表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の記憶  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第12章 懐かしき邂逅
107/152

04:失恋の痛み

 レティシアを失ってから三百年。孤独を埋めるためにその場限りの人肌を求めたとしても、それはきっと誰にも咎められることはないだろう。けれどアレスは、どうしても、その一線を越えることができなかった。越えることなど考えられなかった。


 アレスが求めるのはレティシアだ。

 少し体を引き寄せるだけで頬を染め、兄以外の異性をまるで知らない箱入りの姫。守らねばと思わせるほど華奢なくせに、こうと決めたらてこでも動かない頑固者。ひとりで何でも背負ってしまう性分を変えるのに、アレスもずいぶんと苦労した。

 結局は最後までひとりで決断を迫られ世界を救ってしまったが、そんなレティシアをアレスは長い人生の中で必ず見つけると自身に誓ったのだ。

 時空に紛れ、もしかしたら姿が変わっているかもしれない。けれど、アレスの中にはレティシアの片翼がある。会えば自ずと「そう」であることがわかると、あの時ラスティーンは確かにそう言った。


 だから、わかる。

 リシュレナは、違うのだと。

 彼女がなぜレティシアの記憶を共有しているのかはわからないが、アレスの心はリシュレナに特別な思いを抱いてはいない。魔界跡の闇に狙われている彼女を守らねばと強く思いはするものの、そこに異性としての感情はなかった。

 不安げに揺れるすみれ色の瞳に罪悪感がないわけではなかったが、余計な期待を持たせてしまってはきっと誰のためにもならない。


 アレスが求めるのはレティシアだ。

 それはこれから先も、決して変わることはない。


「俺の心には、あの日からずっと大きな穴が開いている」


 あの日、必死になって伸ばした手に掴み取りたかったのは昔も今もただひとり。


「それはレティシアでしか埋められない」

「で、でも……私はっ」

「リシュレナ」


 名を呼ばれただけで、リシュレナはそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。呼吸すら忘れ、胸が痛いくらいに締め付けられていく。

 じわりと歪む視界に映るのは、こちらをまっすぐに見つめるアレスだ。リシュレナの思いから目を逸らさず、真摯に受け止めようとする姿勢であるはずなのに、今だけはその深緑の瞳から逃れてしまいたかった。


「お前は、リシュレナだ。レティシアとは違う。……すまない」


 告げられた言葉を頭が理解するよりも先に、見開かれた瞳からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちてゆく。

「私」は「レティシア」だ。「レティシア」であるはずなのに、どうしてこんなにもはっきりと拒絶されなければならないのか。

 まさかアレスに拒まれるとは露とも思っておらず、リシュレナの心は絶望と羞恥と悲しみでぐちゃぐちゃだ。何も考えることができない。何も考えたくない。今はとにかく、一刻も早くアレスの前から姿を消したかった。


「ご、ごめ……なさいっ」


 かろうじてそれだけ叫ぶと、リシュレナは逃げるようにアレスの前から走り去っていった。


 そこら中に咲く蒼水晶の光が、リシュレナの心に蒼く冷たく突き刺さる。さっきまでは美しいと見惚れていたはずの景色が、今は無機質に凍えた色に見えてしまう。風に揺れる白いルーフィアの花もリシュレナを嘲笑っているのかもしれない。そんなことあるはずもないのに、まるで精霊界全体がリシュレナを異物として見ているかのようだ。


 涙がとまらない。呼吸が追いつかない。胸が張り裂けそうだ。

 どうしてアレスは認めてくれないのだろう。レティシアの記憶を持つ限り、リシュレナはレティシアに違いないのに。それなのにアレスは違うと断言する。リシュレナではダメなのだと言いきってしまう。

 ならばリシュレナは「誰」なのか。レティシアの記憶を持つ、レティシアではない存在。違う。違う。この記憶は本物だ。「私」の「レティシア」だった頃の記憶だ。だとすれば「私」はやはり「レティシア」で、あぁ……けれどアレスは「私」を「レティシア」ではないと言う。

 わからない。

 わからない。

「私」は一体、何者なのだろう――。



「レナ!」


 庭園の奥、カイルは走り去るリシュレナを見かけて声をかけた。けれどリシュレナはこちらを振り向きもせず、そのまま花の小道の先へと逃げるように消えてしまった。


「何だ、あいつ」


 カイルがリシュレナを見たのは、静かすぎる精霊界に馴染めず眠れない体を起こして庭園に来た直後だった。明らかに様子のおかしかったリシュレナに、カイルの足が自然と動く。それをやんわりと止めたのは、アンティルーネだった。


「今はひとりにさせておあげなさい。大丈夫。ここは精霊界です。悪意ある者は入っては来られません。念のために小さな妖精も付けていますから安心してください」

「何があった?」

「それはわかりませんが……けれど、想像はつきます」


 リシュレナが向かった泉にはアレスがいたはずだ。泣きながら戻ってきたリシュレナを見れば、聡いアンティルーネにはおおよその見当がつく。

 アンティルーネもまた、自分をレティシアだと告げたリシュレナに違和感を覚えていたのだ。確かにリシュレナの魔力の色はレティシアのそれと酷似しているように感じたが、何かが微妙にずれている気がした。それが何なのかをはっきりとは断言できないのだが、きっとアレスも同じように感じたのだろう。


「あいつ……泣いてたな」

「涙が気持ちを落ち着かせることもあります。たくさん泣いて、本来の彼女に戻れるのならよいのですが」

「本来の、って……やっぱりあいつ、どこかおかしいよな。アレスに出会ってから、何て言うか……自分を見失ってるっつーか、そんな感じがする」

「あなたも、そう感じていましたか」


 霧の樹海ではじめて出会った時のリシュレナは、もっと元気で明るい年相応の女の子という感じがした。物怖じせずカイルに刃向かったり、かと思えば素直に感謝をしたり、くるくると表情の変わる女だと思った。

 それがアレスと出会ってから、急にしおらしくなってしまった。憧れの相手に対してほんのちょっぴり背伸びをするという、かわいらしいものではない。リシュレナ本人はそれが自然であると考えていたようだが、カイルから見れば自分をむりやり押し殺して別人になりきろうとしている節が見受けられた。

 まるで太陽が月に生まれ変わろうと必死にもがいているようで、正直カイルはリシュレナを見るのがつらいとさえ思ってしまったほどだ。

 自分の感覚がおかしいのかと悩みもしたが、どうやらアンティルーネもカイルと同じことを思っていたらしい。精霊界の女王がそう言うのであれば、やはり今のリシュレナはどこかおかしいのだと《《安心した》》。


「リシュレナが何者なのかは私にもわかりません。レティシア様の記憶を受け継いでいるようで、けれどレティシア様ではない気がします。きっと彼女はその記憶ゆえにひどく悩んでいることでしょう。自分が誰であるのか。なぜレティシア様の記憶が自分にあるのか。レティシア様の記憶に固執するあまり、自分自身を見失っているかもしれません」

「でも……アレスを慕う気持ちまでは否定できないだろ」


 そう言ってしまってから、はっとする。これではまるで王妃相手に恋愛相談をしているみたいではないか。ばつが悪そうに頭を掻いていると、隣でくすりとこぼれる楽しげな笑い声が聞こえた。


「そこは今後、あなたにがんばってもらわなくてはね」

「別に俺はっ」

「カイル。大事だと思ったものは、決して手放してはダメよ。失ってからでは遅いのだから」


 ――お前は失うな。つらいだけだ。


 アーヴァンで、レティシアが刻まれた壁画を見ながらそう呟いたアレスの横顔が思い出される。すでに失った男の、手の届かない光を切望するまなざしは、胸が締め付けられるほどに苦しかった。


「……同じことを、アレスにも言われた」

「そう。きっとアレス様も、自分と同じ思いは誰にもさせたくなかったのね」


 アレスにとって何よりも大切だった存在、レティシア。許されるなら、この世界よりも、きっとレティシアを守り抜きたかったことだろう。

 レティシアを失い、つらい時の姿のままで生き続けることになったアレスの苦しみを、アンティルーネたちがじゅんぶんに知り得ることはできない。それはアレスを大切に思う、残された者たちが感じてきた歯がゆさでもあった。

 アレスの苦しみを半分でもいい、分かち合い背負っていくことができたらどんなにいいだろう。けれど同じ苦しみを知り得るのはヴァレスだけであり、その苦しみを癒せるのはレティシアしかいない。残された者たちはただひたすらにアレスを思い、祈るだけだ。


「カイル。どうかアレス様を支えてあげて。あなたには何か強い力を感じます」


 そう言って淡く微笑むアンティルーネに、カイルは何と答えていいのかわからず、ただ曖昧に視線を逸らすだけだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ