05:獣人界ガイゼル
魔法都市アーヴァンを出発した時よりも数倍重い気持ちを抱えたまま、アレスたちは精霊界オルディオを後にした。
リシュレナはほとんど喋ることはなく、アレスの方を見ることもしない。カイルもカイルで思うことがあるようで、会話は最低限に留められた。アレスだけが普段通りに振る舞い、イルヴァールに乗って若い二人を先導している。それでも昨夜のことを忘れられるほど冷徹にもなりきれず、わずかな心の乱れはイルヴァールだけに伝わった。
レティシアの記憶を持つリシュレナ。けれどアレスの心はリシュレナを「違う」のだと判断した。ならばリシュレナの中にあるレティシアの記憶はどこから来たものなのか。リシュレナが魔界跡の闇に狙われている原因はその辺りにありそうだ。
原因を突き止め、闇を払うことができれば、リシュレナを惑わす記憶も薄れていくかもしれない。レティシアの記憶から解放されれば、そばにある不器用な優しさにリシュレナも気付けるはずだ。
そう思い、アレスはぐっと強く手綱を握る。アレスの意図を読んで、イルヴァールの翼から白い羽根が光を纏って舞い上がった。
羽根に絡みつくのは転送の呪文。向かう先は最後の魔導球が保管されている獣人界ガイゼル。かつての友が治めた、緑豊かな自然の王国。
白い羽根のカーテンが薄れゆく向こうで、精霊界を隠す時忘れの森の漆黒が南国を思わせる明るい緑に塗り替えられていく。羽根の光が弾けて消えた先、アレスたちの眼下に広がっていたのは陽光にまばゆくきらめくエバーグリーンの樹海だった。
リムストール大陸を南北に分断するルヴァカーン山脈の南方。アレスの故郷でもあるアークドゥールより更に南に下った果てに広がる樹海一帯が、獣人界ガイゼルだ。とはいえ王国を築いているのはその一部で、周囲の森は手付かずの自然がどこまでも広がっている。
その一角、丸く樹海が途切れた場所に白い石で築かれた建物が見えた。歴史ある神殿を思わせる建築物には緑の蔦が絡みつき、入口から伸びた階段には金の刺繍を施した赤い絨毯が敷かれている。その絨毯の上に、小麦色の肌をした中年の男性が立ってた。
アレスの外見よりは年上の男性だ。皺の刻まれ始めた顔に朗らかな笑みを浮かべて、上空のアレスたちに手を振っている。身に付けているものは簡素だが、羽根飾りのついた金色の王冠が彼の身分を物語っていた。
「お初にお目にかかります、英雄アレス殿」
イルヴァールを降下させたアレスに向かって、男性が恭しく頭を垂れて跪いた。アレスも会うのは初めてだったが、目の前の男が獣王であることに間違いはないだろう。名は確かジェダールと聞き及んでいる。アンティルーネが前もって風の精霊を飛ばしてくれたと言っていたし、何よりこの男は笑うと目元がかつての友によく似ていた。
「そういうのはやめてくれ。それに英雄であるというのなら、お前たちの先祖もそうなるだろう」
「ふふ、そうですね。では遠慮なく……」
立ち上がった獣王ジェダールはアレスよりも身長が少し高かった。小麦色の肌に金髪、それに獣王らしく逞しい体躯は嫌でもロッドの姿を思い出させてくる。
「こういうもてなしが苦手だと、かつての獣王ロッドも日記に残していました」
「日記? あいつが?」
「えぇ。興味がおありでしたら後でお持ちいたしますが」
「いや、いい。あいつの日記は疲れそうだ」
読んでもいないのに、何だかもう疲れた気分になる。けれどそれは心地良い疲労のようでもあって、アレスは自然と頬が緩むのを止められなかった。
「魔導球の準備は整えてあります。すぐご覧になりますか? しばらく休憩を挟んでも、こちらは大丈夫ですが」
「そうだな……」
精霊界から獣人界まではイルヴァールの転移魔法を使ったので、休憩を挟むほど疲労を感じているわけでもない。けれどカイルの後ろで俯いたままのリシュレナがあまりに生気のない顔をしていたので、アレスはジェダールの申し出をありがたく受けることにした。
「ではこちらへ。部屋へ案内いたします」
ジェダールに続いて城へ入ると、懐かしい既視感がアレスのなかによみがえる。内部は修復や増築がなされ、当時は布を被せた椅子しか置かれていなかった謁見の間も、今は立派な敷物や花瓶に生けた花で飾られ豪華に生まれ変わっている。
開放的で自由を愛する獣人らしく、謁見の間には扉がない。だからその前を通り過ぎた時、アレスは謁見の間に敷かれた敷物が龍神界アークドゥール産であることが見て取れた。長い年月が経っても、今なおこうして交流を続けている両国を思えば、胸の内がほんのりと優しい色に染まっていった。
***
アレスたちと別れて、リシュレナは二階の一部屋へと案内された。正直アレスの顔を見るのが怖かったので、一人になれたことに心は自分でも驚くほどにホッとしている。どういう顔をしてアレスと接していけばいいのかわからなかった。そして自分が何者であるのかも、わからない。
昨夜リシュレナは、レティシアであることを真正面から否定された。だと言うのにはじめて訪れた獣人界の景色は、またも記憶の奥底から懐かしい感情を伴ってリシュレナの心を揺さぶってくる。
失恋の胸の痛みと、レティシアの記憶による自己の混濁。悲しみも混乱も、感情が追いつかなくて、脳がずっと何かを考えてしまっている。
とりあえずベッドに体を投げ出して、開け放たれた窓の向こうに広がる青空をぼんやりと眺めてみた。むりやりにでも目を閉じると、小鳥のさえずりと穏やかな葉擦れの音が聞こえてきた。やさしく頬を撫でる風の匂いはさわやかで、ほんのりと甘い。体を包む陽光のぬくもりは記憶にすらない母の腕のようにあたたかく、リシュレナはやっと心が落ち着くのを感じた。
ほんの少しだけ、瞼を閉じたはずだった。
けれど次に目を開いたとき室内はほんのりとオレンジ色に染まっていて、絨毯の敷かれた床の上には窓枠の影が濃い色をくっきりと落としていた。
「えっ……!」
慌てて飛び起きると、呆れた笑い声が部屋の中から聞こえてきた。見れば開け放たれた窓枠に、カイルが腰をかけてくつろいでいる。もしかして、リシュレナの様子を見に来てくれたのだろうか。
「カイル?」
「お前、寝過ぎ」
「ご、ごめん。自分でもびっくりしてる。……魔導球は?」
「夜に見ることになった。お前が全然起きないからな」
「ごめん。……でも、別に待ってなくてもよかったのに……。私はいてもいなくてもいいんだし……」
つい言葉に棘が混ざってしまう。本当はこんなこと言いたくないのに、言ってしまったあとで、それを否定してほしいのだと気付く。
はっきりと拒絶されたのに、リシュレナの心はまだアレスの影に縛られていた。この恋心は紛れもなくリシュレナのもので、受け取るべきはアレスしかいないのだと、そうカイルにも認めてほしかった。
味方がほしいのだ。昨日から癒えない傷をやさしく慰めてくれるぬくもりが。
けれどその手をカイルに望むのは筋違いだ。これはリシュレナとアレスの問題――いいや、違う。もう、リシュレナひとりの問題だった。
アレスはすでに答えを出している。後はリシュレナがその答えにどう向き合っていくのか、それだけしかない。
「レナ」
久しぶりに耳にする愛称に、リシュレナはまた気付いてしまった。
アレスはずっとリシュレナのことを愛称では呼んでいない。そこに……もう最初から望みなどなかったのだと思い知らされる。
「少し付き合え」
そう声が聞こえたかと思うと、リシュレナは少し強い力でカイルに腕を引かれた。
「な、なに?」
てっきり部屋を出るものかと思ったが、カイルが向かう先は扉ではなく開け放った窓の方だ。夜になるにはまだ早く、空は鮮やかなオレンジ色とブルーのグラデーションに彩られている。
「ちょっと、カイル?」
「行くぞ」
「行くってどこに……」
リシュレナのわずかな抵抗は、掴まれたカイルの右手に全部押し込まれてしまったかのようだ。そうこうしているうちにカイルは窓枠に足をかけ、リシュレナの手を引いたまま二階の部屋から外へと飛び降りてしまった。