03:レティシアとリシュレナ
奇妙な感覚だった。
花と緑に彩られた王城も、そこかしこに群生する蒼水晶のきらめきも、外の世界では見たこともない花々を目にしても、リシュレナの心には特別な感動が沸き起こらなかった。
神秘的な精霊界を見て、素直に美しいとは思う。けれどその感情ははじめて見たものに対しての感動ではなく、ただリシュレナの中にあるのは記憶を呼び起こす既視感だった。
飛び交う小さな精霊の光も、王城の裏庭から続く小道の先に水浴び場があることも知っている。裏庭の庭園に咲く、「希望」という意味を持つ白いルーフィアの花も。その花を髪に飾られたことも、全部リシュレナの記憶として残っている。
『この花は……お前に似合う気がする』
耳元にやさしく触れた指先の熱でさえ、目を閉じれば鮮明に思い出すことができた。恥ずかしくて顔を背けたのは『私』だ。
花壇に咲くルーフィアの花にそっと触れると、リシュレナの胸があまく軋んだ。
「リシュレナ? こんなところでどうしたのです?」
不意に声をかけられ、振り向いた先にアンティルーネの姿が見えた。
「あ、ごめんなさい。あんまり綺麗な庭園だったので」
「構いませんよ。そう言ってもらえると私もうれしいわ」
「めずらしい花がたくさんあるんですね。半分くらいははじめて見るかも……」
「そうね。外の世界では枯れてしまうものも多いから」
リシュレナのそばにしゃがみ込んだアンティルーネが、その足元に咲く白いルーフィアの花を懐かしむように見つめた。
「これもそのひとつよ。ここでしか咲けない花だけど、アレス様の中には枯れることなく咲き続けている」
「ルーフィア。希望という意味を持つ……私にとっても特別な花」
「リシュレナ?」
「……いいえ。私は……レティシアです」
どこか夢うつつの表情を浮かべたまま、リシュレナはまるで何かに導かれるように歩き出した。感じる。体の奥にある何か強い力が、リシュレナを庭園の奥へと引き寄せている。
その先にあるのは、二人にとって思い出の場所だ。互いの思いを確信した、蒼水晶きらめく清らかな泉。――そして、アレスはきっとそこにいる。
「レティシア、様? ……でも……まさか、そんな」
風にゆらりと揺蕩う花のように、どこか覚束ない足取りで歩いていくリシュレナの後ろ姿を、アンティルーネは何ともいえない表情で見つめていた。
***
儚い音を響かせて、湖の水面が銀色の波紋を躍らせている。
風に流されて漂う甘い花の匂い。はらりと落ちて湖面を乱すいくつもの白い花びら。水面に写し取られた三日月が淡い月光を弾いて、銀色の佳人を浮かび上がらせた。
『アレス』
あのとき触れた確かな熱が、今でも指先に残っている。水の冷たさも、腕に抱いたぬくもりも、思考を惑わす甘い残り香さえアレスの脳を刺激した。
この腕に閉じ込めた華奢な体。震える細い肩。恥じらいに揺れる青い瞳にかすかな熱を見た瞬間、強引に唇を塞いで息すら奪うほどの長いくちづけを望んだ。
どこへもやらない。翼を広げ飛び立つその手を再び捕まえることができたのなら、今度こそ絶対に逃がしたりはしないのに。
――レティシア。
声にならない声で、愛しき者の名を呼んだ。
蒼水晶の湖の上、佇むレティシアの背から二枚の翼が現れる。水面を揺らし、淡い燐光を巻き上げながら羽ばたくレティシアにアレスは必死になって手を伸ばした。
行くなと。
もう二度と失いたくはないのだと。
積年の思いが、震えるこの手が今度こそ届くように。
「レティシア!」
指先に確かな手応えを感じて、掴んだものを強く腕の中に引き込んだ。と同時に短い悲鳴が聞こえ、腕に抱いたレティシアの姿が薄く掠れてゆく。色をなくすレティシアに重なってゆっくりと姿を現したのは、琥珀色の髪をしたひとりの少女だった。
「……リシュ、レナ……?」
湖岸に立つ木に背を預け、座り込んだところまでは覚えている。蒼くゆらめく水面を見つめているうちに、アレスはどうやら眠ってしまったらしい。
レティシアを抱きしめていたはずの腕の中、近い距離で見つめ合うのはリシュレナだ。彼女の頬が恥じらいに赤く染まったことで、アレスは自分がリシュレナを強く抱きしめていることを知った。
「……っ、すまない」
抱きしめた手で、今度は肩を掴んでリシュレナの体を押しやった。離れていく体に、なぜかリシュレナの瞳が悲しげに揺れる。
「だ、大丈夫です。私……」
「いや……本当に、すまなかった。……あいつかと……」
言葉の最後は吐息よりも小さく、まるで懺悔でもしているような痛々しさが絡みついていた。
アレスがリシュレナを誰と見間違えたのか、そんなことは考えなくてもわかる。ここは精霊界で、蒼水晶の泉はアレスとレティシアが思いを重ね合った大事な場所だ。そんなところで別の女性と抱き合うなど、たとえ寝惚けていたとしてもアレスはきっと自分自身を許せないだろう。そう思っていると、案の定アレスは素早くリシュレナと距離を取って立ち上がり、自身の顔を手のひらで覆ってしまった。
「……悪い。今のは忘れてくれ」
「え?」
「明日の出発は早い。部屋へ戻ろう」
忘れてくれと言ったアレスの方が、一刻も早く忘れたがっているようだ。こちらを少しも見ないアレスの背中にかすかな拒絶を感じて、リシュレナは胸が引き裂かれる思いがした。
抱きしめられた時、その腕の力に、肌の香りと体温にどきりとした。恥ずかしさもあるにはあったが、それを上回るほどの喜びがリシュレナの体中を駆け巡った。
やっと触れ合えた。
やっと戻ってこられた。
リシュレナの居場所はアレスのそばで、彼の隣に並び立てるのは自分だけなのだと確信したばかりだったのに……。
「……です」
「リシュレナ?」
「……いや、です。私……忘れません」
ぎくりと、アレスが肩を震わせるのがわかった。それでもリシュレナはもうとまれなかった。さっきから胸の奥がずっと悲鳴を上げている。いかないでと。私は「レティシア」なのだから、抱きしめたことも後悔しなくていいのだと今すぐに伝えたい。
「……私、覚えてます。この泉で抱きしめてくれたことも、片翼を失った私に必死で呼びかけてくれたことも、魔界跡でアレスが両親と戦ったことも全部覚えています! 魔法都市では結晶石ごと体を封印しようとした私を抱きしめて、これから何をしたいのかを聞いてくれたわ。そうでしょう?」
「……なぜそれを」
「私はあなたと一緒に世界を巡ってみたいと言ったわ」
冷静さを欠いた深緑の瞳が驚愕に見開かれる。その瞳に映っているのは「リシュレナ」か、それとも「レティシア」か。アレスの心にレティシアの影を刻み込みたくて、リシュレナは記憶に残る面影と変わらぬ微笑みを浮かべてみせた。
「私は今度こそ、あなたと共にありたい」
「まさか……そんな……っ」
「私……レティシアです。レティシアなんです」
ざぁっと木の葉を揺らして、強めの風が吹き抜けていく。それはまるで精霊界全体が震えているようでもあった。
***
空気のざわめきに、休んでいたイルヴァールが首をもたげて周囲の様子を窺った。
精霊界の入口、黄色い花畑に巨体を降ろしているのはイルヴァールだけではない。蒼銀色の体を持つロアも何かを感じ取ったらしく、イルヴァール同様に空を見上げている。
「何を感じた?」
訊ねるイルヴァールに、ロアが緩く首を振る。見上げた空には星が瞬くばかりで、さきほど感じた違和感の片鱗は夜空の濃紺に消え去ってしまった。
「わからない。ただ、敵意ではなかったと思う」
「そうだな。どちらかといえば……嘆き悲しんでいるようだった」
「嘆く? 誰かいたのか?」
「いや……人ではなく、世界そのもの……というべきか。不思議な感覚だ」
腑に落ちない表情を浮かべたイルヴァールが、ロアから目を逸らして夜空を仰ぎ見る。吹き抜けた風に紛れて、どこかで嗅いだ懐かしいにおいがした。