少年と、少女と、リンゴ
リンゴを持ったことがあるか?
答えは当然イエスである。持った事が無い奴の方が珍しいんじゃ無いだろうか。三平は彼女の突然の問いの意図が理解できなかった。
「そりゃあるけど、急にどうしたんだ?」
「ならば今、落ちているリンゴを拾うという状況の演技はできるかの?」
彼女は更にリンゴを拾うという演技の要求をしてきた。……やはり三平には意図が掴めない。
「まあ、できるけど」
「ならば少しやってみてくれんか?」
「……わかったよ」
「小道具を使うのは無しじゃ。リンゴを拾うと言う状況を思い浮かべて、そのつもりでやってみてくれ」
その声も、今までと感じていた印象とはまた違ったものだった。
傲慢な態度。寂しがりの泣きじゃぐり。新しいものに対する初々しい好奇心。凍てつくような緊張感。
顔は見えなくても、このたった半日でたくさんの表情を見た。しかし、そのどれよりも今のその雰囲気は、彼女の本質を表している様な気がする。
喜びでもなく、怒りでもない。
ただただ熱い、熱い炎の様な感情。
それが自分に向けられている事に、三平は思わず息を飲む。
そんな空気の中、演劇部二年、下鳥三平によるリンゴを拾うという演技が開始された。
まず三平は落ちているリンゴをイメージする。そして腰を曲げ手を伸ばし、そのイメージに手を伸ばす。それを手に掴み、胸の高さまで持ち上げる。その動作をできる限りリアルに行った。
特に変哲もない、簡単な動作である。だが三平はできる限り丁寧に、慎重に行った。そうしなければならない気がしたのだ。
「これで良いか?」
「ご苦労。……じゃが、予想通り、妾を表現する道はまだまだ先じゃな」
またもや辛辣な評価を頂いた三平。しかし言葉とは裏腹に、彼女のその口調はどこか親しみが込められている様に穏やかだ。
「お主は、リンゴを持つ前にどんな状況を想定した?」
「どんなって、道にリンゴが落ちていて、それが目の前に転がっていてだな。それを拾って」
「足りんの」
穏やかに、しかし居合い抜きの様に、彼女は三平の言葉を一刀両断にした。その鋭さに三平はついつい怯む。
「そのリンゴはどんな道に落ちているのか。その道は街中なのか、森の中なのか。どこから落ちてきたのか。自分から見てどの方向に落ちているのか……状況だけでも、考える事はたくさんある」
「……」
「そして次はそのリンゴについて想定する。具体的にじゃ。大きさは。重さは。色は何色か、赤く熟しているのかまだ青いのか。赤ならばどんな赤色か。濃いのか薄いのか。それは落ちてからどれくらいの時間が経っているか。落ちたときに形は保たれているのか……まだまだたくさんあるのう」
滔々と彼女は演技の状況を語る。三平は驚愕した。道に落ちているリンゴを拾うと言うだけで、ここまで想定するものなのかと。
「そ、そんなに考えるものなのか?」
「俳優……特にお主の行っている演劇では、己の台詞、動作で世界を表現する。たかが学生演劇のレベルで、そこまでする必要を感じぬのならばそれでも良いが、妾を演じ、演技すると言うのなら話は別じゃ」
彼女はそのまま三平に、「そこの全身鏡の前に立て」と指示した。演技確認用に置いてあるものである。圧力に気圧され、三平はやや小走りで鏡の前へ向かう。
「これで良いのか?」
「うむ。……さて、少し失礼するぞ」
……失礼する? 何か三平にとって不吉な言葉が聞こえて来たが、理解する前に自分の中に何かが入ってくる感覚に襲われた。この感覚も半日前程に経験済みだ。
なんのつもりだ!? こいつ、約束を破りやがった! 三平は思わず混乱した。
「約束を破ったのは謝る。すまぬ。だがその代わり妾が手本を見せる。しっかり見届けよ」
三平本人の口から彼女はそう言って、鏡の方に体を向ける。そして静かに瞑目した。
……数秒の間が開いたあと、三平の瞼はゆっくりと開かれる。目の前には鏡、そして写った自分。
空気が、世界が一変する。
だがそこに写っているのは三平の形をした別の人物だった。
まずその三平は目の前の地面に目線を写す。そしてゆっくりと膝を曲げ、軽く何かを掻き分ける動作をしながら、目線の先に手を伸ばす。ただリンゴを見つけ、拾うという動作。たったそれだけの事なのに、全てが違っていた。
しゃがむ動作。自分の服に自然に気を使いながらのゆっくりとした動作は、女性である事の証明。
さりげなく何かを掻き分けたのは、何かが生い茂っているのだろう。それはそこまで背の高くない草花。ここは街中ではない。森の中にあるリンゴの木の近く。
そして伸ばした手はリンゴを少し撫でるように、そして下から優しく掬い上げるようにして手の中に入った。慈しむような所作。……きっとこの人物はリンゴが大好きなのだろうと思った。
手のひらの中には実際は何も持っていない筈なのに、三平には本当にリンゴがそこにあるかの様な錯覚に陥った。そのリンゴは大きく重い。自分の手のひらにその身の詰まった果実の重量感が伝わってくる。瑞々しく、上から下までしっかりと熟した深く鮮やかな赤色だ。
そして三平はゆっくりと立ち上がり、手に持ったリンゴを両手包み込む様にして胸の前に運ぶ。そして再び鏡に視線を戻した。
そして彼は自らの目を疑う。
そこには木漏れ日に光に照らされながら森の中で、リンゴを愛おしそうに胸に抱く少女が写っていた。長く美しい金色の髪を風に靡かせ、白のドレスをはためかせながら、その少女はその真紅の瞳でこちらをまっすぐに捉えていた。
それは実際は刹那の時間だったであろう。しかし三平にとっては、永い、永い時間の様に思われた。その鏡に写った少女に目を奪われていた。見とれていた。
しかしほんの少しして我に返る。
三平が改めて鏡に意識を移すと、そこには教室の中で自分がリンゴをものすごく大事そうに、胸の前で抱きながら、オカマっぽく立っているのが見えた。ギャップが半端じゃ無かった。
それはまるで異世界に住む、まったく自分とは違う人物になってしまった感覚。リンゴを拾っただけで、そこには別の世界が創り出されていた。
ーーそしてその感覚に、三平は覚えがある。
生前の彼女が舞台上に上がっていた唯一の場面を見た時。彼女を初めて目にした時だ。主役でも何でもない少女が、誰よりも輝いていたあの舞台。
どん底だった三平少年を掬い上げてくれた、彼の運命の瞬間である。
「……あなたは、本物のアメリア・ダイヤモンドさん?」
口から自然に言葉が溢れる。初めて取り憑かれた時の様に声が封じられている訳では無いようだ。しかしそんな事は今はどうでも良かった。
正直確認するまでも無い。何故なら目の当たりにした演技は、どんなものよりも雄弁に彼女について語っていたのだから。彼女が、一体何者なのかを。
そしてそんな当たり前の事を聞かれた鏡の中に写る三平は、やや不服そうに眉を潜め、呆れた様に、けれど柔らかく微笑む。その姿に、見覚えのある金髪の少女が重なった。
「……そうじゃと言っておろうが」
こうして彼は、本当の意味で今、少女アメリアとの邂逅を果たしたのである。
「下鳥三平殿」
邂逅の余韻に浸る暇もなくアメリアは三平に呼び掛ける。色々な思いが込み上げていた三平は、うまく返事をする事が出来なかったが、彼女は気にするでもなく言葉の先を続けた。
「お主に改めて頼みがある。……妾と共に、演劇を創り上げてみぬか? 妾と、お主の目的の為に」
とある少女と少年。
初めて見知ったあの部屋で、幕の上がった舞台が今、動き出そうとしていた。