世界が間違えてくれますように。
虚無、という言葉がふさわしい、駅前の街並みと人波。多すぎるビル群によって切り取られた灰色の空。今にも雪が降り出しそうだ。その下を歩くのは、まるで能面でもつけているように画一化された表情の、人、人、人。……薄ら寒いのはきっと、この天候のせいだけじゃない。
停留所のベンチに腰かけて、家という監獄行きのバスを待つ僕の前を、腕を組んだ若いカップルが通り過ぎていった。ふたりとも、無表情だった。おたがいがつながっているのが当たり前だと思っているのだろうか。
年に一度の、クリスマスの日。
この世界のいたるところで、一瞬の間に、無数のだれかが、無数のだれかを想っている。それなのに、僕ひとりだけ、その無限のベクトルからはじき出されているような気分だ。
耳に差し込んでいたイヤホンを、外してみる。
途端に、鼓膜にぶつかってくる雑音。車のエグゾーストノイズ。人のざわめき。信号機がカッコーの声で鳴く。師走の足音。
殺意が視界に滲み、はじける。ぜんぶ邪魔なものだ。俺に関係のない、目ざわりな有象無象。
ウォークマンのノイズキャンセリング機能をオンにし、もう一度、イヤホンをつけ直す。水中に潜ったように、遠ざかる喧騒。
無味乾燥な現実と乖離した幻想的な旋律で、聴覚情報をフルにして、外界をシャットアウトする。
見ず知らずの他人は嫌いだ。殺したくなるくらいに、イヤなところばかりが目につく。
無差別殺人犯の心理と似ているんじゃないか、と思う。
目の前に、細い境界線がある。簡単に踏み越えてしまいそうな一本の白線が引かれていて、こっちに来いよ、と暗がりの中にいる何かが手招きをしている。僕の日常は、いつもこの狂気とどうにか折り合いをつけてもがく場だ。こちら側に留まらせてくれるのは、家族や友達の存在だったり、大事な思い出だったりする。
それでも、こんな日は。
大切な人のいない街。そのラインを越えられないことにいらつく。たまには自分の好きなように生きてみろ、と何かが白線の縁に立って笑いかけてくる。優しく、おまえを待っているんだ、と手を差し出してくる。
ナイフが手の中にあった。視線を向けるだけで人が死んでいった。世界は、こんなにも無価値だ。憎しみを込めて、ガラス玉の両目で通行人を見れば、命が消えていく。死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。黒い空から幾千もの太陽が降りそそぎ、地面からマグマが噴出し、そして、世界は――
「……ふざけろ」
思わず、声に出してつぶやいた。幻が消失する。いつからいたのか、バス停の時刻表を見ていた若い女性が驚いたように僕を一瞥して、すぐに目をそらし、駅のほうへ、足早に歩き去っていった。
なあ、頼むよ。
十二月下旬の昼過ぎ、寒空を、前髪の生む黒線の隙間から見上げて、胸の中で叫ぶ。
ここから引き揚げてくれ。息がうまくできない。上手に笑うこともできない。助けてくれ。この歳になっても、神様はいるって、少しだけ信じてるんだ。
だけど、なにも、だれも答えてくれない。
何もかも、意味がなかったと思えてくる。輝いた記憶も、暖かな想い出も。今いる自分が間違いだと感じる。あのとき、好きだと素直に言えていたら。本気で怒っていたら。後悔だらけだ。無数の選択肢に立ち戻ってやり直せたなら――きっと今とは全く違う僕がここにいるはずだ。なんのコンプレックスもない、完璧な、僕ではない自分が。
冷たいコンクリートの敷きつめられた地面の上を、忙しそうに行き交う人々。
憎しみのフィルターを透過して視覚から入ってくる情報をリードする。何もかも間違った。間違っている。俺は。だれかが泣いた。のぞいてみてごらん、首をはねるぞ、右目をくりぬいて喰わせてやる。引き抜いた神経は水たまりの色。過去に骨折した薬指と小指が熱を持つ、それを言うなら、それを言うなら? 何がしたいんだろうねえ、この人は。うるせえ黙ってろ。
………………………………。
悲鳴が聞こえた気がした。
イヤホンを外して、目をやると、二十メートルほど先のバスの降車場に、小柄な女の子が立っていた。サンタクロースの服のように真っ赤なパーカー、しかしジーンズは黒。そして、右手には、銀光りのする刃物。幸せそうに微笑む顔は、まるで天使のそれのように愛らしい。
彼女の周囲には、たくさんの人間が倒れていた。ざっと十五人はいるだろう。全員、両足の太ももから血を流している。たぶん、足を刺したのは、逃がしにくくするためらしい。大半が這いずって女の子から遠ざかろうとしているが、中には、ショックで失神したのか、動かない者もいた。それとも、すでに事切れているのか。
「もしもし警察ですかっ!? ××駅で女がっ、」
僕の座るベンチのすぐ横で、眼鏡をかけた真面目そうな制服姿の男子が、携帯電話に向かって泣きそうな声でまくし立てていた。
僕は立ち上がり、背後から彼の首筋を締め上げた。頸動脈をおさえる。しばらくジタバタともがいていたが、彼はけっきょく気を失って倒れた。そして、彼の携帯電話を取り上げると、今のは罰ゲームなんですごめんなさい、と警察に嘘をついて通話を終えた。
ため息をついて、ベンチに座り直す。
「どーゆーつもり?」
何分経ったのだろう、気づくと、目の前に女の子が立っていた。
女の子は子どものように澄んだ大きな丸い目で、不思議そうに問いかけてきた。舌足らずな口調だった。白い頬、鳶色の瞳。眉の上で切りそろえられた、チョコレート色の髪。西洋系の血が入っているのかもしれない。二十歳の僕より、五歳は下だろう。
「なんのこと?」
僕はたずね返した。
それ、と女の子は僕の持っていた携帯電話を指して、もう一度、質問した。どうやら、さっきの僕の行動を見ていたようだ。
「なんで、けーさつ、ごまかしたの?」
僕は答えず、まじまじと彼女の格好を見た。どうやら、本来は白いパーカーだったが、返り血を浴びたせいで赤く染まったらしい。ジーンズも同様で、もともとは青いものだったのだろう。そして、右手に持っているのは、血のついた無骨なサバイバルナイフ。
「そのパーカー、桜吹雪みたいな模様になっているね。白い部分が花びらみたいで、きれいだ」
彼女は照れたように身をよじらせ、ありがと、とつぶやいた。
女の子の肩越しに、たくさんの死体が見えた。皆一様に、胸元をえぐられている。ナイフを刺して、ひねったのだろう。空気が入れば、たとえ小さなものでも致命傷となる。
「これから、どうするの?」
僕は彼女にそう聞いた。
「わかんない。とりあえず、ふくをきがえて、にげるよ」
「着替えはあるの?」
ううん、と女の子は首を横に振った。
じゃあさ、と僕は提案した。
雪が、はらはらと降り出した。十二月に降るのは、この街では珍しい。地面が乾いているから、積もるかもしれない。
「おにいさんありがと。あたしおにいさんのことわすれないよ。ちょっとすきになっちゃいそう」
女の子に、いきなりキスをされた。少しだけ、僕よりも高い体温が唇に残る。
「じゃあね、おにいさん」
楽しそうに、はにかむ女の子は、スキップしながら去っていく途中、一度だけふり返り、言った。
「おにいさん、メリークリスマス」
軽やかに跳ねる背中を見送ったあと、僕は、パーカーのフードをかぶった。女の子の髪の、いい匂いがする。
桜吹雪模様のパーカーを着て、右手にナイフを握り、僕は終わりを待っていた。僕は走りながら、死神の鎌である拳銃へと向かっていくつもりだ。ナイフを構えて。
「ああ、名前くらい聞いておけばよかったな」
僕は女の子を想った。唇に移った甘い味は、小さな痛みを胸に残した。
近づいてくるサイレンの音は、きっと、天使の吹くラッパの音に似ている。
「……メリークリスマス」
クリスマスの、可愛らしい殺人犯に、口づけを。
そして、人殺しには永遠になれない臆病者に、世界の終わりを。
END