自由研究「ホムンクルスの一生」
僕は自室の椅子に座り、ウンウン唸っていた。夏休みの自由研究の題目が決まらないのだ。しかも、今日は八月三十日。今日と明日で夏休みは終わりだというのに、僕のレポート用紙は白紙だ。このままではまずい。いっそ去年と同様、玩具のモーターに羽を付けて扇風機でも作るか?
「夕飯よー」
一階の居間から、母さんの呼び声が聞こえた。僕は椅子から立ち上がり、一階へと降りる。
食卓に着いて、僕と母さんの二人は手を合わせ、「いただきます」と言った。
今日の夕飯は素麺だ。今日の朝と昼も素麺だったし、昨日も三食素麺だった。ここのところ毎日素麺である。これは母さんの怠慢だ。僕は抗議することにした。
「母さん、素麺ばっかりで飽きたよ」
「あら、じゃあ今度はあんたがご飯を作ってくれる?」
僕はぐうの音も出ないほどに言い負かされ、しぶしぶ素麺を胃に流し込む作業に戻った。
「そういえば、自由研究はやったの?」
「いいえ」
僕は正直に自由研究の進捗を答えた。すると母はニヤリと笑い、テーブルの脇に置かれた鞄から紙製の箱状パッケージを取り出して、僕に見せびらかした。
その箱には『ホムンクルス製作キット』とポップな字体で大きく書かれており、デフォルメされたフラスコや胎児のような絵もプリントされていた。
「さっきこれを貰ってきたのよ。せっかくだし、自由研究でホムンクルス作ってみない?」
ホムンクルス製作キット。詳しいことは知らないが、最近流行っているらしい。
「三時間くらいで作れて一日で死んじゃうらしいから、夏休みが終わる寸前のあんたにはぴったりだと思うんだけど」
つまり母さんは、ホムンクルスの製作と、その一生の観察で自由研究を書けと言いたいらしい。確かに今の僕にはもうそれくらいしか残された道はなさそうだった。
「分かったよ。夕飯食べたら説明書を読んでみる」
僕は母さんの提案に乗ることにした。
夕飯を食べ終え、製作キットを持って自室に戻る。そして紙箱を開け、中身を取り出した。中には説明書と鈍色の袋が二つ入っている。袋の一つには『濃縮培養剤』、もう一つには『ホムンクルスのもと』と印字されていた。
説明書を読んでみる。そこには作り方や注意事項、ホムンクルスの扱い方などについて書かれていた。寿命が一日というのはどうやら本当らしい。蝉よりも儚い命だ。
とにかく、明日の朝になったらお風呂でホムンクルスを作ってみよう。ホムンクルスは生まれた時から知識を持っているらしく、会話もできるのだそうだ。僕は、未知なるホムンクルスとの邂逅に胸をワクワクさせた。
明くる日の朝、母さんよりも早く目覚めた僕は、朝ごはんも食べずに風呂場へと急いだ。
浴槽に風呂用の洗剤をばら撒き、ブラシやスポンジでゴシゴシと丹念に洗う。この浴槽がホムンクルスの揺り籠となるのだから、綺麗にしておけと説明書に書いてあったのだ。僕自身、生まれたところが汚かったら嫌な気分になると思うので、掃除をする手には自然と力が入った。
そして浴槽を十二分に洗い、僕は最後にシャワーで洗剤の泡を洗い流す。浴槽は曇りやぬめり一つないピカピカの状態になった。多分、普段の二十倍は丁寧に洗ったと思う。母さんが見たら、普段からこれくらい真面目に洗えと文句を言いそうだ。
僕は浴槽に栓をして、風呂場の壁に埋め込まれたコンソールを操作した。説明書に従い、湯量を百リットル、温度を三十八度に設定する。よし、湯張り開始だ!
「お湯張りをします」
コンソールは機械的な声でそう言い、お湯を流し始めた。あとは濃縮培養剤だ。
僕は濃縮培養剤の袋を開け、中身を取り出した。それは、入浴剤のような緑色の固形物だった。浴槽の底に置くと、流れてきたお湯に触れて、徐々に溶け出し始める。
あとは浴槽に蓋をして、お湯が張られるのを待つのみだ。
「ピンポン! ピンポン! お風呂が湧きました! お風呂が湧きました!」
落ち着かずに居間でウロウロしていると、お風呂コンソールが歓喜の声を上げているのが聞こえた。僕はホムンクルスのもとを手にし、急いでお風呂に向かった。
浴槽の蓋を外すと、薄緑色に染まったお湯……培養液が目に入る。少し偏りがあるかもしれないので、僕は自分の腕を培養液に突っ込んでかき混ぜた。これで多分ちゃんと混ざっただろう。
そして僕は、満を持してホムンクルスのもとが入った袋を開けた。中には、干からびた胎児のミイラのような、侘しさの漂う外見の物体が入っていた。どうやらこれが、ホムンクルスのもとらしい。
僕はホムンクルスのもとを培養液の中に浮かべる。最初はぷかぷかと浮かんでいたが、培養液を吸っているのか、ホムンクルスのもとは次第に沈んでいった。
さて、あとは三時間ほど待つだけだ。そういえばまだ朝ごはんも食べていない。僕は浴槽をそのままにして、居間へ向かった。
起き出してきた母さんに素麺を作ってもらい、僕はホムンクルスの誕生を待つ。胸がドキドキする。一体どんな奴なんだろう。どんなことができるんだろう。どんなことを話してくれるんだろう。
「ちょっと出かけてくるわ!」
母さんは唐突にそう言い出し、財布と携帯電話を持って慌てて家を出ていった。一体どうしたというのだろう。まあいいか。お母さんが少し変わっているのは今に始まったことではない。
僕は時計を見た。あと二時間くらいか。まだかな、まだかな。
時は満ちた。僕はゆっくりと立ち上がり、風呂場へと向かう。
擦りガラスの向こうに、何者かの存在を感じる。誕生したのだ、ホムンクルスが。僕は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと風呂の扉を開けた。
「――!」
そこには、真っ白な女の子がいた。浴槽の中に立つその子は、驚愕と恐怖の視線を僕に向けている。そして両腕で自分の体を抱き、大事なところを隠して後ずさった。
陶器のような肌に、新雪のような髪が背中の辺りにまで伸びている。彼女の全身は、穢のない純白だった。例外的に目だけは綺麗な赤色に染まっており、その瞳は震えている。
僕はその美しさに、暫くの間呼吸をするのも忘れ、魅入っていた。
しかしその一瞬は、打ち砕かれる。突如現れた母さんが僕の肩を掴み、更衣室の外へと投げ飛ばしたからだ。僕は投げ飛ばされた挙句、ごろごろと転がってタンスの角に頭をぶつけた。僕は痛みのあまりに、涙を流しながら口をぱくぱくさせた。痛すぎて声が出なかった。
「ごめんね! あのバカ、デリカシーないの! 今服を着せてあげるからね!」
「あ、はい……」
更衣室の方から、そういう会話が聞こえてくる。ホムンクルスが女の子だなんて聞いてないぞ。計ったな、母さんめ。
居間で椅子に座って待っていると、母さんと女の子がやってくる。女の子は、涼しげな白のロングキャミソールを着ており、肌や髪の色と合わさってより一層清らかに見えた。恐らく先程慌てて出ていった母さんが買ってきたのだろう。
「ホム子ちゃん、こいつがあなたを作った奴よ」
母さんは僕を指差しながら言った。女の子は母さんの服の裾を握り、まだ少しばかり恐怖の残る視線を僕に向けている。僕はいたたまれなくなり、立ち上がって頭を下げた。
「さ、さっきはごめん。君が女の子だなんて知らなかったんだ。えっと、その、あまりにも綺麗だったから、つい我を忘れて魅入っちゃって。本当にごめん!」
僕は言いながら、自分でも墓穴を掘っているのを自覚した。
「き、きれ……」
女の子は白い頬を、ほんのりと赤く染める。ああ、その表情も美しい。同年代の猿女どもとは比べ物にならない。
「ホム子ちゃん、こいつこんな調子の良い言い訳してるけど、本当に悪気はなかったのよ。許してあげてくれない?」
「……うん。怒って、ないから」
女の子は、僕を許してくれた。僕は嬉しくなって、女の子に握手を求めた。
「ありがとう! えっと、その、僕ケンって言うんだ。皆にはケンちゃんて呼ばれてる」
僕はしどろもどろになりながら、自己紹介のような真似をした。
「あ、うん。よろしくお願いします、ケン、ちゃん。私は……ホム子、なのかな」
女の子は、自分の名前に自信がないようだった。というかやはり、ホム子とかいうふざけた名前は母さんが勝手にそう呼んでいただけか。
「母さん! この子に変な名前付けないでよ!」
僕は母さんに抗議する。しかし母さんはきょとんとした顔で僕を見た。
「変かしら? かわいいと思うんだけど」
母さんは本気でそう思っているらしかった。絶望的なセンスだ。
「あ、あの、私ホム子で良いです。ううん、ホム子が良い」
女の子が言う。なんてことだ。母さんのせいだ。
「ほら~、この可愛さが分からないなんて、所詮はオスガキね。そんなんじゃ女の子は射止められないわよ?」
僕の感性がおかしいのだろうか。そんなばかな。
ホム子も交え、僕たちはお昼ごはんの素麺を食す。ホム子にとって素麺は初めて食べる未知の献立らしく、恐る恐る箸を使い、ゆっくりと口に運んでは、もぐもぐと咀嚼していた。
「どうどうホム子ちゃん? この素麺の味は」
母が得意気にホム子に問う。素麺くらいで何を得意になっているのか。
「はい。美味しいです」
ホム子は少しだけ微笑み、感想を言った。僕にとっては飽き飽きした素麺でも、ホム子にとっては初めての味覚なのだ。それを利用するとは母さんめ、姑息な真似を。僕はズルズルと素麺を啜った。
「ごちそうさまでした」
僕たちは三人一緒に、食後の挨拶をした。
「あんたたちお昼からどうするの?」
母さんが僕とホム子に問う。僕は少し考え、自分の意見を言った。
「ホム子のやりたいことをやろうよ」
彼女は今日限りの命なのだ。できれば、希望はなんでも叶えてあげたかった。
「あ……じゃあ、お外に出てみたい」
「分かった!」
ホム子は控えめに、自らの希望を言った。それくらいならお安い御用だ。僕は自分のナップザックを取り、出かける準備を始めた。
「今日も暑いから、これを持っていきなさい」
母さんは帽子掛けから、つばの広い麦わら帽子を一つ取り、ホム子に手渡した。少し大きめだが、ホム子の白い肌を守るのには丁度良いかもしれない。
「えっと、ありがとうございます。お母さま」
ホム子も母さんに深々と頭を下げ、それをかぶった。大きめの帽子は彼女の頭を覆い、広いつばが光を遮る。彼女の顔に影が差し、可憐さに拍車をかけた。
「どういたしまして。それじゃあ、あんまり遅くならないうちに帰ってくるのよ」
「うん。行ってきます!」
「行って参ります、お母さま」
「行ってらっしゃい」
僕はホム子の手を引いて、玄関から外へと出た。
僕は自転車の荷台にホム子を乗せ、照りつける日差しの中を走る。山々からは蝉時雨が響き渡り、田園には多数のトンボが飛び回っていた。八月ももう終わるというのに、暑さが衰える気配はない。夏休みの最後を彩るのに相応しい一日となりそうだ。
「暑くない?」
僕は自転車を漕ぎながら、後ろのホム子に問いかけた。
「ちょっと暑いけど、麦わら帽子を貰ったから平気」
ホム子は言う。僕は後ろを見ながら走るなどという器用な真似はできないため、ホム子がどんな表情をしているのかは分からない。
「外って、眩しいね」
そうか。ホム子にとって、外に出るのは初めてのことなのだから、夏の太陽の眩しさも、この暑い空気も、初めて経験するものなんだ。
「そうだ! ホム子、ラムネって飲んだことないよね?」
「うん」
「オーケイ!」
僕はペダルを踏み込む足に力を込め、自転車を加速させる。
「わわっ」
突然の加速にホム子が驚き、僕のお腹に回された手が締め付けられる。しかしそこまで強い力でもないので、苦しくはなかった。
僕は、山と人里の境にある駄菓子屋に行き、そこの店先に自転車を停める。そして自転車を降り、ホム子も降りるように促す。ホム子もゆっくりと荷台から降り、地に足を着けた。僕はホム子の手を引き、駄菓子屋へと足を踏み入れる。
駄菓子屋の中は、ごちゃごちゃといろいろなものが雑多に置かれていた。中には賞味期限の切れたお菓子などもあるから注意が必要だ。
「何か欲しいものある? あんまりお金はないから、高いものは買えないけど」
僕はガラス張りの冷蔵庫からラムネを二本取り出しつつ、ホム子に訊く。
ホム子はキョロキョロと駄菓子屋の中を見回して、あるものを手に取った。それは、シャボン玉を吹くための細い筒であった。
「これ」
ホム子はおずおずとそれを僕に差し出す。それくらいなら全然大丈夫だ。僕はそれを受け取り、カウンターでうたた寝をするお爺さんを起こした。
「お爺さん、お爺さん」
「んあ……トシオ! 帰ってきてたのかい。その子はエゲレスの子かえ? 随分とめんこいのう」
お爺ちゃんはまた僕をトシオさんと間違えているようだ。
「僕はケンだよ。この子はホム子」
「ホム子です」
「トシオォ、あんまり女の子をたぶらかすもんじゃねェぞ」
だめだこりゃ。僕は会計を促した。
ラムネとシャボン筒を買った僕たちは、駄菓子屋を出て店先のベンチに座った。駄菓子屋の周囲は木々に囲まれており、ベンチも木陰に包まれているため、日の当たるところよりは幾分か涼しい。
僕は買ってきたラムネとシャボン筒をホム子に手渡し、自分のラムネを開栓すべく気合を入れた。まずベンチの上にラムネを置き、玉押しをラムネの口に置いて呼吸を整える。
「何してるの?」
「これからラムネを開けるんだ」
僕は意を決し、腕に力を込めて玉押しを瓶に押し込んだ。ガンッという衝撃音と共に、ラムネ玉が瓶の中へ押し込まれる。シュワっと泡が舞う。しかしここからが本当の勝負だ。僕は泡が溢れてこないよう、全力で腕に力を込め続けた。次第に泡は沈静化し、決着がつく。僕の勝ちだ。
「ふー」
僕は一息つき、ラムネから玉押しを抜いた。泡は溢れてこない。
「へえー。面白い仕組みだね」
ホム子は興味深そうにラムネ瓶を眺めつつ言う。今ので仕組みを理解したというのか。流石はホムンクルスだ。頭が良い。
「ホム子もやってみる?」
「うん」
ホム子は自分のラムネ瓶の包装を剥がし、玉押しを口に当てた。そして息を整えると、一気に押し入れる。ラムネ玉が瓶の中に押し込まれ、泡が舞う。
「ひゃっ」
しかし押し込んだ衝撃に驚き、ホム子は押し込みを解いてしまった。瓶の口からぶくぶくと泡が吹き出し、ベンチを濡らす。
「ああ……」
ホム子は悲しそうにその光景を眺めていた。
「ま、まあまあ。味が悪くなったわけじゃあないんだから。はい、ハンカチ」
僕はナップザックに入っていたハンカチを取り出し、ホム子に手渡した。
「ありがと……」
ホム子はそれを受け取り、ラムネの泡に濡れた手を拭いた。
二人でラムネを飲む。甘く痺れるような感覚が口内を満たし、喉を突き抜けていく。心地よい感覚だ。ホム子の方を見ると、ラムネ瓶を口に付けては目を見開き、すぐに離すという行為を繰り返していた。
「け、ケンちゃん。これ、こわい」
「え、ええ」
僕はどうしたら良いか分からなくなった。炭酸が怖いだなんて、そんな人を初めて見たからだ。いや、発想を逆転させよう。炭酸が怖いなら炭酸を抜けば良いのだ。
「ちょっと借して」
「あ、うん」
僕はホム子のラムネを借り、再び玉押しを取り出して押し当て、上下左右に振り始めた。
「わっわっ! そんなことしたら溢れちゃうよ!」
「だ、大丈夫! 炭酸を抜くだけだから!」
僕は何度か振ってはガス抜きをし、そしてまた振るというのを繰り返した。
そして十分に炭酸が抜けたかと思える程度に振った後、ホム子にラムネを返した。
「あ、ありがと」
ホム子はそれを受け取り、恐る恐る飲み始める。ホム子の口内にラムネが流れ込むが、ホム子はそのまま飲み続けた。どうやら炭酸は十分に抜けていたようだ。
「甘い」
ホム子はラムネ瓶を口から離し、感想を言う。しまった。炭酸を抜くことばかり考えて、抜いた後の風味を考慮していなかった。
「ご、ごめん。えと、ごめん」
「え? どうして謝るの?」
ホム子はきょとんとした顔で、僕を不思議そうに見つめる。
「え、いや、甘過ぎて美味しくないのかと」
「ううん、美味しいよ。私、甘いの好き。炭酸抜いてくれて、ありがと」
ホム子は小さく微笑み、僕に礼を言った。良かった。
ラムネを飲み終えたホム子は、ベンチに座りながら先程買ったシャボン筒を早速取り出し、シャボン玉を吹いていた。僕もベンチに座りながら、それを眺めた。
筒の先から、小さなシャボン玉が無数に吹き出される。虹色に輝くシャボン玉は、音も立てずに風に流されていく。そして高く高く、遠くへ飛んでいき、弾けて消えた。
ホム子はシャボン玉を吹くのを止め、自らが飛ばしたシャボン玉を眺める。そしてその顛末を見届けた後、静かに立ち上がった。
「ありがと、ケンちゃん」
「え、あ、うん」
ホム子は僕に笑いかけ、また礼を言った。僕はどうしてか、胸が締め付けられるような奇妙な感覚に陥り、上手く言葉を返すことができなかった。ホム子の笑顔は可憐で、とっても素敵なのに、どうしてその笑顔を見るのがこんなにもつらいのだろう。
それから僕たちは、駄菓子屋の近くにある寂れた公園で遊んだ。町外れだからか、この公園には僕たち以外には誰もいなかった。ホム子のことを誰かに自慢したい気持ちもあったが、それよりも秘密にしておきたい気持ちの方が強かったため、誰もいなくて良かったかもしれない。
回転ジャングルジム、滑り台、シーソーなどで遊ぶ。知識は持っていても経験はないからか、ホム子は表情をコロコロ変えた。最初は驚いたり怖がったりするのだが、すぐに遊具の特性を理解して、楽しそうに遊び出すのだ。
もしホム子が学校に通ったら、きっとクラスの誰よりも成績が良くなっただろう。ホム子はそれほどまでに、頭が良かった。もし僕と一緒に明日から学校へ通うことができたなら、それはどんなに素敵なことだったろうか。想像するだけで胸が苦しくなった。
遊び疲れた僕たちは、今はブランコをゆっくり漕いでいる。少し日が西に傾き始めている。そろそろ帰らないといけないだろう。
「ケンちゃん」
ホム子が僕の名を呼ぶ。僕は隣でブランコを漕ぐホム子の方を向いた。ホム子は少し緊張しているのか、僅かに頬を赤くして僕を見つめていた。
「えっとね」
何か言いたいことがあるらしい。僕は黙って、ホム子の言葉を待った。
しかしその時、遠くの方でゴロゴロという雷音が轟いてくる。そしてぽつり、ぽつりと雨粒が空から落ちてきたかと思った次の瞬間、滝のような大雨が振り始めた。夕立だ。
僕は慌ててブランコから降り、ホム子の手をとって急いでドーム型の遊具の中に避難した。幸い、このドームは入り口以外には穴が開いておらず、多少の雨なら凌げそうであった。
狭いからか、自然と距離が近くなってしまう。僕とホム子はほぼ密着しているような状態だった。ホム子の息遣いを間近に感じて、僕の心臓は穏やかならざる鼓動を刻む。
ドームの外は依然として叩きつけるように豪雨が降り注いでおり、僕たちは狭い世界に閉じ込められた。
「え、えっと、さっきなんて言おうと、したの」
僕はこの緊張状態を紛らわせるために、先程ホム子が言い出そうとしていたことを聞き返してみた。しかしホム子は顔を赤くする。
「……なんでもない」
ホム子は答えてくれなかった。無理にこんなところに連れ込まれて怒っているのだろうか。でも、他に雨を凌げそうなところもなかったんだ。許して欲しい。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「え、いや、その、こんなとこに連れ込んだりして」
「え? 別に怒ってないよ? むしろケンちゃんと……」
ホム子の言葉は、最後の方は非常に小さく、雨音のせいもあって聞き取れなかった。
「僕と?」
「なんでもないってば! ばか……」
ホム子はそう言って、僕から顔を背けた。やっぱり怒っている。
雨が止み、僕たちはのそのそとドームから出る。空は橙色に染まり、地上も同じ色の光で満たされた。夕暮れだ。夕日が落ち行く田園には、ヒグラシの鳴き声が響いている。帰らないと。
僕は自転車にまたがり、ホム子も荷台に座った。自転車を漕ぎ始めると、ホム子の手が僕のお腹に回される。
「ケンちゃん」
「うん」
ホム子が僕の名を呼ぶ。僕は振り返れないので、声だけで返事をした。
「ありがとう。今日一日、すごく楽しかった」
ホム子は、今日何度目かの礼を言う。ホム子が楽しめたのなら、僕もホム子を外に連れ出した甲斐があったというものである。
「楽しくて、嬉しくて、幸せで……幸せ、過ぎて……」
ホム子は僕の背にしがみつきながら、そう続ける。その声は震えていた。
「ごめんケンちゃん。背中、借りるね」
ホム子はそう言うと、僕の背に体重を預け、しゃくりあげ始めた。
僕は自転車を漕ぎながら、ホム子に背中を貸す。ホム子は僕の背にしがみつき、声を殺して泣き始めた。
「ホム子!」
僕は背中をホム子に貸したまま、ホム子の名を叫ぶ。
「な、なに?」
ホム子は、僕の背にしがみついたまま、震えた声で反応する。
「僕は……僕はホム子を死なせたくない。明日も、明後日も、その先も一緒にいたい。今日逢ったばかりの癖に調子の良いことを言うなって言われるかもしれないけど、僕は、君のことが……」
僕はそこまで言いかけたところで、ホム子の手で口を塞がれた。それを振り払って言葉を続けることは、できなかった。
「やめて。言わないで。これ以上、私を苦しめないで……」
ホム子は、震える声でそう訴える。
「私は……私には、明日なんてない。どんなに祈っても、ケンちゃんと一緒には生きていけない。生まれた時から知っていたし、そういうものだとって受け入れていたのに……受け入れていたのに……! 受け入れられなく、なっちゃうよ……」
ホム子は、声を上げて泣き出してしまった。僕は何も返すことだできず、黙って背中を貸してあげることしたできなかった。
僕はなんて愚かで迂闊で軽率なのだろう。今日を幸せに過ごすということが、ホム子にどういう感情を抱かせてしまうのかを全く考慮していなかった。それどころか、自らの浅はかな願いを口に出し、彼女を余計に苦しませている始末である。最低だ。
そもそも、自由研究の為と言って安易に生命を創り出し、たった一日だけの人生を与えるなど、正気の沙汰ではなかった。僕は僕自身を呪った。
家に帰り着く頃には、ホム子は泣き止んでいた。僕は自転車を玄関脇に停め、ホム子と共に降りる。ホム子の目元には、泣き腫らした痕が残っていた。
「ケンちゃん。私ね。少し苦しいけど、それ以上に生まれてきて良かったって思えるの。夏の暑さ、風のざわめき、虫の鳴き声、ラムネの味、公園の遊具……全部、全部素敵だった。それに、ケンちゃんが一緒にいたいって言ってくれて、嬉しかったよ」
ホム子はそう言って、吹っ切れたように笑顔を見せる。僕の胸は、きゅう、と音を立てそうなほどに締め付けられた。どうして、笑っていられるんだ。
「ホム子、僕は……」
「ケンちゃん。これ、あげる」
ホム子はスカートのポケットから、シャボン筒とシャボン液が入った小瓶を取り出し、僕に手渡した。
「元々はケンちゃんに買ってもらったものだけど……私の宝物だから。大事にしてね」
「……大事にする。絶対、死ぬまで大事にする」
「えへへ、ありがと」
ホム子は嬉しそうに笑う。僕の胸は張り裂ける寸前だった。どうして、どうしてだ。やめてくれ。僕は君に笑顔を向けられる資格なんてないのに。
「家に入ろう? お母さまが待ってるよ」
「うん……」
僕とホム子は、ゆっくりと家に入っていった。
「ただいま」
「ただいま帰りました、お母さま」
「おかえりなさい。今日の夕飯はお寿司よ」
母さんは僕たちを優しく迎え入れる。テーブルの上には、大きな寿司桶が一つ置かれていた。
「素麺じゃ、ない?」
「今日くらいはね」
母さんは寿司桶の蓋を開ける。中には、鈍く輝く油の乗った大トロを始めとした、美味しそうなネタが所狭しと並べられていた。僕は寿司に詳しくないが、きっと高級なものに違いない。時々母さんが買ってくるスーパーの半額寿司とは、格が違って見えた。
「お母さま、もしかして、私なんかの為に?」
ホム子は少し不安そうな顔で、母さんを見る。
「ええ。ホム子ちゃんには素麺だけじゃなくて、もっと美味しいものも食べて欲しかったんだもの。だから、遠慮せずに食べてね」
母さんは優しげな笑みを浮かべ、ホム子の問いに答えた。ホム子は一瞬目を閉じた後、開ける。そこには、満面の笑顔があった。
「はい。ありがたく、いただきます」
ホム子は手を合わせ、箸を取る。母さん、ありがとう。
そして僕とホム子は高級な寿司を食し、お風呂に入り、少しづつ時を進めていった。
今は僕の部屋のベッドで、二人一緒に横になっている。一人用のベッドなのだが、ホム子が僕と一緒に寝たいと言ったのだ。僕も、ホム子と最期まで一緒にいたかった。
部屋の灯りを消し、目の前のホム子を見る。窓から差し込む月明かりが、ホム子の髪と体を淡く照らす。綺麗だった。
「ホム子、起きてる?」
「ん……起きてるよ」
ホム子はゆっくりとまぶたを持ち上げ、僕を見る。つらそうだった。
「でも、まぶたが重い。胸も苦しい」
ホム子は苦しそうに言う。僕は思わず、ホム子の手を握った。
「えへ……ありがと……」
ホム子はつらそうにしながらも微笑み、僕の手を弱々しく握り返す。
「ケンちゃん。このままずっと、手を握っていてくれる?」
「うん、うん。ずっと握ってるよ。絶対に離さない」
「うん。離さないでね……」
僕はホム子がどこかへ行ってしまわぬよう、自分の両手で彼女の両手をしっかりと包み込むように握る。ホム子の手は、少しだけ冷たかった。
「ねえケンちゃん。空に昇ったシャボン玉は、どこへ行くのかな」
「……シャボン玉、は」
シャボン玉は、弾けて消える。それをホム子が分からないはずがない。だからこの問いに、そういう当たり前の答えを返すのは違う気がした。
「シャボン玉は、空になるんだ」
「空に?」
「うん。空になって、いつまでもこの世界に在り続けるんだよ」
「そっか、空に……」
僕は、自分でも自分が何を言っているのかよく分からなかった。でもホム子は納得したように、目を閉じて頷いている。
「私も、空になってケンちゃんを見てるね」
「僕が君の手を掴んでいる間は、空に行かせるもんか」
「ケンちゃん……ありがと……」
ホム子はそう言って、手を握る力を少しだけ強めた。僕はもう涙が溢れる寸前であったが、歯を食いしばって耐えた。最期まで、泣くものか。彼女が空へ昇る時は、笑って見送るんだ。
しかし僕は、いつの間にか眠ってしまっていた。
僕の目が覚めた時、握っていた彼女の両手は、冷たくなっていた。
母さんと共に、彼女の亡骸を庭に埋める。彼女の体はびっくりする程に軽く、簡単に運べた。簡単に運びたくなかった。簡単に運べてしまった。
「今日は、学校を休みなさい」
「……うん」
「朝ごはん作るから、母さんは家に戻るわね」
母さんは、僕を残して家に入っていった。
僕はそこから動けず、彼女の埋まった土へ涙を零す。もう堪える必要はなかった。僕は声を上げて泣いた。
しばらく泣き続けた後、僕はポケットから彼女のシャボン筒を取り出し、吹き始める。筒の先端から、虹色に輝くシャボン玉が無数に吹き出された。
シャボン玉は風に吹かれ、高く、高く、遠くへと飛んでいく。どうかそのまま、空へ。彼女と共に、悠久の空へ。
シャボン玉は弾け、空に消えた。