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信長殺しは家康か

  


                    光秀非犯人説


 平成21年2月中旬、内田茂と間瀬澄子は午前8時に常滑を出発する。

今枝不動産の事務所へは午後1時に訪問予定だ。今日は不動産売買契約書に契約の印鑑を押す。売買代金の10パーセントを契約金として受領する。残金は1ヵ月後。3月中旬に京都を訪問する事になる。

 3軒の賃貸契約も終わって、ホッとする間もない。


 常滑から京都まで車で3時間。途中インターで休憩をとるので、午後1時までには今枝不動産に到着する。

 常滑から知多半島中央道に入る。名古屋高速に乗る。名神高速道路に向かう。内田の白のクラウンは快適な走りを見せる。途中養老インターでコーヒータイム。一旦京都の自宅に入り、後片付けの荷物を積み込む予定。

 助手席の澄子は鳴島守の資料を取り出す。彼は49歳。亀岡市に在住、農業を営んでいる。

彼の言葉を借りれば――与えられた課題は文句を言わず、”やる”というのが私の信条でしてな――

彼は彼なりに調べ尽くしている。


 鳴島は望月と広岡が取り上げた川角太閤記の本能寺の変の記述に疑問を呈している。

――酉刻(午後6時)出発。軍を3段に備えている。総勢1万3千人、とある。出発とは亀山城を言う。

  ――夜明け方、信長が外の騒がしさに目覚めた。やがて鬨の声があがり、鉄砲が打ち込まれる――

 本能寺の変が起こったのは太陰暦の6月2日、今の暦なら7月1日という。夏だから日が昇るのが早い。夜明け方というから午前4時から5時頃と見る。それから出火炎上する午前7時から7時半まで、およそ3時間半の出来事だ。

 この時間内に明智光秀を本能寺付近で見かけた者は誰もいない。

光秀は本能寺どころか京都に来ていない。

 ――6月2日、信長弑逆の当日、午前9時から午後2時までしか、光秀は京都に現れていない――

 この記述は戦国時代の解明では最高権威である高柳光寿博士がその著書、戦国戦記で述べている。

 当時の権中納言山科言経の日記――言経記によると、

天正10年6月2日、晴陰(曇)一卯刻前(午前6時)本能寺へ明智日向謀反二ヨリ押シ寄セラル

 ”前右府(信長)討死。同三位中将(信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取籠ノ処二、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井貞勝)已下悉ク打死了、下御所ハ辰刻(午前7時から9時)二上御所(内裏)へ御渡御了、言語道断之為体也、京洛中騒動、不及是非了――”

 事件の経過から見て、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、すべて終わったのが午後前九時頃と推測される。

 通説では、光秀が本能寺に到着したのが午前4時から5時の間、本能寺炎上は午前7時半前後。

 その後光秀は信忠がたてこもる二条城を攻める。誠仁親王を二条御所から立ち去らせるために、連歌師の里村紹巴が町家の荷輿を調達している。

 ――ここで問題なのは早朝で、輿がなかったと言っている――

 当時の町家や農民は日が出ると共に起き出す。午前5時頃にはその日1日の仕事に入る。

 信忠が誠仁親王を二条御所から立ち去らせるための交渉ををする。相手は当然明智光秀だ。光秀が二条城を攻め入るのは誠仁親王が立ち去った後になる。二条城が陥落するのが午前9時頃。

 誠仁親王が二条御所を立ち去るのは午前7時半から8時頃とみる。

 しかし、別の所で明方(午前5時前後)に町家に輿を探し求めたがなかったと言っている。

 この頃は光秀は本能寺に到着したばかりなのだ。

この時間の矛盾は兼見卿記の書き直しにあると言われている。兼見卿記は午後2時以降の光秀の行動は詳しく書いている。これは後から別個に書き直している。2重帳簿のような書き方になっている。

 これはどういう事か――、本能寺の変の前後の光秀の行動はすべて後から書き加えられた可能性が高い。


 本能寺の変前後の光秀の行動を追ってみる。

3日前の5月28日(この時の5月は29日までしかない)愛宕山へ登って一泊している。里村紹巴の資料で明らかとなっている。

 言経卿記の天候の記録。

5月27日雨、28日晴、29日下末(どしゃ降りの事)6月1日雨のち晴。

 29日は愛宕山を下山したと言っているが、(この日はどしゃ降りの雨だ)28日は晴なので馬で駆け上る事が出来た。一泊して激しい雨の中を下山したとは考えられない。翌日6月1日も夕方まで沛然たる雨の天気だ。

 京都の妙覚寺に滞在していた信忠でさえ、小止みになった夕刻に、本能寺を訪問している。

 光秀が下山したのも、雨が止んだ夕刻と考えるのが妥当ではないか。信忠の場合は市街地だ。愛宕山は山中だ。足場は最悪ではなかったか。

 以上の事を考慮すると、光秀が丹波亀山についたとしても、1万3千の軍隊が出陣した後という事になる。光秀が京を目指すとするなら、支城の坂本に引き返して3千の軍を率いて、至急、京に駆けつけるしかない。

 6月2日を順を追ってみる。

 午前4時、本能寺包囲される。

 午前7時、本能寺炎上、信長行方不明。引き続き二条御所包囲。誠仁親王御所へ動座。

      信忠軍と包囲軍交戦。

 午前9時、明智光秀入洛。

 午後2時、光秀出洛。

 午後4時、瀬田大橋に光秀現れる。

 午後5時、3千の軍勢のみにて光秀、坂本に帰城する。

 以上は兼見卿記による。

当日、持城の山崎勝竜寺城の城番溝尾庄兵衛(光秀の重臣)と相談の結果、午後2時にそこを出発。大津に向かう。午後4時に、安土城へ伺候する為に瀬田に向かったとある。

 以下原文。

 ――誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中に入る。(止む無く光秀は残り火を消し止めさせ)橋詰に足場とする砦を築かす。夕景に入ってひとまず光秀は、坂本へ戻る。――

兼見卿記は光秀謀反説が確定してから書き加えられた可能性が高い。

 光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために邪魔したように書かれている。

 山岡景隆は明智光秀と共に15代将軍足利義昭に仕えた仲である。本能寺の変の10年前、弟の山岡景友と共に信長に叛き誅されそうになった。光秀の助命で瀬田城主の地位を保てたのだ。

 奇怪な事に山岡景隆が本能寺の変を知ったのは午後3時頃、それも安土への急使、通行人によってである。それなのに、1時間足らずで橋を焼き、己が居城まで焼き落とすような事をするだろうか。


                      山岡景隆


 山岡景隆が居城を焼き橋を焼いて、光秀を安土城に入らせなかったのは事実である。

 延徳3年8月、10代将軍足利義稙は近江半国の守護代六角高頼を討伐している。この時に主軍として出陣したのが三井寺の光淨院である。山岡景隆は光淨院の出である。

 この時から室町幕府の為に出陣した光淨院は、山城半国の守護に任ぜられている。

 天正元年2月、15代将軍義昭の命で、当主の暹慶が西近江で挙兵。――打倒織田信長、仏敵退散――の旗印のもと一向宗の門徒を集める。石山本願寺と連繋を取りながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。

 2月24日、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀らに攻められ石山陥落。29日、今堅田の砦も落ちる。信長に降参。山岡景友と改名して、助命される。

 瀬田の城主の地位を兄に譲る。この兄が10年後に橋を焼き、城を焼いて、対岸の山頂から湖水越しに、明智勢の様子をうかがう事になる、山岡景隆である。

 この男は2年後、伊勢峰城にあって秀吉と戦う。

後年、山岡道阿弥と名を変える。秀吉の死後、徳川家康が伏見城に入ると、伏見城後詰に取出し屋敷を構える。家康の守護の任にあたる。

 関ケ原の戦いでは、長束正家を打ち破る。尾張蟹江の城を攻略したりして、懸命に家康に奉公する。

 この山岡景隆とその兄弟は、本能寺の変の2年後に、柴田勝家に加担する。その為に秀吉から城地を追われることになる。止む無く家康のもとへ走る結果となる。

 以下鳴島の推測。

 6月2日の午後3時から4時までの間、安土城への通行を止める為に、山岡が橋や城を焼き払ったのは、彼の自主的な判断ではない。誰か黒幕がいて、山岡にそのように命じたのではないか。

 もし光秀が安土に入っていたらどうなるか。その後の歴史が大きく変わっていた筈だ。確実な事は光秀は3日天下で終わらなかった。光秀が安土城に入られて困る人物こそ黒幕となる。

 山岡景隆は光秀が引き上げた後、安土城に入るべきだった。当時伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するために大阪城にいた織田信孝の入場を待つべきだった。

 しかし山岡はそのような行動をとっていない。何者かが、光秀を陥入れる為に、彼を安土城に行かせず孤立させる。信長殺しの全てを光秀に転嫁させる。


 奇怪な事実はまだある。

 光秀が丹波亀山の本城から出陣してきたのなら、1万3千の兵と共にそちらに戻るべきなのだ。光秀は本城に行かず支城の坂本に戻っている。一緒に戻った兵は坂本支城の3千の兵である。

 この事は光秀は本能寺に向かったのは坂本支城からだという証拠になる。

 光秀よりも早く本能寺に姿を現した1万3千の丹波勢は、どこの部隊なのか。

 丹波における織田軍の編成は以下の通りだ。

 寄親(総大将)を明智光秀とする。

1、丹波衆、細川藤孝、同忠興

2、大和衆、筒井順慶

3、摂津衆、高山重友、中川清秀

4、兵庫衆、池田恒興、同元助

 以上の兵力は丹波兵として、1万3千名から1万5千名。本当ならば光秀と共に丹波亀山の本城を出発している筈だ。本能寺の変後、彼らは皆、各自の領国に帰ったのだろうか。

 奇怪というのは、以上の連中は10日の13日の山崎の合戦で秀吉側について戦っているか、細川のように中立の立場になっている。歴史上、彼らは上洛しなかった事になっているのだ。

 高山重友はジュスト右近といわれ、イエズス会の信者、池田恒興もシメアンの洗礼名を持つ。その娘は岡山城ジュ二アン・結城に嫁している。中川清秀もジュニアンの洗礼名を持つ。これらは偶然の一致なのだろうか。

 奇怪と言えば光秀は坂本に戻ったが、その次の日も、また次の日も、死ぬまで一度も丹波亀山の本城には帰っていない。亀山城は光秀の本城なのだ。それを放りっぱなしにして、3千の兵しかいない坂本支城をその後の根拠地としている。

 丹波亀山の本城に集結して本能寺に向かった1万3千名の兵士、彼らを率いた大将らは細川藤孝、その子忠興以外は早くから歴史の舞台から消えている。


                      本能寺


 本能寺の変当初、本能寺は4条坊門の地にあった。

天正15年秀吉の命令により京都中京区の現在ある場所に移動させられる。

 1992年元本能寺南町の京都市立本能小学校が廃校。2007年、当地にマンション建設のため、遺構の調査が行われる。その結果、120メートル四方の敷地があったと考えられる。ただし、築地や石垣、小堀が約40メートル先からは確認されなかった。

 この事は、信長が利用した当初の本能寺の建物や境内地は40メートル四方の小さな施設であったとされている。

 この発掘調査の事実から、1つの謎が浮かび上がる。

1万3千の軍隊が本能寺を攻める。包囲後3時間半たってから本能寺は燃え上がる。本能寺は一介の寺に過ぎない。1万3千の軍隊が3時間余をかける程攻めあぐんだのだろうか。その上火攻めにしたのだろうか。寺は信長の命令で焼かれたとされている。 

 もしそうなら、寄せ手は水をかけたり、炎上中の建物を取り壊しにかかるのが常識というものだ。当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、生きて脱出した者は1人もいないとされている。

 兼見卿記や言経卿記によると、3日間、百にも及ばぬ黒焦げ死体を検死したと言う。信長の遺体が判らず大騒ぎしている。

 以上の事実から推理すると、本能寺は寺とは言え、信長が宿泊する場所だ。当然、万が一に備えて武器庫や火薬庫があったと想像される。1万3千の丹波兵が到着する前夜、何者かによって、寺に火がつけられ、火薬庫の吹き飛んだとみるのが自然ではないか。

 1万3千の丹波兵が本能寺に集結したのは信長打倒のためではない。光秀が坂本支城の3千の兵を引き連れて上洛したのは信長を殺すためではない。

 6月3日、光秀を総大将とする1万6千の軍勢が本能寺に集結。、二条城の信忠の軍と合流する。

秀吉の高松城攻めに加わる。毛利を攻略後、信長と秀吉は九州征伐、光秀の軍は出雲攻めに向かう。以上のような手筈ではなかったか。

 6月3日にいったん坂本へ戻った光秀は3日後に京都に入る。この事実は朝廷からの要請によるものではないか。信長が死んで公家衆の動揺が激しい。治安の慰撫のために、京都を占領するしかなかった。この事が、信長殺しは明智光秀と疑われるようになる。


 間瀬澄子の朗読が終わる。

「光秀が犯人でないとすると、秀吉が犯人か」内田が呟く。

「でも、それなら山岡景隆が秀吉を裏切って柴田勝家の味方をする筈はないわ」澄子の反論。

「家康はどうだろう」と内田。

「信長が殺された時、家康は堺にいた筈よ」

家康は本能寺の変を知って、伊賀超えをしている。彼が犯人なら、こんな危険な行動をとるだろうか。

 澄子の反論に、内田は口をつぐむ。


                   日下部修一


 今枝不動産に到着したのは午後1時。内田不動産が間瀬澄子の仲介者となる。不動産売買契約書に売り手と買い手がサインをする。実印を押して完了となる。代金の1割の手付金を受領する。代金決済は1ヵ月後。もう一度今枝不動産を訪問することになる。今枝不動産を退出後、2人は富岡潤一を訪問する。

 彼の家は京都府庁と清明神社の中間にある。右手の京都御苑がある。京都市内の1等地に住んでいる。多くの賃貸住宅を経営している。印鑑の販売は祖父の代から続いている。実印や社印、寺社などの特殊な印鑑も篆刻している。名人芸との評判がある。家は築地に囲まれた5百坪余の敷地にある。店舗は築地の一角を切り崩して建てられている。広々とした駐車場がある。京都、奈良近辺に神社、仏閣からの注文も多い。

 事前に連絡しての訪問だ。冨島と会うのはいつも店内だ。彼の面長の顔はいつ見てもおっとりしている。物静かだ。

 内田と澄子は過日の礼を述べる。京都の自宅を売り払った事を述べる。事件の経過を京都府警の宅名刑事に尋ねているが進展はないとの返事。事件は迷宮入りになるかもしれないと、冨島に話す。

 冨島は表情を変えない。

「常滑にお帰りですか」1人合点して大きく頷く。

 冨島はあれこれ詮索しない。内田が一方的に喋る。

歴史研究会の会員達を訪問した経緯を話すが、菊池邸での菊池や権藤、瓜坂、鳴島達の話のやり取りは話さない。支障のない事後報告のみにとどめる。

 内田の話が終わる。

「長い間、ご苦労様でした」富岡は深々と頭を下げる。

 午後3時、富岡の店を出る。京都市内で一泊して、翌朝常滑に帰る。


 3月中旬、今枝不動産を訪問。一泊して、翌日の土曜日の朝、日下部修一の家に向かう。彼の家は三重県四日市市にある。京都から名神高速道路に乗る。大津市を通って、栗東インターで降りる。国道1号線に入る。急ぐ旅ではない。途中喫茶店で休憩をとる。甲賀郡を抜けると鈴鹿郡関町を通過。亀山町から四日市市に入る。彼の家は四日市市街の住宅街にある。10階建てのマンションの最上階。

 日下部修一は40歳。独身。彼はインターネットで株などの投資を行っている。

 彼の履歴は少々変わっている。


 35歳まで四日市市役所に勤務。彼は高校卒業と同時に市役所に入っている。元々内気な性格で、人と接するのが苦手だった。出世欲もない。30歳で係長の声もあったがすべて断って、平のままで押し通してしている。

 彼の父が証券会社に勤務していた事で、20代頃から投資に興味を持ち始める。インターネットで株の売買を始める。35歳で市役所を退職。プロとしての投資家に転身。現在に至る。

 京都歴史研究会には間瀬耕一より20日後に入会している。


 午前10時、日下部修一のマンションに到着する。日下部に教えられた場所に車を駐車する。官庁街や商店街に隣接した大通りにある。築3年という真新しいマンションだ。

 中央の入り口から中に入る。管理人室で日下部修一を呼び出してもらう。エレベーターで上がってくるようにとの指示を受ける。10階の彼の部屋のインターフォンを押す。

「どうぞ、入ってください」インターフォンから流れる声。鉄製のドアを開けて室内に入る。

 室内の広さは百平方メートル。広々とした空間に、日下部1人が住んでいる。畳半分の玄関、左側は和室と洋室が2部屋。右側に洋室にトイレ、バスルーム、キッチンと続く。南側に16帖のダイニングルームがある。

 日下部は間瀬澄子と内田茂をダイニングルームまで案内する。応接室兼用の部屋だ。テーブルと椅子が並んでいる。

「間瀬さん、残念でしたね」日下部は度の強い眼鏡をたくし上げる。面長で表情のない顔をしている。喜怒哀楽の情を面に出すのが苦手なのだろうか。声に抑揚がない。事務的な言い方に聴こえる。性格なのだろうと内田と澄子は顔を見合わせて頭を下げる。

 日下部はパジャマに羽織のような上着を着ている。今起きたばかりといった顔つきだ。髪の毛に櫛も入っていいない。

「明け方4時まで徹夜でした」起きたのは30分前という。

「ずいぶん立派なお住まいですね」内田がほめる。

 日下部はキッチンでコーヒーを入れてくる。

「3年前に3千5百万円で購入しました」株で儲けてここへ引っ越してきたのだと言う。声にてらいがない。事実をそのままを述べているといった雰囲気だ。

「株ってそんなに儲かるんですか」澄子が好奇心丸出しの声を上げる。

「この世界は百人中5人ぐらいしか利益を上げる事が出来ません」後の95人が損をするのだと言う。

「儲かるのではなく、儲けるのです」

日下部は度のきつい眼鏡の奥から無表情な眼で澄子を見る。言葉には抑揚はないが言い方に嫌味は感じられない。

「ところで先日のお電話では、気にかかることがあるとか」内田が話を切り替える。

「そのことについて・・・」日下部は以下のように話す。

 京都歴史研究会の本能寺の変の課題について、10月の最終土曜日に間瀬耕一が発表する予定だった.11月が日下部の番だった。

 この会は3月に広岡直道が通説を述べている。4月に広岡の光秀単独犯行への異説を議論し合っている。

5月から高坂登、6月、菊池学と続く。

「気にかかる事とはね・・・」日下部の薄い唇が動く。

――例えば高坂が5月に自説を発表する前に、その原稿を冨島に送ることになっている。発表の日の2週間ぐらい前に、原稿のコピーが各会員に郵送される――

「間瀬さん」日下部は不思議そうな顔をする。

――菊池から聴いたのだが・・・――前置きして以下のように言う。

 間瀬さんの奥さんは冨島から発表者の原稿のコピーを貰っている。その上で発表者からもコピーを貰っている。富島から貰ったコピーが間違いないかどうか、その確認のためと聞いている。

「間瀬耕一さんも皆さんから原稿のコピーを貰っているんですよ」日下部の抑揚のない声だ。

 「えっ・・・」驚いたのは澄子だ。会員が発表した原稿のコピーが2部あったと言う事なのだ。しかしそのようなコピーは夫の部屋には一切なかった。

・・・何故、一切合切の資料を持ってい出かける必要があったのか・・・澄子の眼が中を泳ぐ。

「それともう1つ・・・」日下部の追い打ちをかけるような声が澄子と内田に衝撃を与える。

「間瀬さんが殺されたのは平成20年10月20日・・・」

 歴史研究会のの合評会の数日前だ。何故か間瀬耕一の発表用の原稿のコピーを誰1人としてもらっていない。

「私ね、何度か間瀬さんとお付き合いしています」

 間瀬耕一はおっとりとした性格で人当たりも良い。人の信頼を裏切らない。与えられた課題はきっちりとこなす。

「間瀬さんの原稿は、10月の初めには、冨島さんに送られている筈なんですね」

 日下部の顔を無表情だが、眼鏡の奥の眼が光っている。

「私共はね・・・」日下部の声のトーンが落ちる。

間瀬耕一が殺された事で、歴史研究会が無期延期となった。間瀬の原稿がそのまま、放置されたと思った。

 間瀬澄子と内田は大きく目を見開いたままだ。人を食ったような冨島の顔を思い浮かべる。

「でも、菊池さんからは何も・・・」教えられてないと言おうとした。

「私共はね、一応間瀬さん殺しの容疑者なんですよ」日下部の表情が嶮しくなる。

 こういう自分も警察の事情聴収を受けている。誰でも事件には係わりたくない。あれこれと聞かれても、知らぬ存でぬで通した方が無難だ。親切心で情報を提供したりして、後で痛くもない腹を探られたリ、私生活まで干渉されたリ、詮索されたリ・・・、こんな事はゴメンなのだ。

「私はね、間瀬さんが好きでした」日下部の口元が緩む。

 日下部は間瀬と会っている。本能寺の変について、意見を交換し合っている。間瀬耕一から信長殺しの犯人を聞いているが、間瀬から口外しないでと口止めされている。間瀬が殺された時、これはただ事ではないと感じた。見ざる聞かざる言わざるが一番だと思った。

 だが間瀬の無念を思うと、告白すべき人には打ち明けるべきと思った。

「菊池さんからもお聞きしましたので、奥さんに電話しました」日下部は澄子を直視する。

「あっ、それから・・・」言い忘れたとばかりにつけ加える。

 菊池達は歴史研究会を脱会するが自分はやめるつもりはない。それと間瀬さんが合評会で発表する筈の原稿だが、間瀬さんは冨島に渡していないかもしれない。渡したと言うのは自分の憶測だと付け加える。


                     織田信長


 日下部は奥の部屋からレポート用紙とそのコピーを持ってくる。コピーを内田に手渡す。

「歴史研究会での私の発表は織田信長の予定でした」

間瀬が死んだため、会は無期延期となった。自分の原稿は日の目を見ない事になってしまった。

「私は信長を調べれば犯人に結び付くのではないかと考えました。この場で私の信長説を発表します」

 その後で間瀬さんの犯人説を述べたい。日下部はコーヒーをがぶ飲みする。インターネットで株の売買をやっている。パソコンとにらめっこする時間が長い。1日に飲むコーヒーの量は並ではない。


 天下布武――信長の生涯を貫いた4文字だ。

桶狭間の戦いで今川義元を破った信長は、徳川家康と同盟を結ぶ。三河や駿河には目もくれず、岐阜侵攻に精力を費やす。歴史の中でこの信長の行為は何でもない事のように語られる。だがこの信長の行動は重大な意義を持っている。

 桶狭間で今川義元が死んだ。三河の国も弱小で混乱している。桶狭間の戦いでは信長の兵力は2千名と言われている。戦いに勝てば、敵の敗走兵を味方の兵として使うことが出来る。信長が勝利したとなればその地方の豪族はこぞって信長に加勢する事になる。

 これらの兵力を駆り集めて、三河を攻め、駿河に侵攻して支配する事が出来る。当時の戦国大名ならそうした筈だ。

 信長はそれをしなかった。

駿河を支配していたらどうなるか。甲斐の国の武田信玄と対峙する事になる。信玄の動向から目が離せなくなる。京に上る事が難しくなるのだ。

 家康を活かし、三河の国を守らせれば、美濃(岐阜)への侵攻に専念できる。美濃の首府井ノ口を岐阜と改めた。城も稲葉城と呼ばれていたが、岐阜城となった。

 岐阜――中国の周王朝が岐山という村から起こって天下をとった故事にちなんでいる。

 天下布武――当時の戦国大名の中で、これ程はっきりとした目的意識を持ったのは信長1人だけではなかったか。この目的の為に多くの手段を用いている。

 楽市楽座

 関所の廃止である。当時神社勢力は人々が通行する道に関所を設けた。戦国時代の神社勢力は経済の面からみると利権集団であり、圧力集団でもあった。彼らは法外な関銭(通行料)を取っている。たとえば菜種油、当時は夜の灯り取りとして必需品であった。生産者から消費者に行き着くまで、神社から関銭を課せられるので、高価なものになっている。比叡山延暦寺はその最たるもの存在だった。

 いったん手に入れた荘園や関所、座、市の利権は手放したくないのが人情だ。

 信長はそのような関所、座、市を撤廃した。信長の領地内は流通が盛んになる。安い商品で溢れかえる。人々の往来も激しくなる。経済は人や物が動いてこそ成り立つ。経済の繁栄の基本原則だ。

 兵農分離

 戦国時代、専門の戦闘集団(武士)を農民から分けたのは織田信長が最初である。他の戦国武将にはそれがなかった。農民と武士の区別がなかった。農民は農閑期に戦いに駆り出される。農繁期には戦いはしない。

 常時戦いができる戦闘集団がいたほうが良いに決まっている。それが出来ない理由が2つある。

 当時農業は重労働で質の高い労働力を必要とした。食料を他国から買い入れる事は困難な状況にあった。自国の食料は自国で調達しなければならない。

 2つ目に、経済力、戦国大名は統制経済対策をとっている。自国内の領民は他国との間を自由に行き来できない。関所があり、自国の特産物を他国へ持って売ることは難しい。どの国にも市があり座がある。これらは組合組織となっている。勝手に売買する事は出来ない。

 専属の武士集団を養うとなれば、銭や食い扶持をあてがわねばならない。経済的に余裕のある大名はほとんどいない。農繁期に農業に従事させる。農閑期に駆り出した方が何かにつけて好都合だ。

 戦国時代最強と言われた武田軍団でも、専属の戦闘員は千名未満であったと言われている。

 信長は楽市楽座の政策をとった。人と物が豊の所に集まる。この原則は今も昔も変われない。農業に従事する者、戦に専念する者と分離することが出来る。

 実力主義

 信長は身分にかかわらず実力のある者を登用した。他国者であろうと実力さえあれば一国一城の主に抜擢したのだ。

 武田信玄の有力幹部と言われる武田24武将がいる。彼らは武田家と同族の者か血縁関係、あるいは同盟から成り立っている。唯一他国者といえば山本勘助だけだ。軍師と言われるこの男はその存在さえ定かではない。

 織田家では他国者でも実力さえあれば武将になれた。武田家に限らず戦国大名のの多くは同族か血縁者しか武将になれなかった。実力で這い上がった他国者は領地を奪い取る可能性があるからだ。美濃の国を乗っ取った斎藤道三が良い例だ。

 鉄砲

 信長が京に入ってまず手を付けたのは、堺を直轄地とした事だ。鉄砲という新兵器を獲得する為に、まず火薬の供給を安定させる必要がある。

 戦国時代、火薬の原料となる木炭、硫黄は国内で生産できたが煙硝はマカオからの輸入に頼っていた。それを堺の納屋衆が一手に押さえていた。

 その堺を直轄地としたと言う事は、煙硝を安定的、独占的に入手できると言う事だ。この事は何気ない事の様で実は画期的な事だった。

 武田信玄、上杉謙信、北条氏康などは鉄砲を重要視していなかった。

 堺と同時に信長が抑えたのが本能寺である。本能寺は鉄砲伝来の種子島と深く結びついている。

 種子島の宗旨は法華宗だ。鉄砲伝来の約百年前、11代の当主種子島時氏の時代に改宗されている。中心寺院の慈遠寺は法華宗の寺となった。ここから多くの学僧が本山へ修行に行く。その本山が京都の本能寺である。法華宗本門流の大本山の本能寺と慈遠寺は同じ宗派、本山と末寺の関係にある。本能寺を押さえる事は鉄砲を押さえる事だ。

 戦国大名の中で、鉄砲を購入する事に興味を示しても、その元を抑えると言う発想をした者はいない。

 天下布武――武力による天下平定、その為の強力な武器は槍や刀ではない。弓でもない。破壊力の大きい鉄砲を独占してこそ有利に立てる。

 信長の発想力は斬新であった。

 領民慰撫

 信長は他国を占領しても領民に対して略奪しなかった。物資調達は必ず対価を支払っている。しかも信長軍は軍規厳正だった。占領地の民衆は安心して信長を迎え入れた。

 戦国時代、信長以外の大名は徴兵制だ。普段は百姓として働いている農民を徴兵する。農閑期に戦闘員として使う。ただいくら領主の命令とはいえ、無報酬では働けない。戦は命がけとなる。報酬を求めるのは当然だ。

 そこで大将は兵士らに約束する。城や町を陥落させたら略奪、暴行は自由にせよと声高にそそのかす。これが兵士への報酬となる。豊かな町に軍隊が侵攻すると、必ず略奪暴行が行われる。近代以前はこれが常識だった。

 武田信玄の軍隊は、軍機が厳しかったが、農閑期に駆り出された下級武士は給金がもらえない。武田家にそれだけの経済力がなかった事もある。 

 兵士達は侵攻した町や城で略奪暴行を働いた。信玄自身も戦争で捕虜にした敵方の奥方や女中を売り飛ばしている。

略奪暴行を繰り返す軍隊は領民から支持されない。略奪行為を一切せず、物資調達に銭を払う軍隊は歓迎される。

 天下布武は民衆の支持があってこそ可能なのだ。

 日下部の朗読は終わる。


                     間瀬耕一の推論


 「大したもんですねぇ」内田は大げさに褒める。褒められて嫌な顔をする人はいない。

「インターネットで検索しただけですから」日下部の表情は変わらない。

「主人の事で、お話して頂けるとか」間瀬澄子が口火を切る。

「間瀬さんは・・・」日下部の顔が天井を向く。分厚い眼鏡が天井の蛍光灯の光に反射する。口を一文字に結ぶ。肩の力を抜くと2人を見る。

「信長殺しは徳川家康と考えたそうです」

・・・家康ですか・・・内田が呟く。澄子と顔を合わす。

「私は・・・、昨年の夏頃から度々間瀬さんとお会いしていました」日下部は以下のように話す。


 日下部は人と話すのが苦手だ。パソコン相手に株の売買をやっていたほうが性に合っている。彼の息抜きは京都や奈良の寺院や仏閣を見て歩くことだ。インターネットで京都歴史研究会を知る。興味があって入会する。

 間瀬耕一よりも20日ばかり遅く籍を置いている。2人とも新人という事で会合の片隅に座る。日下部は話下手なので積極的には口出ししない。間瀬耕一は人当たりが良い。よく喋る。だが歴史の知識は皆無に等しい。その点日下部も同じ様なレベルだ。

 ”新人同士”で席も隣同士。間瀬の方から声をかけるようになる。年も近い。馬が合う、とでもいうのか、合評会の後の酒の席でも話し合う様になる。

 去年の8月の合評会の後、どちらからともなく、どこかで一杯やらないかという事になった。

――私の方がそちらに行くが・・・――という事で間瀬耕一が四日市までやってきた。

「近くに安くて良い店がありますので」日下部は淡々と話している。

 酒の席で、”本能寺の変”が話題となる。

日下部さん、あんた何やるの、と聞かれて、自分は信長の事を調べてみたいと話した。

「間瀬さんは何?」と尋ねる。

「私、徳川家康をやります」にやりと笑って答える。

 間瀬さんは上賀茂神社と下鴨神社に行ってきたと話す。

「葵の紋がありましてね」徳川家の紋とうり2つとはいかないが、直感的に同じだと感じた。興味が湧いて調べ尽くした。いずれ10月の合評会で発表する。

「しかし、不思議ですね。誰も徳川家康をやらないですね」


 内田と澄子は顔を合わせて頷く。

本能寺の変の前後、家康は堺にいた。本能寺の異変を聞いて、慌てて伊賀超えで難を脱している。家康が犯人ならば、もっと安全な場所に身を置く筈だ。

 日下部も間瀬との酒宴の席で、同じ意見を言ったという。

「本当にそうだったんでしょうか」間瀬は推理作家のように言う。そのようにみせかけたとしたら・・・。

後は言葉にならない。沈痛な表情で、ビールをぐっとあおる。

「私、愛想の良いにこにこした間瀬さんしか知りません」あんな苦しそうな間瀬の顔を初めて見たと言う。

 澄子も日下部の言葉に驚く。夫はいつも機嫌の良い顔をしている。経済的に苦労した事がない。人の面倒見も良い。日々是好日といった毎日を過ごしている。暗い顔の夫は見たことがないのだ。

「信長が一番恐れていたのは家康ですよ」間瀬は日下部に断言している。

「それを聞いた時、私はまさかと思いました」日下部の表情のない顔が真実味を増している。

「私達も、えっ?と思いますよ」内田も驚きを隠さない。

「これは間瀬さんの意見ですが・・・」日下部は以下のように話す。


 武田家滅亡後の徳川家康の領土は三河、遠河、駿河、それに旧武田領の一部と拡がっていた。

 秀吉や明智光秀は織田信長配下の武将である。家康は同盟者だが、本能寺の変前夜までは信長の配下に等しい扱いを受けていた。だが秀吉や光秀らとは、信長の扱いは違っていた。

 もし信長が本能寺の変で死ななかったら・・・。

信長の天下布武は目前にせまっていた。織田信孝が四国を征伐し、秀吉が毛利を下す。明智光秀が出雲を支配する。九州征伐も1~2年で終わる。残るは小田原の北条と奥州だけとなる。

 信長の天下布武の過程は秀吉の天下統一の道筋を見ればすぐわかる。秀吉は家康から三河、遠河、駿河の地を取り上げて江戸へ移した。

 信長も同じことをやったのではないか。

信長から見れば秀吉や光秀は手飼いの武将である。将棋のコマのように動かせる。だが同盟者の家康はそう簡単にはいかない。信長の死後、織田家が乗っ取られる恐れさえある。

 武田家滅亡後、信長はその遺領の信濃国と上野国を滝川一益に与えて関東の押さえとした。いずれ小田原の北条氏攻略の布石と見られている。北条氏を滅ぼした後、徳川家康をどう始末するか、その布石でもあったはずだ。

 信長が日本国の武力制圧を完了する。その後何が起こるか――家康も重々察していたと推測できる。

 うまくいけば江戸への配置換え、最悪の場合、全ての領地を取り上げられて、朝鮮半島出兵で生涯を終える。


 天正10年5月14日、兼見卿記によると、

――徳川、安土に逗留の間、惟任の光秀在荘ゆえ、信長より仰せつけられ、この間の用意馳走以外なり――とある。在荘とは自宅休暇、当時としては軍令から解放された賜暇の事をいう。

 馳走以外なり――これを川角太閤記は馳走が意外なりと誤訳した。

 その結果、

――信長は徳川家康の宿を光秀邸と定めた。ところが下検分に行ったところ、夏などで鮮魚の痛みが早く、すでに異臭が匂っていた。そこで信長は「かかる馳走にて、もてなすは意外なり」家康を泊める家を掘久太郎邸に変更した――

――このため日向守光秀は面目を失ってしまい、せっかく接待用に整えた木具の椀や、魚をのせる板台、そのた用意して取り寄せてあった魚類の籠を、中に鮮魚を入れたままで、全部、お堀へなげこんでしまわれたが、なにしろ信長が臭いと仰せられた品々ゆえ、その悪臭は、安土中へ引き散らされ、臭さもひどくてみな気色が悪くなったと、相い聞こえ申して居りまする――という表現になった。

 信長公記以下

――5月15日、家康公は(近江の)番場の(丹沢五郎左の仮普請した)館を御立ちなされ、安土に到りて御参着。御宿は大宝坊が然るべきとの(信長公の)上意にて、その(接待役の)御振舞いの事は、惟任日向の守に仰せられ、(信長公は)京都、堺に珍物を調え、おびただしき結構にて、15日より17日まで3日の御ことなり――とある。


 まづ光秀が接待役を命ぜられて異臭の放つ料理を出そうとした――これは有り得ない。

 安土城には――大膳寮の行器ほかい所があり、そこでは専門の料理方が勤めていた。たとえ明智邸で家康をもてなすにしろ、明智方の包丁頭が安土城の包丁頭を無視して料理の接待が出来る訳がない。もてなすのは信長の同盟者の家康である。接待場所がたとえ明智邸であったとしても安土城の料理奉行が腕を振るう。

 材料の買い出しは安土城の料理奉行の方が接待用に手慣れている。同時に大量の買い出しには役得がある。安土城の買い出し役が黙って明智方の料理方に任せる訳がない。

 料理用の木具の椀類について・・・

接待を受ける家康主従は百数十人になる。接待用の料理の器は安土城から直接運び込まれる。

 ――この間の用意馳走は以外なり――

意外と誤訳したのは、魚が腐って臭かったので、その什器や魚付けを、腹立ちまぎれに濠に放り込んだとして、光秀謀叛の遠因の1つとしようとしたと解される。

 これは――光秀が暇を取っていて、手がすいていたので接待役を仰せつけられらた。しかいこの間の用意とか馳走の支度は、以外、つまり別――と言っているのだ。


 日下部はここで言葉を切る。コーヒーをがぶ飲みする。

一息つく。彼が無表情に見えるのは内向的だからだろうか。喋るのが億劫なのかもしれない。内田の感想だ。

「間瀬さんは、ここから大胆な仮説を唱えました」

 家康接待の後、光秀は信長から出雲攻めを命ぜられたとなっている。

 光秀は家康の接待係を御役目御免となる。急遽信長に呼び出される。出雲、石見の2か国の切り取りを命ぜられたとある。

 だが事実は――日下部は2人を凝視する。間瀬耕一の霊が取り憑いたような顔つきになる。

――家康を殺せ――信長の命令だ。2人の周囲には誰もいない。襖の奥に信長の警固の者がいる。信長は光秀の耳元で囁く。驚愕したのは光秀だ。主君の命令だ。逆らう事は出来ない。

――丹波亀山の城の1万3千の兵は直接信長の指揮下に置かれる。光秀は坂本城の兵を持って、家康を急襲しろというものだ。

「こう推理しますとね、光秀が直接坂本城から本能寺へいき、一度も丹波亀山城に寄らなかった理由が判明するんですね」

 この後、光秀は5月17日に信長から出陣を下知されて、ひとまず近江坂本城に入る。26日に本城の丹波亀山城に戻る。この城の城代が斎藤内蔵助である。彼の娘が後に徳川家光の乳母となる春日局だ。ちなみに坂本城の城代が明智光満である。

 丹波亀山城で光秀は斎藤内蔵助に今後の手配を指示した筈である。だからこそ愛宕山で降雨のため光秀が一泊できたのだ。後日内蔵助は秀吉に捜し出されて、殺されている。

 28日に勝軍地蔵尊で名高い愛宕山へ参篭、29日里村紹巴が参詣のために登山してきた。それを光秀が招き寄せて、西坊の茶庵で、主人の西坊も加えて3人で連歌百韻を催す・・・。

 6月15日、山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀は醍醐村で殺される。同日夕方、西坊は食あたりで急死している。


 「おかしいと思いませんか」間瀬耕一は日下部に尋ねている。以下間瀬の推理。

 天正10年の5月は小の月で29日が月末。よって翌日の6月1日は1万3千のの丹波兵が出陣した日だ。

 光秀は賜暇のところ、信長に呼び出されて、急遽出陣を命じられている。坂本城兵を合わせて1万6千の兵が出陣するのだ。当然早馬がたてられたであろう。城内は上下の大混乱に陥ったと思われる。

 大将自ら出陣のため下知しなければならない。光秀は生真面目で几帳面な性格だった。差配の手配りは大将の役目でもある。

 それなのに武運長久を祈願する為に愛宕山に登る時間があったのだろうか。その上茶会を開いて、連歌百韻を催す。おかしいではないか。間瀬の柔和な顔が厳しくなる。

 光秀が愛宕山に登る理由はただ1つ軍資金の調達のためとしか考えられない。

信長は出陣せいと命令はするが、軍資金は出さない。命ぜられた者が自分で金策をつける。占領地から色々と献上させるのが織田軍の戦法だった。

 丹波亀山城の兵が光秀の下知も待たずに軍資金も持たずに勝手に出陣する事など有り得ないのだ。

光筆は明智軍法21ヵ条を発布している。つまり何でも自分で点検して差配しなければ気のすまぬ性格だった。

 だが、丹波亀山城が信長直々の命令で出陣すると言うのなら辻褄があってくる。ただ、信長の命令があったとしても、2日や3日で出陣の支度が出来る訳ではない。1万3千人分の食料の用意、馬匹の世話から、小者に持たせる槍や長柄、弦や鉄砲の配分もある。法螺貝を拭き、陣鉦を叩いて兵を集める。身1つで従軍する者も多い。陣立ての用意は城内で行う事になる。

 6月1日に出陣――信長が光秀に命令したとは考えにくい。信長が丹波亀山城を光秀と切り離して、前もって出陣の用意をさせていたと考えるのが妥当だ。だから光秀は6月1日以降、1度も丹波亀山の本城に寄っていないのだ。

 信長から光秀が受けた密命とは家康を討つ事だ。家康は京都、堺にいるが伴は百名足らずだ。坂本の兵3千あれば充分な兵力である。

 

 5月29日の昼下がりより始めて、晩景近くまでかかり百韻興行、これを神前に奉納、惟任日向、帰る―― 里村は証言している。百韻とは百首の事、1人が33首、1首大体20分かかると言われている。百首作っても11時間はかかる。途中休憩や食事もあろう。

 光秀が帰ると言っているのは、歌会の茶室を退席する事を言っている。光秀は歌を詠みながら、軍資金の調達者を待っていたのである。当時の神社仏閣は金貸し業もやっていたのだ。


 時は今、天が下しる5月かな――

愛宕山で光秀が詠んだとされる歌である。この歌は光秀の懐紙に書かれた歌として里村紹巴が秀吉に差し出している。

「この歌は里村紹巴の創作ですな」間瀬耕一は日下部に語っている。

 創作の理由として、

1、光秀が信長を殺すとしても、本能寺の変の前日に、こんな歌を詠むだろうか。里村や西山坊は連歌師と  同時に情報屋でもある。情報を集めては戦国武将に売り歩く。もし光秀がこの歌を詠んだなら、里村紹  巴は直ちに下人を信長の元に走らせた筈だ。

2、愛宕山には光秀の伴の者もいる。食事や茶の用意をする者もいる。歌を詠むときは詠み手の他に多くの  聴き手もいる。歌を詠めば衆目の的になる。里村でなくても、聴き手の誰かが信長に注進に及ぶだろ   う。

3、光秀は土岐氏の出身ではない。明智城を滅し、弘治2年に明智一族を焼き殺したのは土岐頼芸の旧家人  である。光秀の妻の実家、可児郡妻木城も土岐氏に滅ぼされている。光秀にとって土岐氏は憎むべき相  手である。

 ――時は今・・・――などと詠うはずがない。


                   信長殺しの犯人


 丹波亀山城の武将の中で、一番良い思いをしたのは細川忠興である。しかし不審な行動をするのは杉原家次、小野木縫殿助である。

 杉原家次は高松城の受け取り役の正使となっている。とすると福知山衆を率いたのは誰かという事になる。ここで推測されるのは杉原家次影武者説である。高松城攻め、高松城受け取りに至る経緯を見ると杉原家次の動きが目に付きやすい。

 この家次が病死した後、福知山城はその子の伯耆守長房に継がせるべきであるのに、但馬豊岡3万石へ移封した。代わりに小野木縫殿助を入れている。しかも念のために、ねねの妹が嫁いで産んだ浅野弾正の娘を押し付けている。つまり小野方への監視役を置いたのだ。

 杉原家次は本能寺の変に一役買った――間瀬耕一は確信している。小野木も同じではなかったのか。

 小野木は秀吉の子飼いで近江時代の秀吉に徒歩武者として2百5石で奉公している。この小野木、特別な働きはしていないのに、突如として3万石の福知山城主となる。

 間瀬耕一は小野木は杉原家次と共に丹波福知山衆を引き連れて、本能寺を襲ったとみている。


 その小野木を細川忠興は消してしまいたいほど嫌っていた。

小野木は秀吉の死後、関ヶ原の合戦で西軍の丹波方面の司令官に任命される。別所豊後守、山崎左馬助、谷出羽守以下1万5千を率いる大将となる。

 彼は徳川方に味方した細川忠興の留守城の田辺城を包囲する。城内は武者、雑兵合わせて5百人程度。

 5百対1万5千、すぐにも勝負がつきそうだが、

 ――宮村出雲守籠城覚書――によると、

 敵(小野木の軍)は法螺貝をたてときの声をあげ攻め寄せてきたので、鉄砲を撃ちかける。7人ばかりを傷つけた。すると敵兵は総退却する。

 大手口に一団となって敵が来襲して、攻めの声をかけて打ちかかるのを、鉄砲で旗指物武者を狙って倒すと、後の敵勢は溝に隠れるか、切り株に取り付いて動こうともしない。

 以下桂宮御記録

 三条西大納言と中院中納言が、寄手の総司令官の大阪城に行き、和解の勅令を伝える。田辺城へは烏丸中将光弘と丹波亀山城主の前田通勝が行って停戦させている。

 小野木縫殿助が田辺城を包囲したのが7月21日、田辺城に攻め寄せたのが7月25日、停戦したのが9月3日。

 9月12日から、田辺城は仲介の前田通勝が預かって城番となる。細川藤孝(幽斎)は前田の居城丹波亀山の本丸へ5百人の家来と共に移る。

 小野木縫殿助も攻撃軍を解散させて福知山に戻る。ところが関ケ原合戦からの戻り道の細川忠興に攻め込まれる。小野木は細川忠興の父藤孝に面会を求める為に亀山城へ行くが、城に入れず寿仙庵に入れられ、10月18日に死亡。

 翌年11月、細川忠興は家康より九州豊前一ヵ国を拝領、父藤孝にも隠居分として6千石を貰う。

 不審なのは田辺城攻略は和解が成立している。小野木もロクな戦いもしていない。和解に従い大人しく引き上げている。それを1ヵ月後にはだまし討ちのようにして殺している。

 細川忠興のこの行動は、家康の差し金と考えた方が道理に合う。忠興の子の時代には肥後熊本54万石が与えられている。細川も家康も小野木縫殿助が生きていては都合が悪い事があったのではないか。

 

 ――信長殺しの犯人は細川忠興――

間瀬耕一はそう断定している。

「私は・・・」日下部は言葉を切る。内田と間瀬澄子を見る。

「驚きました。到底信じられませんでした。細川の信長殺しの動機は何か、間髪を与えず尋ねました」


 本能寺の変の後、光秀は秀吉との戦にそなえるために細川藤孝を誘ったと言われている。藤孝はそれを断り、中立を守るために仏門に入り幽斎と名乗る。

――細川家文書・沼田権之助光友来書―- 

 国の事、内々摂津と存じ候あいだ、御のぼりを相待ち候つる。但若の儀思召寄候わば、是以って同前より差引きと可申付候事・・・。

 従来の解釈では――摂津一国を進上しよう。但馬若狭を望まれるなら、これをもって、摂津より差し引きに充当してもよい――これらの国を餌にして、光秀が誘ったとされる。

 相手を味方に引き入れるためには、相手の欲しがる物を与えるのが普通だ。細川幽斎が欲しがっていたのは摂津ではなく山城国の筈だ。

摂津は、高槻に高山重友、茨城に中川瀬兵衛といった光秀の寄騎衆の領地だ。これらを取り上げて他へ割譲できるだろうか。

 山城国の勝竜寺城は光秀が信長から貰った城だが、これ以前は細川家の城であった。この城は幽斎の父が築いている。光秀が誘うための餌にするなら、幽斎誕生の山城国にするべきではなかったか。

 ――但若――を但し若と解釈するならば、これは幽斎の娘婿の武田大膳太夫義統のかっての領地となる。若狭の国ならば欲しがるのも理解できるが、天正8年からは幽斎の甥にあたる孫八郎元明の領国となっている。幽斎の妹の倅の土地を餌にして誘惑するだろうか。

 従来の解釈通りに但若を2国と見れば但馬は細川家には何のかかわりもない土地となる。

 光秀は幽斎を誘っていないとみるのが妥当なのだ。むしろ、丹波国内は光秀領が多いから、丹波を寄こせとする光秀の幽斎への第一信こそ真実ではなかったか。

 本能寺の変当時、明智家の領地は細川家の14倍はあったとされている。光秀からみれば幽細は寄騎衆の1人に過ぎない。そんな彼に一国やるといったような大層な招き方をするだろうか。

 本能寺の変前後、細川藤孝は明智光秀と関係なく働いていたと言うのが真相ではないか。


 「この時ばかりは私もよく喋りました。間瀬さんは私以上に話しましたね」

日下部は乱雑な髪を両手でごしごしこする。

 信長殺しは細川忠興という間瀬耕一の推論は以下の通り。

信長の下で働いても将来の大身は望めない。生涯明智光秀の寄騎衆の1人として終わる可能性が高い。

 こんな時に家康から誘いの声がかかったのではないのか。

 家康が安土城へやってきた時3千両の大金を持ってきている。信長への祝賀の返礼とされている。一説には家康が茶会を開くための費用ともいわれている。この金は細川藤孝に手渡された可能性もあるのだ。


 「すべては間瀬さんの推理ですが、私は面白いと思いました」

間瀬耕一からは日下部にまた会おうとの誘いがあった。だが四日市でのこの会合が最後となった。

 10月に入って、間瀬からの連絡が途絶える。


 「間瀬さんからおききした話は以上の通りです」日下部の話が終わる。

「すみません、眠たくなってきました。もう一度寝ますので・・・」

日下部は愛想のない顔を下げる。

 2人は深々と頭を下げて謝意を表す。


                     徳川家康


 平成21年4月中旬。

 内田不動産は賃貸借の仕事で忙しくなる。間瀬澄子も営業の手伝いをする事になる。営業が苦手だったが、慣れとは恐ろしいもので、客との対応もテキパキとできるようになった。

 夕方、澄子は間瀬家の本宅に戻る。兄の内田から再婚しろと言われている。再婚するとなると、間瀬の本宅を出なければならない。再婚して子供に恵まれたなら、間瀬家の親類縁者からブーイングが起こるに決まっているからだ。間瀬本家の後継ぎは間瀬家の血筋と決まっている。

――再婚する時は親類の家から養子を貰う。自分は間瀬家と縁を切る――

 今は――夫殺しの犯人を捜す事だ。


 四日市の日下部のマンションを出た後、内田と澄子は失望感にとらわれていた。

間瀬耕一が徳川家康を取り上げる予定であった事は判った。だがその事と殺人事件とどう結びつくのか、接点さえ見いだせない。

 徳川家康に何か手がかりがあるかもしれない。折れそうな心を奮い立たせる。振り出しに戻った気分で机に向かう。膾炙されている家康像から入ってみる。


 天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時)家康は三河の土豪松平広忠の嫡男として、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘、於大(伝通院)幼名竹千代。

 幼少の頃、人質として今川義元の駿河に送られる。今川氏の下で元服。、義元から偏諱を賜り、次郎三郎元信と名乗る。後年、祖父、松平清康の偏諱をもたい蔵人佐元康と改める。

 永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれる。元康は今川軍が放棄した岡崎城に入る。三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。

 永禄5年(1566)織田信長と同盟を結ぶ。翌年義元からの偏諱である元の字を返上、元康から家康に改名。

 永禄9年(1566)三河国を統一。同年、朝廷から従5位下、三河守の叙任を受ける。徳川氏に改姓する。これに従い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏である事を公認させた。

 その後駿河に進攻、領土問題で武田信玄との軋轢を交えまがらも、着実に領土を拡大していく。本拠地を岡崎から浜松に移す。

 同盟者の信長は岐阜を支配した後、足利義昭を奉じて京都入りを果たす。一時は足利義昭の離反や一向宗との戦いなどで、信長も窮地に追い込まれることもあった。

 元亀3年(1572)、武田信玄が徳川領である遠江国、三河国への侵攻を開始した。

 三方原の戦いで家康が惨敗を喫する。足利義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺らの反織田勢力を迎合して信長包囲網に加わり挙兵する。信長もこれに対抗するだけの兵力もなく、岐阜城に立て籠もる。

 しかし、信玄の死により窮地を脱する。信長は反信長勢力を撃滅する。家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還して駿河国の武田領まで脅かすようになる。

 天正10年(1582)2月、長篠の戦いで武田勝頼に勝利した信長は、武田領へ侵攻を開始する。同年3月勝頼自害、ここに武田家は滅亡。この戦功により家康は駿河国を与えられる。駿府において信長を接待する。この接待に為家康は莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営する。信長はこの接待を喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の安土接待となる。

 天正10年(1582)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君と共に安土城を訪れる。

 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こる。この時の家康の伴は小姓衆などの少人数であったため極めて危険な状態だった。穴山信君が横死する程の混乱ぶりと、家康自身も信長の後を追おうとした程の狼狽ぶりだった。

 しかし本多忠勝に説得されたリ、服部半蔵の進言を受け入れて伊賀超えを敢行する。

 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国まで進軍する。この時中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀が打たれて事を知る。

 以後武田氏旧領のの平定に勢力を注ぐことになる。


                      影武者家康


 本能寺の変前後までの徳川家康の簡単な履歴を整理してみた。家康は信長の忠実な同盟者という印象が強い。困難な状況にあっても決して信長を裏切らなかった。この事が本能寺の変の信長殺しの容疑者に結び付かない要因ともなっている。

 この家康、実は影武者だったという説がある。

明治35年4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官史だあった村岡素一郎が――史疑徳川家康事蹟――を

出版している。以下村岡素一郎の影武者説。


 ――松平広忠の嫡男で幼名は竹千代。元服して松平次郎三郎と名乗った人物は、真の松平(徳川)氏である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも竹千代である。

 竹千代(元康)は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立するが、数年後に不慮の死を遂げる。その後に現れる家康は、世良田次郎三郎という。全くの別人が成り代わった。――

 村岡が唱えたこの説は林羅山の”駿府政事録”の慶長17年(1612)の記述に寄っている。

――駿府政事録、慶長17年8月19日の御雑談の内、公(徳川家康)は幼少の時、又右衛門なる者に、銭5貫を以って売(売買)せられ、9歳より18・9歳迄、駿府に在住せられしと、此比は人の子女を勾引いて売買したることにあり、公も此の災厄に罹られたるなり。陪席の左右侍御輩皆之を聴けり――

 松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代を駿府に人質として送ろうとしていた。広忠の継室真喜姫(田原御前)の父、田原城主戸田康光は今川家と松平家を裏切って、竹千代を織田信秀に売った。後に、織田信長の庶兄、織田信広が今川軍に敗れて捕らえられた。その信広と交換に駿府に送られた。その駿府政事録はその様子を家康が語ったものと言われている。

 その後、康光を始めとする戸田一族は今川家に滅ぼされている。


 村岡は元康と入れ替わった人物を”淨慶”後に世良田次郎三郎元信と名乗った願人坊主と推定している。彼の母は元康の母とされている於大の方、父は江田松本坊という時宗の祈祷僧と見ている。この父は彼が生まれた直後に行方不明となっている。

 天文16年(1547)於大は久島土佐と再婚したので、江田との間に生まれた子供(幼名国松)を、家康の祖母源応尼(於大の生母)に養育を頼む。

 その後、国松は国松は東照山圓光院の住職、智短上人の門に入って淨慶と名乗る。しかし殺生禁の地で小鳥を殺したので破門される。その後淨慶は駿府を放浪し、又右衛門にかどわかされて、銭5貫で願人坊主の酒井常光に売られる。ちなみに願人坊主とは、物乞いをする坊主、あるいは髪の毛の伸びた僧を言う。

 永禄3年(1560)淨慶は世良田次郎三郎と名乗る。実父の江田が新田氏の末裔と称していたので、世良田姓を名乗った。

 同年4月、桶狭間の戦いの直前、元信は駿府で人質生活を送っていた竹千代を誘拐して遠州掛塚に逃走。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。

桶狭間で義元が信長に討たれて今川氏が混乱する。

世良田次郎三郎元信は同志を集めて浜松城を落とす。勢いに乗じて三河を攻略するが、松平元康に敗れて、尾張に逃げる。織田信長と小野信元を使い、今川から元康を離反させようと説得する。元康はそれを断る。怒った信長は元信に命じて元康を攻撃する。しかし元信が期待したような戦にはならなかった。かえって元信は孤立して、元康に降伏する。信康の身柄を元康に返還する条件でその家臣になる。

 世良田次郎三郎元信の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川家に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着している。酒井氏の入り婿になり、松平氏の婿になったとされる。

 この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説の可能性も高い。


 以下松岡の主張の続き。

 永禄3年(1560)12月4日、元康は織田信長と戦うために尾張に向けて進攻を開始する。その途中、尾張守山において12月5日、元康は阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたとする。

 この話は家康の祖父松平清康が家臣の阿部正豊(弥七朗)に暗殺された守山崩れそのままである。

 村岡によるとこの守山崩れの伝承は元康の死をカモフラージュする為に清康の死として語られたとしている。元康の死を秘匿して、その身代わりとして立てられたのが、世良田次郎三郎元信とする。

 当時の松平氏の三河は織田と今川に挟まれて危険な状況にあった。三歳の信康はこの両大名と渡り合える筈もなく、信康が成人するまでは世良田次郎元信を替え玉にしようと、家臣たちが考えたと言う。

 永禄5年(1562)、元康に成りすました元康は清州城で信長と同盟を結ぶ(清州同盟)、翌年元信は松平家康と改名して影武者が真の家康となる。


 以上の松岡の説で難点は、元信が浜松城を乗っ取ったとされる当時、浜松城は曳馬城と呼ばれて、飯尾氏が支配していた。永禄11年(1568)に家康に攻略されるまでは飯尾氏の城で、乗っ取られたと言う史実はない。

 於大の母源応尼は竹千代が人質に出される前から駿府にいた。このため於大の子を密かに預かる環境にはなかった。


 村岡の影武者説は、これを裏付ける資料が一切存在していない。


 影武者家康説は確たる資料もなく根拠も薄い。それに比較して従来から説明されているのは世良田親氏先祖説である。

 松平家の先祖世良田親氏は新田氏の一族であるが足利尊氏に滅ぼされている。親氏は流浪して三河に辿り着く。三河の国賀茂郡平郷出身の小豪族、松平太郎左衛門の娘を娶って松平姓を名乗る。

 親氏は近隣の村を従えて、その領地は三河一国におよんだ。3代目信光の代に岡崎に進出。6代目信忠が横暴で酒色にふけったため、被官の豪族に見限られて、安祥城のみの留まったと言う。

 7代目清康(家康の祖父)は大永3年(1523)、西三河を回復して1代で三河統一を成し遂げる。

 天文4年(1535)守山で家来の阿部弥七郎に殺される。

清康の子広忠(家康の父)はこの時10歳だったので、今川義元の援助を受けた。義元は広忠を牟呂の城に入れたが、広忠が長じると三河を回復して岡崎城に入れる。

 天文11年(1542)家康が生まれる。母は水野氏の娘、於大。

 天文16年(1547)6歳の竹千代(家康)は駿府の今川氏に人質に送られるところ、三河田原城主戸田康光に騙されて、尾張の織田氏に送られた。

 天文18年、広忠は部下に殺される。

 同年に起こった今川と織田の戦いで、安祥城にいた織田信広が捕らえられた。これにより人質交換で竹千代は今川氏の駿府に送られる。

 弘治元年(1555)14歳で元服。次郎三郎元信と名乗るが、翌年元康と改める。

 永禄3年(1560)桶狭間の合戦で、今川義元が討ち死した。今川氏から独立した家康は岡崎城に入り、以後織田信長と同盟を結ぶことになる。


 岡崎の大樹寺には松平清康が建立した逆修供養塔がある。その棟札には世良田次郎三郎清康と書かれている。世良田清康と署名された発給文書も残っており、松平氏は、清康の代から世良田氏との関りを主張していた。

 家康の先祖として実在が確認できるのは信光からで、その1代前の松平泰親については信憑性のある資料がない。

 新田世良田氏と松平氏を取り持つ世良田親氏(徳阿弥)は三河では実在の可能性が低い。

 天保4年(1833)の改正三河後記によると、

共和2年(1802)武蔵国多摩府中の称名寺の竹藪から”世良田氏徳阿弥親氏、応永1、4月世”と書かれた碑が発掘されたが、幕府の命令で立ち入り禁止となった、と出ている。

この事について幕府の奥儒者鳴島司直は、幕府の公式見解として、家康の先祖の親氏(徳阿弥)は、三河の松平郷の在原伸重の婿養子になった事になっている。立派な墓も松平にある。徳阿弥親氏が武蔵国で葬られているのは都合が悪いとして、闇に葬ったと言っている。


 世良田や徳川は上野国新田荘(現在の群馬県太田市)の郷名である。鎌倉時代には、世良田や徳川を名乗る新田一族もいた。

 新田義重の子に徳川義季がおり、その子に徳川(得川)頼有と世良田頼氏がいた。頼有、頼氏兄弟の時代、新田氏の惣領は新田義兼の孫、新田政義であった。

 寛元2年(1244)政義は京都で大番役勳任中に許可なく出家して京都を引き払ってしまった。その為に領地を没収されてしまった。以後幕府への出任は世良田頼氏が勤めた。

 文永9年(1272)世良田頼氏は2月騒動に連座して佐渡送りとなる。以後惣領権は新田政義の孫、新田基氏に戻る。基氏の孫が新田義貞である。


 南北朝の戦乱の末に時宗の僧となった世良田親氏(徳阿弥)が三河松平信重の婿になり、松平親氏と名乗って松平氏の祖となったと言う。家康が世良田ではなくて”徳川”と名乗ったのは、世良田の親氏祖父の世良田親季が、一時徳川郷に住んで徳川親季と名乗ったからだと言うが、この話は現在は否定されている。


 家康は従5位下、三河の守に叙任される直前の永禄9年頃吉田兼右が見つけ出した徳川系図を元に家系図を整えている。この時兼右が見つけ出した系図は徳川氏(源姓)のものであるが、途中で藤原姓に改姓した奇妙なものだった。その為か、三河守叙任後の家康は、公式文書には藤原姓で著名している。

 一方では新田源氏であると主張しながら一方では公式文書には藤原姓を使っていた。このため松平氏の出身に不信感を抱かせる原因となっている。家康が新田氏の末裔と称したのは任官に際して家柄を飾るための方便だったのではないかというのが現在の定説である。

 近衛前久の書状によると、家康は征夷大将軍に任じられる前にも、吉良家から得た系図をもとに新田義国以来の系図を整えている。その際に藤原姓から源姓に戻している。

 家康が新田源氏を主張していたのは官位を得るための方便であり、松平氏と世良田氏は実際は無関係であることは定説となっている。

 しかし家康の祖父清康が世良田清康と称していた事は、松平氏の世良田氏へのこだわりが強く感じられるのだ。単に任官に際しての使者のためという以上の根の深いものがあったとみる。

――松平氏が世良田氏にこだわった理由は謎である――

 世良田正義の子の世良田政親が松平郷に隠れ住んだとの伝説がある。

 群馬県太田市(旧新田郡尾島町)世良田町に世良田東照宮がある。東照大権現として徳川家康を祭っている。

 元和3年(1617)駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骨を改葬する。その際に建てられた社殿を寛永21年(1644)に、上野国世良田へ移送して創建されている。この地には新田氏の開祖新田義重の居館跡で、隣接する長楽寺は義重の供養塔がある。歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立して、この地を発祥とする世良田氏の末裔としていたので、徳川氏ゆかりの地とされた。

 寛永21年に3代将軍徳川家光の命で、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。歴代徳川将軍家から信仰されて、江戸時代に大いに栄えた。


                      下鴨神社


 間瀬澄子は色々な資料を漁る。家康の遠祖が世良田氏であろうと察しはつく。だがこれも確たる証拠がない。ただ1つはっきり言える事は、家康は世良田姓に確執している事だ。

 日下部の言葉を思い出す。

――間瀬紘一は京都の賀茂神社に行っている。そこで見たものは徳川の葵の紋と、賀茂神社の神社紋がよく似ている事だ――

 翌日、間瀬澄子は内田不動産に出勤する。彼女の仕事は主に事務である。不動産の賃貸契約書、不動産協会への仲介業務報告に至るまでの仕事は沢山ある。忙しい時は営業までする。

 朝9時に今日1日の打ち合わせをする。新聞の折り込み広告を入れる日は、お客からの問い合わせの電話も入る。

――今日は・・・――

 午前中、内田は賃貸用のアパートや借家の所有者に電話を入れる。空き家の確認と入居者募集のお願いである。

 澄子はお茶を入れる。昨夜調べた徳川家康について話をする。京都の賀茂神社へ行ってみたいがと切り出す。

――今、会社は忙しそうなので、自分1人で行ってみようと思っている――澄子の本心だ。

 内田は行くなら2人でと譲らない。今まで2人で行動してきた。間瀬耕一のためにも2人で京都に行こうと言う。


 平成21年5月中旬、内田の白のクラウンは夕方に常滑を出発する。明日夜8時に1組の来客がある。今日の夜下鴨神社近くの旅館に宿泊する。明日9時に下鴨神社に御参り、午後3時には京都を出発する。

 常滑から知多中央道に入る。名古屋高速に乗り換える。名神高速道路を目指す。名神高速道路の彦根サービスエリアで休息。京都東インターで降りる。

 下鴨神社は京都御苑の北側に位置する。西に京都府庁、南に京都市役所がある。京都を流れる鴨川と高野川に挟まれた三角地帯にある。

 下鴨神社近くの旅館に到着するまで、内田と澄子は下鴨神社について下調べした事を話し合う。

 まずインターネットで下鴨神社参拝ガイドブックを見る。

――下鴨神社は正式名称を”賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ”という。御祭神の賀茂建角身命かもたけつぬのみことは古代の京都山城を開かれた神様。玉依媛命たまよりひめのみことは賀茂建角身命の子供。下鴨神社は平安京が造営される遥か以前から神聖な場所だった。崇神天皇7年(紀元前90年頃)に神社の端垣の修造が行われたという記録が残っている。

 平安京の造営にあたって、下鴨神社で造営祈願が行われた。以来、国民の平安を祈願する神社となった。

 玉依媛命の子供”賀茂別雷大神”は上賀茂神社の御祭神で、下鴨神社と共に賀茂神社と総称され、京都3大祭りの1つ葵祭(賀茂祭)が両社で催される――

「もっと詳しく調べれば、面白い話が出てくるかも知れないけれど・・・」

 澄子はこれ以上の事は下鴨神社と上賀茂神社に参拝した上で言うと話す。一番の関心は賀茂神社の葵の神紋と徳川家の葵の紋と同じかどうか・・・。

 夫の耕一が調べた方法を辿れないが、信長殺しは家康と断定すると、その根拠を探り出す必要がある。

・・・夫が何故殺されなければならなかったのか・・・

 間瀬澄子はその謎を解明したいのだ。兄の内田に胸の内を打ち明ける。内田は黙したまま何とも言わない。言わないが妹の気持ちは察している。

 白のクラウンは夜の名神高速道路を走っている。彦根インターで30分程休憩する。今日の宿泊は、下鴨神社まで徒歩4~5分の所にある老舗の旅館だ。京料理を満喫して、明日朝、下鴨神社に参拝する。時間があれば上賀茂神社への参拝も予定している。

 

 翌朝9時、旅館に車を預けたまま下鴨神社に向かう。

 神社正面に巨大な鳥居が聳えている。鳥居前で一礼してくぐる。まず拝殿まで直行する。最初にその神社の主神に頭を下げるのが礼儀というものだ。境内は広々としている。主神の他に色々な神が祀られている。

 桜門の側に相生神社がある。御祭神は神皇産霊神かみむすびのかみ。縁結び、結納の守護神が祀られている。

 相生神社の側に、連理の賢木という不思議な神木がある。2本の木の途中から1本に結ばれている。不思議というのは、この木が枯れると、下鴨神社境内の糺すの森に同じように結ばれた木が見つかる。現在の神木は4代目、京都の7不思議の1つ。

 御手洗祭りの時、葵祭の斎王代の禊に使われる御手洗川、そこにかかる輪橋そいはしの側に梅の木がある。光琳の梅と呼ばれている。尾形光琳が紅白梅図屏風(国宝)に描いた梅と言われている。

 さざれ石、国歌に歌われているさざれ石が下鴨神社にある。

 三井神社、山城国風土記に蓼倉里三身社とある社で、本宮の若宮として信仰されている。賀茂建角身命、玉依姫命、伊賀古夜媛命の三神が祀られている。

 御手洗社みたらしのやしろ、井戸の上に祀られることから井上社ともいう。御手洗社から湧き出す清水で葵祭の斎王の禊や土用の丑の日に行われる足つけ神事(御手洗祭り)が行われる。御手洗池から湧き出るアワを人の形にかたどったのが、”みたらし団子”ここが発祥の地と言われている。

 舞殿、下鴨神社境内の中央にある。葵祭の時、天皇の勅使が御祭文を参上され東游が奉納される場所。

 橋殿、御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿、お正月の神事では神事芸能が奉納される礼殿。

 神服殿、古来、行事の時の玉座となった殿舎、夏冬の御神服を奉納する御殿でもあった。

 納殿、歌会、茶会が行われる殿舎。歴代天皇の行事、上皇、院、関白の賀茂詣の時に、歌会に使われた社殿。

 その他奈良の小川、糺すの森の参道など見るべき風景も多い。


 内田と澄子は一通り神社内を散策する。2人の目的は下鴨神社に葵の紋があるかどうか見るためだ。 

下鴨神社の神紋は双葉葵と言われている。毎年5月15日に5百数十名の行列が王朝絵巻の衣装で、下鴨、上賀茂神社に進む。その時の祭りに関わる全ての人々が、清浄のしるしとして葵と桂を身に着ける事から葵祭と呼ばれた。双葉葵は葵祭が行われる時期に咲く植物。

 葵祭は京都3大祭りの1つ。昔は祭りと言えば葵祭といった。

 まず拝殿の屋根に注目する。唐破風の飾りに双葉葵がある。

本殿屋根の鬼瓦には双葉葵がある。本殿前のボンボリには双葉葵描かれている。2人は葵の紋を見て回った後、社務所に向かう。御札を頂戴する事と、ご祈祷を受けるためである。平日の為か参拝客が少ない。社務所の受付には紺の袴と白の装束を着用した中年の男性が座っている。所在なさそうにあらぬ方向を見ている。

 受付の上に額がある。金額によってご祈祷の内容が違うようだ。

・・・地獄の沙汰も金次第というが、何でも金の世の中の様だ・・・内田は澄子に呟く。澄子は含み笑いをする。

 ・・・3万円のコースを頼もう・・・商売繁盛だ。

 1万円以上のコースは本殿まで昇れる。それ以下だと拝殿どまりだ。本殿に昇って、御簾の向こうに鎮座まします神様と対面する。尊い事この上もない。内田は以外と信心深いところがある。その点、間瀬澄子は醒めた面を持っている。

 信心とは心の問題で会って、お金の問題ではないと思っている。信ずる心さえあればお賽銭箱に心付けの小銭を入れるだけで充分だと思っている。しかし兄の行為には、あえて異論は唱えない。お金を出すのは兄だからだ。


 社務所の奥に玄関がある。そこから待合室に入る様にと指示される。玄関は2間幅の広さがある。履物をスリッパに履き替える。3段の階段を上る。2間幅の廊下がある。左手に待合室がある。4枚引きの襖で仕切られている。

 待合室は12帖の広さだ。座敷用のテーブルが2脚ある。肘掛け窓がある。2方の壁には等身大の鏡がある。内田と澄子は向かい合ってテーブルに座る。目の前に鏡がある。

 澄子は鏡に写る自分の姿を見る。

春とは言え、京都は肌寒い。ドット柄のチノパンツとチェックシャツを着ている。その上にジャケットを羽織る。目鼻立ちの整った美人だが、見た目の印象は薄い。人と接するのが好きではなかった。口数も少ない、女でありながら身を飾る事が苦手だった。化粧も薄い。

 結婚してから夫の陰に寄り添う様にして生きてきた。服が地味だった。

 夫の間瀬耕一が亡くなる。兄の内田不動産で働く。事務だけやっている訳にはいかない。見よう見まねで営業もやる事になる。口下手でも必死になって喋る。暗い顔をしていては営業は出来ない。作り笑いを覚える。外観にも気を使う様になる。後ろに束ねただけの髪にパーマをかける。化粧も濃くなる。兄から、若くなったと褒められる。服装も派手になり気分的にも若くなったと感じる。

 若々しくなった自分を亡夫に見せてやりたいと思う。鏡を見詰める。兄の後ろ姿が写っている。紺の背広姿だ。男は地味な方がよい。兄は持論通り派手さがない。

・・・必ず犯人を見つけるわ・・・

迷宮入りになったのか、警察からは連絡がない。歴史研究会のメンバー1人1人当たったが、皆間瀬耕一とは深い付き合いがない。殺害の動機もない。利害関係もない。

――本能寺の変――殺人の動機はここにあると思っていた。

今――その確信が揺らいでいる。

 ”徳川家康”間瀬耕一は信長殺しの黒幕、犯人をそのように判断している。日下部の話だと、賀茂神社の葵の紋は徳川の三つ葉葵と同じだとしている。

 雲を掴むような手がかりを求めて、下鴨神社に来ている。


 ――お待たせしました――

待合室の襖が開く。紫色の袴に白の狩衣を着た宮司さんが顔を出す。烏帽子を被り、手に笏を持っている。

 その声に澄子は我に還る。内田も振り返る。2人は立ち上がる正装の。宮司の後に続く。

宮司は玄関の方に歩く。右手が玄関だ。宮司は左手に曲がる。先に渡り廊下があり、拝殿に続いている。

 拝殿の中央で北に向いて座る。2人もそれに倣う。前方を見ると、本殿前のボンボリに灯が灯されている。双葉葵が鮮やかに映えている。その先が3メートル程の渡り廊下となっている。その奥に本殿がある。

「ここで両手をついて一礼します」宮司の声に従って一礼する。立ち上がると、渡り廊下を通って、本殿前の礼拝所まで歩く。本殿は御簾で蔽われている。

 2人は礼拝所で正座する。宮司が本殿の前で柏手を打って2礼する。2人もそれに倣う。宮司の大祓いの祝詞が始まる。2人は正座のままかしこまっている。床が板敷きなので足が痛い。

 祝詞の後に内田不動産の商売繁盛の言葉が続く。足の痛さから解放されたのは10分後である。本殿でのご祈祷が終わった後、再び待合室で休憩する。

 しばらくすると、紺の袴に白装束に着替えた宮司さんが手ずから抹茶を運んでくる。

「常滑からはるばる京都まで、大変でしたな}宮司さんは話好きのようだ。禿げ上がった後頭部、太い眉が印象的だ。 

「実はですね・・・」内田は低姿勢だ。お茶を飲みながら、

「テレビで水戸黄門をやっていますね」1人合点する。 

「印籠の葵の紋ですが・・・」宮司の顔色を伺う。

 宮司は成程と膝を打つ。

「そういう方、結構多いですな。徳川さんの葵の紋のルーツはここかって、尋ねて見えるんですな」

 宮司は茶を飲み干す。声を落として、諭す様に言う。自分はそういう問題はよく判らない。うちは双葉葵、徳川家は三つ葉葵、似ているようだが違う。

「でも詳しくお知りになりたいなら、上賀茂神社にお行きなさい。社務所で、矢口さんって言えば判ります」

「実は・・・」澄子は内田を見る。ここに来る前に、冨島潤一の名前を出すかどうか議論したのだ。名前を出すことで冨島に変な誤解を与えたくない。だが、必要とあればやむを得ないという結論に達している。

 冨島の事、京都歴史研究会の事などを、包み隠さずに話した。

「ほう、冨島さんをご存知とは・・・」宮司は大きな声を出す。その表情から、冨島は京都の神社仏閣では有力者と改めて知った。

 上賀茂神社の矢口に、冨島の名前を出せば、色々と協力してくれると思う。宮司の表情はにこやかになる。

 2人は宮司に深々と頭を下げる。


                     上賀茂神社


 下鴨神社を後にした2人は、上賀茂神社に向かう。散策の気分で歩く。徒歩10分ぐらい。

「3万円のご利益はあったな」内田は得意そうに笑う。澄子も思わず笑みを漏らす。

「ねえ、耕一さんも下鴨神社に来たのね」澄子は兄に同意を求める。

 京都に来た当初はいつも一緒だった。やがて間瀬耕一は歴史研究会にのめり込む。それでも、誰が何を話したとか語ってくれた。本能寺跡にも連れていってくれた。

 ところが、信長殺しが徳川家康と確信を持つ様になってから、家の中で話をしなくなった。1人で出かける事も多くなった。蚊帳の外に置かれた形だが寂しいとは思わなかった。歴史研究会以外の事は何でも話してくれた。

「男という者はね・・・」内田は歩きながら話す。

 仕事でもそうだが、1つの事に熱中すると、他の事に気が回らなくなる。家の中でベタベタされるとうっとうしくなる。

「だから兄さんは、いまだに独身なのね」澄子は先手を打つ。

 兄は女が嫌いではないと思っている。仕事の鬼なのだ。朝から晩まで仕事の事ばかり考えている。借金があるから仕方がないとは思うが、兄の場合は、たとえ借金が無くても、仕事に熱中するタイプだ。

「耕一君は羽を伸ばしたくて京都にやってきたんだろう」

兄の言葉に澄子は頷く。

 間瀬家は財産家だ。田畑も他の農家を圧倒している。借家、アパートの数も多い。食うに困らない身分だが、親類縁者が多い。間瀬家の家事に色々と口出ししてくる。お祭りや町内の催し物には出席する事になる。気楽な身分ではない。市会議員になれと言う声も出ている。

 煩わしさから逃れるようにして京都に引っ越した。性に合っていたのか、歴史研究会にのめり込む。

 その結果・・・。

 間瀬耕一を殺した犯人は誰か・・・。

今のところ、犯人の手がかりさえない。徳川家康を調べれば、あるいは犯人に結びつくかも・・・。覚束のない期待を抱いて賀茂神社までやってきた。

「迷宮入りになる可能性もあるな」兄の声に澄子は寂しく頷くのみ。

 歩きながら澄子は上賀茂神社の資料を読む。


 上賀茂神社は賀茂別雷神社かもわけいかづちという。祭神は賀茂別雷命。創建の詳細は不明とされる。

 古代山城国に移り住んだ鴨(賀茂)族の氏神を祀る。賀茂県主族は賀茂建角身命かもたけつぬのみことを祖神とする。大和国葛城賀茂より山城国に入り、山代川(木津川)岡田の賀茂(相良郡)桂川と鴨川の合流点を北上し、久我国(上賀茂地区)に到着し、この地を開拓したと伝えられる。上賀茂神社は上賀茂社、上社とも呼ばれる。下鴨神社と総称して賀茂社とも言われる。

 賀茂神社の伝説――玉依姫命は貴布弥川を水源とする瀬見の鴨川で、丹塗の矢が流れ着いたのを見つける。これを持ち帰り、床にさして置いたところ、やがて孕み、男児が生まれた。子は賀茂別雷神と名付けられ、上賀茂神社の祭神となった。

 賀茂別雷神の父は火雷命ほのいかずちのみこと祖父は賀茂建角命、祖母は神伊可古夜日女かむいかこやひめ

 賀茂神社は平安京が出来る前からあった神社である。平安時代、王城鎮護の神社として、桓武天皇が初めて行幸している。伊勢神宮に次ぐ神位が与えられ、正一位となると日本紀略が伝える。


 上賀茂神社への道は簡単に判る。

賀茂川に沿って伸びている賀茂街道を歩くだけだ。下鴨神社からみて、上賀茂神社は北西の位置にある。烏丸大路を横断すると、広々とした植物園に出る。途中御園橋を渡ると、上賀茂神社の一の鳥居が見えてくる。

 参拝者は西側の二の鳥居をくぐる事になる。参拝者用の駐車場を通る。数十メートルも歩くと、左手に社務所がある。社務所ではお守りやご祈祷の申し込みを行っている。窓口には白衣に白袴の若々しい男性が座っている。平日のせいか参拝客も少ないようだ。

 内田は窓口で矢口さんという方にお会いしたいがと尋ねる。窓口の若い男は奥に声をかける。奥の障子が開く。紺袴に白衣の白髪混じりの男が出てくる。中肉中背で、眉が薄く、のっぺりとした顔をしている。眼が小さく、唇が薄い。鷲鼻でとっつきにくい表情をしている。

「先ほど、下鴨さんから電話を頂戴しております」年に似ず透き通るような声だ。

「色々と、お知りになりたい事がおありとか・・・」顔に似ず物腰が柔らかい。はきはきした口調だ。

「境内地をご案内しましょうか」

内田達の返事を待たずに表に出ようとする。

「ご祈祷をお願い出来ませんか」内田は矢口を制する。窓口の男に申し出る。

「ご祈祷は1週間行います。直接神様にお祈りしません」内田は頷く。初穂料として3万円出す。商売繁盛の祈願の申し込みをする。

「では、まず本殿にご案内しましょう」矢口の声は女のように柔らかい。

 本殿にお参り後、神社内を案内すると言う。歩きながら話す事になる。

「富島さんのご紹介とか・・・」矢口はちらりと2人を見る。

 間瀬澄子は京都歴史研究会の事、夫の死の事を打ち明ける。

「あなたは間瀬耕一さんの奥さん・・・」矢口は驚いた表情だ。

「主人の事をご存知で・・・」澄子も驚きの表情を隠さない。

 矢口の足取りがゆっくりとなる。1歩1歩踏みしめる様に歩く。

「去年の夏でしたなあ、やはり冨島さんの紹介という事で参拝に参られました」

 不思議な事だが・・・と矢口は以下のように話す。

今日の澄子達と同じように、下鴨神社の宮司から電話が入る。冨島の紹介で賀茂神社の事について、色々聴きたい人がいる。いまから上賀茂さんに向かうそうだから、よろしくというものだった。

「不思議というのは・・・」矢口は腕時計を見る。

「今、午前11時ですね」2人に時計の針を見せる。間瀬耕一が来たのも、同時刻だと言う。


 二の鳥居をくぐった澄子達は矢口の先導で、授与所前の祢宜橋を渡る。楼門をくぐり、本殿の東横手にある拝殿に向かう。そこから本殿に向かって一礼する。


 「間瀬さんとは同じように参拝しました」矢口は感慨深げに言う。亡き間瀬さんの霊の導きのように思われてならない。参拝後、矢口は間瀬耕一が殺された事も、京都歴史研究会の事も知っていると話す。

 内田と澄子は矢口を凝視する。

「それでは、私達が尋ねたい話の内容も・・・」今度は内田が口を切る。

「葵の紋、それに徳川家康についてではないですか」矢口の声に淀みがない。

「その話をしていただけませんか」澄子は早口で催促する。

 その時、首からぶら下げた矢口の携帯電話が鳴る。

「ごめんなさい」矢口は携帯電話をスイッチオンにする。内田達に背を向ける。何やら話し込んでいる。2,3分後携帯電話を切ると、内田と澄子の方に向き直る。

「すみません、社務所からです。今、3組の結婚式の申し込みが入りました」すぐに帰って来いとの事。

「夕方なら時間があきます」矢口の返事に、澄子は内田と顔を見合わす。2人は午後3時には常滑に帰る予定だ。

「兄さん、私、もう一泊する」澄子は内田の返事を待たずに旅館に電話を入れる。今日、もう一泊したいと伝える。旅館の帳場から了承の返事をもらう。

「夕方、宿泊している旅館に来てくれないか、食事をしながら、話を聴きたい」澄子は矢口に言う。

 矢口は判りましたと言って、小走りに社務所の方に去っていく。

「おい、俺は泊まれんぞ」内田が異義を立てる。

「仕事が大事だから、兄さんは帰って」澄子は電車で帰ると言う。

「お前、変わったなあ、逞しくなった」内田は感心する。

「兄さんのお陰よ」澄子は笑う。

「内田と一緒の時は、その背中に隠れるようにして小さくなっていた。口も利かない。結婚して間瀬耕一と一緒の時も同じだった。周囲からは、旦那さんを立ててよい奥さんだと言われた。

 澄子は夫を立てた訳ではない。話下手で、喋るのが億劫なだけだ。

 兄の仕事を手伝うようになる、初めに内は契約証の作成や帳面の記入だけだった。アパート、社屋の賃貸が主な仕事だ。多い時は3組以上の来客がある。兄1人の手に負えない。営業が主体だ。黙っていては商売にならない。必死になって喋る。話すのが楽しくなる。日常の行動も活発になる。


 2人は顔を見合わす。午後3時までたっぷり時間がある。久しぶりに京都に来た。これからは度々は来れない。上賀茂神社の中をじっくり観て回ろうと言う事になる。

 まず1の鳥居。本殿に南面している。1918年に建立。葵祭で斎王代らが輿を降りてここから参進する。

 外幣殿、1628年に造り替え、御所屋、馬場殿とも言い、行幸時の天皇の到着殿である。

 細殿と立砂、立砂は2つある。円錐形で白川砂の芝端に松葉が挿してある。清めの砂で、上賀茂神社が方除けの神である事を表している。平安遷都以前、拝殿が無かった時、ここに2本の御柱が建てられていた。その根元を固めるための盛土の名残りともいう。正月飾りの門松の起源とも言われている。また一説にはご神体の神山をかたどった神の依り代の神籬ひもろぎともいう。

 細殿は拝殿ともいう。かっては天皇、上皇、斎王のみが昇殿を許されていた。葵祭では斎王代の到着殿として使われている。

 橋殿、御手洗池の上を跨いで建てられている。葵祭の祭の橋殿は勅使の拝殿となる。

 高倉殿、かっては祭事用の保管庫として使われていた。今は神職、参拝者が直会(御神酒)を頂く場所として利用されている。また神器、神宝、古文書が保管されている。

 幣社(祈祷殿)、1708年、内裏炎上の祭に、上賀茂神社が行在所となり、三種の神器が幣殿に遷された。

 その他沢山の施設がある。幾多の摂社も祀られている。摂社の1つ、奈良神社の獅子口には双葉葵の紋がある。

 上賀茂神社の御神体は丸山で神奈備山(神体山)で、神山こうやまとも呼ぶ。上賀茂神社から2キロ程北にある。山頂はカモのカミの磐座いわくらで巨岩が環状に並んでいる。

 葵の森には上賀茂神社の神紋となっているフタバアオイ(双葉葵)があるが、昔は境内に広く自生していたと言う。


 上賀茂神社は広大な境内を所有している。見るべき所も多々ある。ゆっくり回れば二時間はかかる。


 正午、2人は上賀茂神社を後にする。下鴨神社の前を通る。京都御苑近くの料亭に足を運ぶ。黒塗りの2階建の店だ。黒の面格子がある。横手に2枚引の黒塗りの引き戸がある。料亭の暖簾が無ければ町屋と間違えてしまう。

 店の中に入ると奥座敷に案内される。引き上げゆばの造りと角煮、賀茂なすときのこの田楽の盛り合わせを注文する。

「食事が終わったら、俺、帰るわ」内田は営業上りだ。じっとしておれない性格なのだ。頭の中は仕事の事で一杯なのだろう。

「来てよかった」澄子はお茶を飲みながら話す。

 料理が運ばれる。「矢口さんか・・・、良い人のようだ」

 ・・・そうね・・・澄子は頷く。兄と妹、苦労して生きてきた。以心伝心で、澄子には兄が何を考えているのか、よく判る。内田も妹の気持ちも判っている。

「今日は、内田不動産の慰安旅行みたいね」澄子の声に、

「たまには息抜きもいいか」内田が笑う。

 昼食後、2人は旅館に戻る。午後2時、内田は常滑に帰っていく。1人残った澄子は30分ばかり休憩の後、散策のため外に出る。京都は神社仏閣が目白押しだ。見る所が至る所にある。

 夫と京都にいた頃は、1か月に2~3回は一緒にあちらこちらを見て回った。京都歴史研究会で”本能寺の変”を取り上げる。お盆過ぎから、一緒に行動することがなくなった。寂しいとは思ったが、浮気をしたり、無駄金を浪費するような人ではない。1人で行きたい所もあるのだろう。

・・・今思えば、一緒についていくべきだった・・・

 澄子は旅館から徒歩15分ぐらいの所の喫茶店に入った。町家の小路の奥にある。古い建物をそのまま使ている。天井の梁がむき出しだ。壁の板もすべて黒光りしている。天井から吊り下げられた裸電球が淡い光を投げかけている。こじんまりとした店だ。カウンターの奥でマスターが1人いるだけだ。客は澄子以外にはいない。コーヒーを注文する。ここの店内だけが、時間がゆったりと流れている感じだ。ソファに身を沈めて味わう様にしてコーヒーを飲む。


                      矢口春雄


 間瀬澄子が旅館に帰ったのは夕方5時近くだ。風呂に入り、身支度を整える。

 午後6時。

「お客様がお見えになりました」部屋の入り口で仲居が声をかける。

「どうぞ、お入りください」澄子の声と同時に襖が開く。仲居の手招きで矢口が入り口でスリッパを脱いで部屋に入ってくる。澄子に一礼する。

「さっ、どうぞ」澄子はテーブルの下の座布団に座るように促す。

「お食事、お運びしてよろしいでしょうか」仲居の声に澄子は頷く。

 矢口が席に座る。澄子は床の間を背にして座に就く。名刺を差し出す。”内田不動産、間瀬澄子”肩書はない。矢口は押し頂くようにして、両手で名刺をとる。

「すみません、私、名刺を持っていませんので・・・」矢口は失礼を詫びる。

 料理が運ばれてくる。まずビールで乾杯する。

「いろいろとお尋ねしたい事があります」澄子は率直に口を切る。矢口も充分に承知していると、口をそろえる。その上で、奥さんの事はご主人からお聞きしていると言う。

「ご主人から、私の事は・・・」矢口はのっぺりした表情で尋ねる。

 澄子は何も聞いていないと話す。賀茂神社へ行った事さへ喋っていないのだ。

それでは・・・と矢口は自己紹介をしたいと切り出す。


 矢口春雄、38歳。生まれは東京、幼い頃に母に死別。男手1つで育てられた。父は自宅横に作業場を持っていた。透かし彫りを業としていた。

「透かし彫り?」澄子が尋ねる。

「仏壇の前に供物台がありますが、ご存知でしようか」

 矢口は説明する。仏壇の前の焼香卓の事だ。供物や献花にも使われる。写経用の机としても使用される。机の台の下に幕板がある。それに欄間のような彫刻を入れる。これを透かし彫りという。

 矢口の父は若い頃から透かし彫りの名人と言われていた。問屋からの注文が多いが、名のある寺院や神社からの直接の注文も入る。

 矢口は小さい頃から父の仕事を見て育ってきたが、彼自身は父の跡を継ぐ気はなかった。父も無理強いしなかった。

 高校を出た後、商社に就職したが、枠にはまった様な会社の組織にはなじめなかった。半年も立たないうちにやめてしまった。生命保険のセールスをしたり、スーパーの店員になったりしたが、長続きはしなかった。のっぺり顔の彼の顔付きは取っつきにくい印象を与えた。

「損な顔でしてねえ」矢口は自嘲する。

 その後、運転手をしたり、大工の真似事をしたり、ラーメン屋に勤めたりと、職を転々とした。その後2年ばかり便利屋をやっている。各家庭の小さな補修を受けたり、お年寄りの家庭では買い物の代行までした。

 28歳の時、父の仕事に転機が訪れた・

大量に購入してくれた問屋が倒産してしまったのだ。直接発注してくれる寺院や神社の注文だけでは食っていけない。

 父の仕事はこの問屋から供物台を造ってみないかとの誘いから始まっている。

 供物台は知人の指物師に作らせる。幕板に透かし彫りを施して父が組み立てる。釘を使わないので、組み立ての調整も父の仕事となる。漆塗職人に焦げ茶の色を塗ってもらう。発送の箱詰めは父の仕事だ。

 父には造る器量はあっても売る才覚が無かった。父の窮状を見かねて、個人的に供物台を購入してくれるお寺さんに相談する。その為に京都へ飛ぶ。住職が紹介してくれたのが冨島潤一だった。

「冨島さんは恩人でしてね・・・」矢口の口調は柔らかい。

矢口の懇願に冨島は快く応じてくれた。京都、奈良、大阪方面の神社、仏閣への紹介状を書いてくれた。檀家を持つ寺院には喜ばれた。前にもまして仕事が増えた。とは言うものの、手作業なので大量生産は出来ない。父は供物台の組み立てと製品の箱詰めの為に職人を雇う。

 矢口は1ヵ月に一回は冨島印章店を訪問する。些少だが礼金を置いてくる。

 寺院や神社への供物台の搬送は矢口が行う。トラックを一台購入して、1ヵ月に一回直接発注元に運ぶ。その途中で冨島宅に寄るわけだ。

 矢口33歳の時、父が急死、供物台の製造は中止となる。職人達は透かし彫りは何とかするから、このまま仕事を続けてくれないかという。

 矢口は首を横に振る。父の仕事だから手伝っただけで、自分の仕事として続けるつもりはない。ただし、職人たちを路頭に迷わせる訳にはいかないので、配送の仕事は宅配便に任せるよう手配する。納入先も今まで通り発注してもらうようお願いする。仕事場もこのまま使ってもらえばよい。

 矢口は仕事の段取りをすべて手配し終わると、京都に行く。冨島を訪問。今までの事のお礼方々、どんな仕事でもよいから、紹介してもらえないかと頭を下げる。

 冨島は君は変わった人だと眼を丸くする。給料とか、仕事内容とかを問わなければ紹介先があると言う。

 上賀茂神社で世話係を頼まれている。世話と言っても要は雑用係だ。何でも屋、便利屋だ。草むしりから、境内の清掃、チョットした雨漏りの補修、社務所の職員の手伝いなど、いわば半端仕事だ。衣食住は保証するが、給金はお小遣い程度。


 矢口の説明を聴きながら、澄子は奇妙な違和感を感じていた。表情のない、のっぺりとした顔は能面を想像させる。初対面だと、とっつきにくい。口先だけが生き物のように動いている。アルコールは強いらしい。ちびりちびりやっているが、ビール大瓶を一本を空にしている。料理も結構口に運んでいる。

 矢口は自己紹介を兼ねて”上賀茂神社”に勤務するまでの経緯を話す。

「主人と会ったのはいつの頃?」澄子の質問。

「昨年の8月中旬、お盆前後でした」矢口の声は爽やかなだ。

 会ったのは3回ばかり、8月の暮れと9月上旬、電話でのやり取りはない。携帯電話の番号も聞いていない。

 矢口は澄子の質問を先取りして答える。携帯電話の件になると澄子は大きく頷く。

携帯電話を持たせてはいるが、ほとんど使っていないのだ。

――京都歴史研究会の事ですが・・・――矢口は澄子の知りたい事を話題に乗せる。

・・・この人、以外と営業向きかもしれない・・・

 兄の顔を思い浮かべる。腕の良いセールスマンは、客が何に興味があるかを探る。その事から話を切り出してくる。

「私、冨島さんから、歴史研究会に入らないかと誘われました」

「ほう・・・」澄子は耳をそばだてる。

「でも、断りました」矢口は興味ありげな澄子の表情を見逃さない。微笑して話を続ける。

 神社は土曜日、日曜日が特に忙しい。正月、暮れ、盆、祭日など一般の人が休む日は、猫の手も借りたいほどになる。歴史研究会に参加する余裕などない。

 ただ、歴史には興味があるので、会員に配布する原稿のコピーは頂戴している。

「夫の手書き原稿を受け取っていますか」澄子は間瀬耕一の原稿がない事を述べる。

 矢口は冨島から貰っていないと答える。冨島は9月の歴史研究会の会合の時に、早く原稿を出すよう、間瀬耕一に催促したと言っている。10月上旬になっても提出されないので、10月の会合は休会にしようと考えたそうだ。その矢先に間瀬耕一が殺された。以後、歴史研究会は開店休業中のままだ。

「夫が賀茂神社に行ったのは、葵の紋を調べるためと聞いています」日下部の名前は出さず、会員に1人から聴いたと付け加える。

 矢口はその通りだと話す。徳川家の三つ葉葵の原型は賀茂神社の双葉葵にある。

「間瀬さんは冨島さんの紹介で来られたと言われましたので、私が対応しました」

 間瀬耕一は人当たりも良く、腰も低い。しかも歴史についてはよく勉強しているので、自分も時間の経つのも忘れて対応した。矢口の口は滑らかだ。


                    殺人の動機


 間瀬澄子は矢口にビールを勧める。彼は酒に強いようだ。澄子が勧めるのを、遠慮せずに飲み干していく。大瓶二本が空になる。料理も間断なく口に入って行く。

「ところで、矢口さん、信長殺しの犯人は誰と考えますか」

 料理をつつく矢口の箸が止まる。澄子を凝視する。

「判りません」ビールをついだコップをテーブルに置く。

「多分、永遠の謎でしょう」

 明智光秀説が定説化している。だがこれとても推定でしかない。タイムマシンにでも乗って、当時の場所に行ってみない限り、誰にも判らない。

 信長殺しに限らない。歴史認識に何々史観というのがある。それは一つの見方であって、絶対的な見方ではない。歴史の見方は沢山あって当然なのだ。

「歴史研究会の皆さんの原稿を読みました」

 信長殺しの犯人が色々ある。誰の説が正しくて、誰の説が間違っているなんて有り得ない。

「皆さんの説は正しいし、あるいは間違っているのかもしれない」

 結局判らないと言うのが正しい。矢口の目に光が宿る。澄子は頷く。夫が歴史研究会に入会する時、冨島から聴かされた言葉がある。

――歴史に定説無し――

「奥さん」矢口の口調が改まる。

「ご主人を殺した犯人を見つけたい。だからここまで来たのでしょう」

「でも、今のところ、見込みなしです」澄子の声が沈む。

「何でしたら、ご一緒に犯人探しをしませんか」

 矢口の口元が緩む。澄子は戸惑う。矢口の真意が呑み込めない。

「奥さん、インターネットやってますね」間瀬耕一から聴いていると話す。矢口は自分のメール番号を澄子に渡す。

「ご主人がどうして殺されたかは判らない」言いながら矢口は以下のように話す。

 ――間瀬耕一は信長殺しの黒幕を徳川家康と断定していた。本能寺の変後、家康の行動には不審な点がある。それと、本能寺で異変が起こるだろうと言う事は、秀吉も知っていた。家康にしろ、秀吉にしろ、信長が死んでくれた方が都合が良い。

 秀吉にはサンカの出という異説がある。同じように、家康にも似たような異説があったのではないか。

「間瀬さん、言ってました。家康を解く鍵は、世良田姓と三つ葉葵と・・・」

 矢口はこの2つの鍵から調べていくべきではないかと言う。

「それと・・・」矢口は口ごもる。言っていいのかどうか、迷っている風に見える。彼はビールをぐっと一呑みする。

「これは私の説ですが・・・」断って以下のように言う。

 歴史研究会へ提出する筈の間瀬耕一の原稿が無くなっていた。これは奥さんの証言で明らかになっている。冨島の言葉を信ずるなら、昨年の10月上旬になっても、間瀬耕一の原稿は送られていなかった。まだ未完成なのか、完成していたとしても、故意に送らななかったのか、どちらにしてもその原稿に書かれていた内容が、ある特定の人物=間瀬殺しの犯人は、原稿の提出と引き換えに、何か間瀬耕一の喜びそうな”もの”を提出しようとした。

「では犯人は、夫の原稿を見ていたと・・・」思わず澄子は声を出す。

 矢口はいったん口を噤む。澄子をみて微笑する。

「だって、間瀬さん、日下部さんに話していたそうじゃないですか」

「じゃ、犯人は私の知っている人・・・」

「それは判りません」矢口は話を続ける。

 間瀬耕一は本能寺の変の歴史認識の中で、とんでもない事を見つけたのではないか。

 ただ――、間瀬から見ると、それは多くの歴史認識の1つにの推測に過ぎまかった。

 多分――、こう言う見方もあるが・・・。と犯人に話したのではないか。1つの見方だから、信長が死なずにどこかへ行ってしまったとしても良い。だが、犯人はそうは取らなかった。その1つの見方を歴史研究会という小さな会であるにしても、公表されると都合が悪いと感じた。


「でも、信長殺しの犯人が判ったとしても、それを公表されるて都合の悪い事ってあるかしら」澄子は口をとがらす。

「いや、それは判りません。何も信長殺しの犯人とは限りません。家康の秘密って事も考えられます」

 矢口の口調はしっかりしている。澄子は黙るしかなかった。

 家康犯人説は昔からあったと聞いている。家康が天下を取る。家康にとって都合の悪い手紙、文書などは封印されるか、消失される。家康が狸おやじとして蘇るのは明治になってからだ。

 日下部が言った言葉を思い出す。夫が語ったとして以下のように言っていた。

――本能寺の変の後、家康は危険を冒して伊賀超えをしている。京都、堺近辺はすでに信長の死が知れ渡っている。各方面で物取り、騒乱が起こり、秩序が破壊される。伊賀超えなど、まさに盗賊の巣に入り込むようなものである。

 この時は家康の人生の中で最大の危機ではなかったか――

 だが――、間瀬耕一は疑問を呈している。

 服部半蔵の勧めで伊賀超えをしている。伊賀の乱で伊賀の国人が信長軍によって蹂躙されたとは言え、伊賀の国は伊賀忍者の国である。伊賀の忍者達に守られての伊賀超えではなかったか。伊勢湾を渡り、一時常滑に寄ったものの伊勢湾から岡崎城まで帰路についている。

 以上の家康の行動はあらかじめ綿密に計画されたものではなかったか。

 焚書坑儒――歴史とは勝者の記録である。家康が天下人となる。徳川家にとって都合の悪い”事実”は伏せられあるいは抹殺される。徳川家にとって差しさわりのない歴史認識が作り上げられたのではないのか――。

 夫殺しの動機は家康犯人説を公表されては困る人物。澄子の心の内にも、その考えが根づいて行く。


                     三つ葉葵


 9時、矢口は席を立つ。

「ごちそうさまでした」一礼をする。部屋の入り口の襖を開ける。澄子の方を向いて「葵の紋について調べてみてください」一言言うと部屋を出ていく。

 矢口は上賀茂神社の社務所の奥の宿直室で寝泊まりしている。隣が事務室。パソコンが置いてある。

「これからもよろしく」澄子は矢口の後ろ姿に声をかける。


 翌朝、9時に旅館を出る。電車で常滑まで帰る。

兄の会社、内田不動産は、普段は朝9時に出社。間瀬澄子はその30分前に会社に入る。兄は会社の2階で寝泊まりしている。事務所は店舗兼用だ。10帖の広さがある。澄子は店の掃除とお茶を沸かす。9時に朝のミーティングを行う。他に社員はいないので、兄妹で打ち解けた話となる。

 澄子は矢口との会話の内容について喋る。取り立てて、是といった収穫はなかったと報告。

 不動産、特にアパート、借家の賃貸の仕事は来客がある時は3組、4組と押し寄せる。ない時は1人の客もない。春や秋は入学や、就職など人事異動が多い。多忙を極める。

 常滑は焼き物の町だが、寂れて久しい。窯場の跡地など荒れたまま放置している所が多い。内田は地主を訪問しては空き地利用を勧める。賃貸物件は多い程有利になる。

 10時、内田は借家を探してくると言って外へ飛び出していく。澄子は物件情報をパソコンに入力したり、新聞の折り込み広告用のチラシの原案を造ったりする。

 正午、帰社した兄と昼食を摂る。

「私、徳川の三つ葉葵を調べてみたいの・・・」兄に語る。

「うちの人ねえ・・・」澄子は間瀬耕一の人柄を偲ぶ。

 小さい頃からお金に不自由した事がないので、金銭感覚が怪しい。欲しい物があると、金額にかかわらず、パッパと買ってしまう。と言ってもバーやキャバレーに入ってのムダ金は使わない。

 人当たりが良いので敵を作らない。面倒見が良いので人付き合いが多い。これといった趣味はないが、いったん凝り出すと、深入りする。調べ物がある時は丹念に調べ上げる。調べた事は誰彼となく自慢して話す。澄子も何度夫の自慢話に付き合わされたか判らない。

 ただ――澄子はここで話を止める。

 京都歴史研究会の”本能寺の変”では間瀬耕一の性格が仇になった。もう一つ、どうしても判らないのは、自慢げに話した夫が、昨年の八月下旬以降、自分に一言も話さなくなった事だ。

 世良田と三つ葉葵、この二つが徳川家康を解く鍵だと、間瀬耕一が矢口に語ったと言う。

「私、耕一さんの気持ちに立って、調べてみるわ」澄子の言葉。

「危ない橋は渡るなよ」内田は心配する。内気だった妹が変わってきている。営業活動をやらせたせいか、活発になってきた。兄としては嬉しいのだが、この問題は危険なにおいがする。深入りして間瀬耕一の二の舞いになるのが怖い。

「慎重にやるから・・・」澄子の眼が光っている。


 不動産業は、土曜日、日曜日、祭日が忙しい。平日は暇な日が多い。澄子は夕方5時に退社する。夕食後、7時ごろから、間瀬耕一が使っていた書斎に籠る。間瀬邸は2百坪余の豪邸である。澄子1人で掃除するのは大変なので、3ヵ月に一回は専門業者に、掃除や庭の草取りを頼んでいる。

――徳川の三つ葉葵はいつ頃から使っていたのか――

 色々な資料を漁る。共通しているのは、松平親氏の養父、在原重信より伝わる”葵”を使用したとある事だ。

 戦国時代、三河地方は賀茂神社の氏子が多かった。賀茂郷や賀茂村と称するところがあった。豪族本田、松平、伊奈氏など葵紋を用いていた。三河地方は元々賀茂神社の神領であった事、賀茂神社への崇拝者が多かったからである。

 徳川氏は三河の国賀茂郡松平村からでて松平姓であったが永禄九年(1566)家康が徳川と改める。南北朝の頃、新田氏の後裔世良田親氏に女を配して、家を継がせたと言う。家紋の葵は賀茂に関係があると言われている。

 徳川幕府では、御三家御三卿だけが徳川姓を名乗り、三つ葉葵の紋章を用いる事を許している。分家や庶流には松平姓を名乗らせている。葵の紋も少し異なったものを用いさせている。

 松平氏に婿養子に入る前の徳川氏は新田氏の一族であったと言われている。本来の家紋は広忠の墓や日光東照宮に見られる”銀杏紋”であった。

 家康は天下を取ると葵の紋の使用を禁じた。島田、伊奈氏など賀茂神社の氏子らの葵紋の使用を差し止めた。

 ところが本田氏はその後も葵紋を用いた。

家康は本田忠勝に葵紋を用いぬよう命令したが、忠勝は「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕する賀茂族、それ故賀茂の神紋である葵紋を用いる事は当然の事。殿こそ本宗新田の大中黒の紋に代えられてはいかが」と言い放った。さすがの家康もそれ以上口にしなかった。

 本田氏は系図によれば藤原氏の後裔を称しているが、忠勝の言葉によれば賀茂氏の後裔と言う事になる。

 澄子は資料を漁りながら、1つの疑問にぶつかる。

――親氏は三河に流れてきて松平氏の婿となる。その子信光は賀茂朝臣を称した。葵の紋も受け継いだ――と言う一文である。

 大久保彦左衛門の”三河物語”、徳川幕府編纂”朝野旧聞裒藁”によると、

 上野国新田郡徳河郷に住んでいた徳川氏は、新田義貞に従ったため、足利幕府の迫害を受けて、各地を放浪する。14世紀末かた15世紀初頭の応永年間、本貫を追われて時宗の僧となった有親、親氏父子は三河大浜の称名寺に辿り着く。

 徳阿弥親氏は、還俗して酒井五郎左衛門の婿となるが、妻に先立たれて、加茂郡松平郷に流れ着く。親氏は松平太郎左衛門信重の婿となり、松平太郎左衛門親氏と名乗る。

この親氏が徳川松平氏の初代と伝えられる。

 以下松平氏の系図、

 世良田満義以下を満義――政義――親季――有親――親氏――泰親――信光――親忠――長親――信忠――清康――広忠――家康とつなげている(泰親を親氏の弟とする説もある)

 南北朝の戦乱の中で時宗の僧となった世良田親氏(徳阿弥)が松平郷の在原(松平)重信の婿になり、松平親氏と名乗り、松平氏の祖になったと言う。

 家康が世良田ではなく、徳川と名乗ったのは、世良田親氏の祖父の世良田親季が、一時徳川郷に住んでいて徳川親季と名乗ったからだと言う説もあるが、信憑性に欠ける。

 時宗は浄土宗の一派で、寺を持たず、経典もロクに読まず、乞食僧のように諸国を漂泊していた。正規の寺からは軽蔑の眼で見られていた。

 徳阿弥親氏は父の有親と共に諸国を流浪していたと言うが詳しい事は判っていない。

 松平(在原)信重の婿となって、松平の跡目をついだ親氏は、郷敷城を築いて本拠地として、泰親と共に加茂郡の小土豪たちを次々に滅ぼして、支配下におさめる。

 松平氏=新田源氏の一族徳川氏の後裔説は否定されている。この説は清康の頃から始まっている。


 澄子が注目したのは、徳阿弥は時宗の僧と称して、父と共に全国を放浪していた。松平郷に至って、在原信重の婿となったとする説である。

 時は世情不穏な戦国時代だ。誰が敵になってもおかしくない世相だ。信頼できるのは身内のみ。

 織田信長が能力によって人材を取り立てたと言うが、当時の社会としては、信長の行動は尋常ではなかったはずだ。

 周囲を身内で固める。嫁とり、婿養子も親類縁者からもらい受ける。地方の土豪が厳しい世相を生き延びる方策であった。

 名もない乞食僧がぶらりとやってくる。寺に住みつく。時を見て土豪の養子になる。

・・・こんな事有り得ないわ・・・澄子は興奮する。

。。。耕一さんも、私と同じ疑問を持ったと思うわ・・・

 澄子は夫が使用していた回転椅子に座っている。部屋は夫の書斎兼事務室。

 澄子は瞑目する。数年前、夫と名古屋に出かけた日の事を思い出す。帰りの途中、名鉄百貨店に寄る。古本市を開催していた。夫は珍しい本はないかと見て回る。一冊の本を手に取る。

「澄子、これ読んでみるといいぞ」

夫の差し出した本は、島崎藤村の”破戒”

 高校時代に読んだ事があるがと、口に出かかった。夫の機嫌を損ねたくない事と、代金は夫が支払ったので黙ってもらう事にした。

 帰宅後、読む。夫に感想を述べる。差別部落を扱っている。この小説は明治39年に刊行されている。主人公丑松が差別部落出身者である事を破って素性を告白するというストーリーだ。

「明治時代にこんな差別部落ってあったのかしら」

 この時、夫は祖父から聴いた話だと断って以下のように語る。

――戦前、間瀬家は樽水地区では殿様だった。厖大な田畑を小作人に貸し付けている。田畑にならない土地は、工場用地として、紡績工場に貸している。

 間瀬本家の豪邸には、多くの小間使いや女中が働いていた。人を雇う時は、小間使いと言えど、保証人を求める事、身分が明らかである事を条件としていた。

 常滑や樽水地区の集落から離れた場所に、差別部落があった。祖父の言うには、この部落の者と付き合う事や、口を利く事さえも許されなかった。小作人や屋敷で働く者の中に、差別部落の者が紛れ込む事もあった。それを防ぐために雇入れは厳しかった。

 たまに彼らが行商で屋敷に来る事がある。門前から中へは絶対に入れなかったと言う。

”破戒”を見たとき、祖父の話を思い出したと言う。


 澄子は思索にふける。

――世良田、三つ葉葵、徳川――

 全国を放浪する徳阿弥親氏が松平氏の婿養子になったという話に、夫は疑問を感じた筈だ。

・・・こういう自分も・・・、澄子は瞠目する。

 戦前なら耕一の嫁になれなかった。ましてや赤の他人。それも放浪する乞食のような坊主を、婿養子にする訳がない。大正、昭和の初期でさえそうだった。

 戦国時代、三河の松平郷という片田舎、見も知らぬ流れ者を、土豪という、その地方の名家の跡取りにする訳がない。

・・・耕一さんだって、そう考えるわ。この話、絶対裏があるわ・・・


 澄子はパソコンに向かう。機械嫌いの間瀬耕一はパソコンはおろか、携帯電話さえ使わなかった。もっぱら澄子がパソコンを使用する。

 矢口にメールを送る。徳阿弥親氏の謎、澄子は1つの推理を述べる。

 徳阿弥親氏は松平に婿養子に入ったのではない。力でもって、松平郷を奪ったのではないか。当時は夜盗、盗賊が跋扈した時代だ。ただし土豪としての松平氏は残した。形式上松平氏の跡を襲ったと見せかけた方が後々都合がよい。

 親氏が松平郷に入った事について、”三河物語”では

――いかなるご縁にかあらせられん――とのみ記している。大久保彦左衛門は、松平徳川氏の発祥や親氏の正体について、明言を避けざるを得ない事情があったと思われる。


 翌朝、矢口から返信が入る。

――徳川発祥の地について謎が多い。それを解く鍵は六所神社にある。それと三河方面に賀茂神社系の地名が多く残っているのを調べるとよい。

 今、うち(上賀茂神社)は行事がたてこんでいて忙しい。結婚式の申し込みもある。ここ2~3週間はメールできない。時間が取れるようになったら、賀茂神社がいつから鎮座しているのか、調べてメールする。徳川の謎をとく鍵の1つになると思う――


 澄子は朝8時15分に間瀬邸を出る。内田不動産は常滑市役所と常滑駅のほぼ中間の大通りにある。車で10分くらい。

 朝のミーティングで、まず今日1日の仕事の予定を話し合う。2週間後に常滑市全域に新聞の折込広告を入れる。内田不動産は2年前に印刷機を購入している。折込広告を印刷屋に頼むと朝刊に入るまで3週間かかる。自分達で印刷すれば原稿さえあれば、早くて1週間で出来る。費用の3分の1から半分で済む。

 内田不動産は賃貸物件情報を1ヵ月に一回新聞に入れる。その準備は澄子の担当となる。

 ミーティングが終わる。澄子は昨夜調べた徳川氏の謎を兄に話す。仕事ではないが、内田茂は妹の説明を熱心に聞いている。

 10時、内田は営業のため、外へ飛び出していく。

「矢口さんによろしくな」言いながら店先の車に乗り込む。今日は名古屋に用事があるので、帰りは遅くなると言う。

 澄子は印刷機を動かす。

・・・徳阿弥親氏が三河に来たのは偶然だろうか、あるいは・・・。来るべくして来たとしか考えられない。何か重大な情報があったに違いない。

 1つ確実な事は、松平と徳川とは本来縁もゆかりもない事だ。つまり何の関係もないという事だ。

 澄子は確信していた。

 そして、六所神社、賀茂神社の賀茂氏の本当の姿が見えた時、信長殺しの犯人が浮かび上がってくるのだ。

 この時澄子はまだそこまでは思いいたってはいない。

新聞の折込広告を印刷するのに夢中であった。

                        ――つづく―― 


”この小説に利用しました参考文献は、本能寺の変・殺人事件の下に表示します”

お断り=この小説はフィクションです。ここの登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等と    は一切関係ありません。なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であ    り現実の地名の情景では有りません


                          

                            





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