅威に思えてなりません」
「カイルが脅威?」
「えぇ。私は本質が獣ゆえ、より敏感に気配を感じます。本当はアレス殿もお気づきではありませんか? あの青年の奥底に揺らめく、何らかの力を」
確かにカイルは謎に包まれた存在だ。見たこともない蒼銀色の竜を従え、どの種族にも属さない。隠された左目は魔族を象徴する赤い目をしているものの、完全に闇であるかといえばそうでもなく、多少不器用ではあるがむしろ純粋で素直な青年だ。
ロアもロアで、その身に宿す力は神龍イルヴァールとほぼ互角であることをアレスは感じている。
二人の素性に繋がるものといえばあの金色の指輪が思い浮かんだが、長い時を生きてきたアレスでも二頭の竜が交差する紋様は見たことがなかった。
「確かにあいつは、自分でもわからないほどの謎を多く抱えている。本来なら素性がはっきりするまで警戒しておくべきなのだろうが……俺はとっくにあいつを信用している」
「……ですが、不安は残ります」
「大丈夫だ。聖獣である竜と共にいるあいつが闇であるはずがない」
カイルは信用するに足る男だ。自分にまっすぐで、若さゆえに反発もするが、根は素直で優しい。振るう力は純粋で、汚れを知らぬ真白のようだ。忌むべき色を宿していても、カイルはカイルで闇ではない。
「アレス殿がそこまで言うのでしたら私も彼を信じましょう。ですが、闇は確実に広まりつつあります。お気をつけください」
「そうだな」
二人の視線を受けて、蒼銀色の竜がゆっくりと降下してくる。肉眼でも確認できるほどに高度を落としたロアの背に乗る二人は、精霊界を出た時よりも幾分すっきりとした表情をしていた。
「私たちも行きましょう。かつての獣王ロッドが首を長くして待っているはずです」
友の名に、アレスの頬が自然と緩んだ。彼のことだ。きっと変わらない元気な姿を、魔導球に残してくれているはずだ。
先の見えない闇の迷路を手探りで進んでいる今、ロッドに会うのはこれ以上ないくらいの救いだ。
最後に会った彼の姿を思い浮かべながら、アレスは自分でも驚くほど軽い足取りでジェダールのあとを歩いていった。