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大きな栗の木のしたで  作者: 西村卯太郎
3/3

第三話 大きな栗の木のしたで

 その日、彼女はいつもより口数が少なかった。


 ぼくが話題を振ると、彼女は、話し初めこそいつもみたいな早口のおしゃべりなのだけれど、そのうちふっとわれに返ったようになり、声が小さくなり、勢いがなくなり、やがては口をつぐんだ。

 なにを聞いても、何を話しても、会話の行き付くところは歯切れの悪い沈黙であった。


 ぼくは内心いぶかしんだ。彼女の身に何があったのか心配だったけれど、深く聞くのもためらわれた。

 何度話そうと、何をしゃべろうと、ぼくと彼女の関係は、いわば毎日駅前で出会う顔見知り、その延長でしかなかったのだ。

 ぼくはそのことを心のどこかで知ってはいたけれど、これほどあからさまに気づかされたことで、戸惑い、いらだった。


 沈黙の多い会話ほど気まずいものはない。

 彼女の無口がうつってしまったかのように、ぼくもだんだん無口になり、気づいたら二人で、だまって立ち尽くしていた。


「ねえ」

「あの」


 お互いの問いかけが空中でぶつかり、ぼくたちはいっそう気まずさを覚えた。


「あのさ」


 ぼくは勇気をふりしぼった。


「ひょっとして、なんかまずいことしちゃった?」

「ううん、全然そんなことないよ(あらへんよ)

「なんか今日、変だったから」

「そっか……」


 彼女は大きく息を吸い、大きく吐いた。


あのね(あんね)、もう来れなくなるん()


 ぼくは頭をがつんと一撃されて、でもショックを受けたことをあからさまにするのも恥ずかしくて、


「え、そうなんだ?」


 とかなんとか言った。

 早口で、声がうろたえているのが、自分でもわかった。


「軍需工場の勤労動員にとられることになって()。もう聞いてるかもしれない(しれへん)けど、うちの学校からも行くことになったの(てん)。明後日、あの列車に乗っていくん()

「そうなんだ」

「まあ、空襲の少ないところだそうだから(やから)、大丈夫()とは思うけど」


 彼女は明るい声で言った。場にそぐわない語調の明るさが、事態の重大さをかえって強調していて、ぼくの胸を刺した。


「どこに」


 ぼくはようやっと、そういった。


「どこに行くことになったの?」

「広島ってとこ」


 彼女はそう言って、知ってる? とほほ笑んだ。


 もちろん知っていた。

 知らないはずはなかった。

 一九四五年八月に広島市で何が起こったか知らない日本人は、たぶんいない。


 ぼくは間違っていた。

 ぼくには、死なせたくない知り合いが、一九四五年にひとりだけいたのだ。

 ぼくはそのことを知り、かみしめ、愕然として、彼女が手を振って早めに帰って行ったあとも、ただただ立ち尽くしていた。


 やがて鐘がなり、ぼくははじかれたようにわれに返って自転車にまたがった。


     ◇


「東京から疎開してきたというのは嘘なんだ」


 次の日、ぼくは彼女にそう打ち明けた。

 栗の木の木陰が、八月の日差しをやわらげていた。


「気づいてたよ(とったよ)


 と彼女は困ったように微笑んだ。


「だってあなた(おめはん)みたいに目立つ人、隣保の噂にならない(ならん)はずないもの(もん)。その高そうな自転車に、その変な服に、その変なしゃべり方」

「そうか」

「で、本当は?」


 ぼくは黙って、ポケットに入れていた紙を手渡した。

 彼女はそれを読んで、驚いたように僕の顔を見て、それからもう一度紙を見た。


「これは?」

「新聞だよ……今から三日後の」

「どういうこと?」


 彼女はほとんど泣きそうになっていた。

「あんた新聞屋さんなの(なん)?」

「ぼくは未来から来たんだ。いまからちょうど七〇年あとから」


 彼女は泣き顔と笑い顔、半々みたいな顔で、紙を握りしめてうつむき、小刻みに震えた。

ぼくはポケットに両手を突っ込んだまま立っていて、彼女が落ち着くのを待った。


「未来人……未来? なにそれ、わけわからない(わからへん)

「驚いた?」

「ふざけてるの(てるん)?」

「ふざけてないよ」


 ぼくは彼女の目をまっすぐ見た。彼女もぼくの目をじっと見た。それから新聞を穴のあくほど読んだ。何度も何度も、彼女の瞳はぼくと新聞紙を往復した。


 ぼくは、彼女が事態を受け入れるのを待った。ぼくの経験からすると、それはそう時間のかかることではないように思えた。

 ぼくの予想は当たった。彼女は大きく息を吸い、大きく息を吐いて、静かにぼくに向き直った。


「質問に答えて」

「いいよ」

「未来では、過去に行けるようになるの(なるん)?」

「無理だよ。今回ぼくが来れているのは偶然だ。自然現象なのかもしれない」

「この新聞はどこで手に入れたの(たん)?」

「図書館の縮小版をコピー……ああ、複写してきた」

「そう」


 彼女は大きくため息をついた。


「そうなんだ(なんや)。まあ、普通の人じゃ()ないとは思っていたけど、まさか……未来。未来人か」

「ちなみに、何者だと思ってたの」

「……怒らない(へん)?」

「怒らない」

「アメリカのスパイかと思ってた」


 ぼくは思わず吹き出してしまった。


「え、笑うとこ?」

「あ、そっか。戦時中だもんね」


 ぼくは笑い事じゃないということに気づいた。

 ということは、何かボタンの掛け違えがあれば、ぼくはスパイとして憲兵か何かにつかまっていたかもしれないということだ。そうなれば当然、自転車道に時間通りに戻れないということで、その結果がどうなるのかは予想もつかなかった。


 ぼくは彼女に感謝しなくてはならない。

 まず、憲兵に突き出さないでいてくれたこと。

 次に、自分が未来人だと主張する少年の話を、真剣に聞いてくれたこと。

 これは素晴らしいことだ。もしあなたの周りにそんなやつがいたら、あなたは真面目に相手をしてやるだろうか。


 ぼくは彼女に、あの不思議な自転車道のことについて話した。


「君に伝えなくてはいけないことがある」

 ぼくは言った。


「広島には行っちゃだめだ。あそこは、八月六日に大空襲に見舞われるんだ。市の中心部はガレキも残らなかったくらいの大規模爆撃だ」


 原爆という用語を使わなかったのは、ぼくなりの工夫だった。

 一発で街ひとつ吹き飛ばす爆弾が新開発されたと言われても、少女にはピンと来ないだろう。一方、空襲なら連日連夜続いている。

 『大規模空襲』のほうが『新型爆弾』より受け入れやすいだろうと思ったのだ。


 少女はぐずる三歳児みたいなへちゃむくれ顔でぼくを見た。


「なんでこんなこと言ったの(うたん)

「君に死んでほしくないんだ」

うちが知ったところで、どうにもできないよ(でけへんよ)。お国のことだもの(やもん)うちだけ行かないなんてことはできないよ(でけへんよ)

「戦争はあと2週間で終わる。それまで隠れれば――」

「そういうことじゃないんだ(やないやろ)!」


 少女は半眼になり、首を振った。


「みんな死ぬ(のうなる)とわかってて、自分だけ助かるわけにはいかない(いかせん)じゃないか」


 ぼくは少女の眼力に何も言えなくなった。


「そんなこと聞きたく(たあ)なかった」


 と少女は最後にぽつりとつぶやいた。

 そして、くるりと背を向けると、すたすたと歩いて行ってしまった。


     ◇


 ぼくは何を期待していたのだろう。彼女がとつぜん改心(・・)し、家族に、学校に、戦争に、それまで彼女が生きてきた世界に背を向けて、ぼくの首にすがりついて感謝して、八月十五日まで隠れて生き延びることを期待していたんだろうか。


 なんと言い訳したとしても、期待していたのは結局そういうことで、ぼくは打ちのめされた。

 その日から一週間、ぼくは落ち込み続けた。食事をしながら落ち込み、犬の散歩をしながら落ち込み、勉強をしながら落ち込んだ。

 自分が無力であること、自分が卑怯であることを思い知らされる一週間だった。


 一週間、ぼくはあの小道に行かなかった。ぼくのなかの何かがそれを許してくれなかった。ぼくは毎日、あの信号機と小道の前に立ち尽くした。あの小道が消えるまで、ずっと突っ立っていた。


 彼女は行ってしまった。彼女は列車に乗って行ってしまった。破滅へ向かって。


 でも、こんな思いがぼくの心にささやきかけた。


 ひょっとしたら、もういちどこの小道を行くと、すべてがうまくいっているんじゃないか。

 彼女が広場に居て、「心変わりして自分だけでも生き延びることにした、君のおかげだ、ありがとう」と感謝してくれるんじゃないか。


 そんな想像が胸をよぎるたびに、ぼくは自分の愚かさ、身勝手さにうちふるえた。


     ◇


 小道と信号機が消えるときは、だんだん薄れてゆくのではなく、とつぜんふっと消える。まばたきの瞬間、ふと顔を背けた瞬間、風が顔をたたいて目をしばたく瞬間に消え去る。白昼夢から覚めるときのように。


 そんな風にして、今日も小道の消失を確認したぼくは、またがりっぱなしだった自転車をこいで、家に帰ろうとした。


「あの、ひょっとして」


 と声をかけられたのはそのときだった。

 ぼくはびくりと飛び上がった。

 そこには、スパニエル犬を散歩させていたおばさんがいた。


「ごめんなさい、いまどきます」

「いいえ、そうじゃないのよ」


 おばさんは気まずさをごまかすように笑った。


「驚かせてごめんなさいねえ。ただ、ちょっと……ちょっと、用事の人があなたなんじゃないかと思ったものだから」

「用事、ですか」


 ぼくはいぶかしむ様子をあからさまにしないように気を付けた。


「こんなものを預かっててね。ひょっとしたら……とおもっちゃって」


 ぼくは街灯の明かりの下で、おばさんが差し出したものを見た。

 それは手紙の封筒であった。

 封筒にはこうあった。


『二〇一五年、盛名村、自転車道、自転車の上の学生さん』


 そして、宛先人は、ぼくの名前であった!


     ◇

 

 おばさんは「まさか本当にいるとはねえ」とつぶやいて、手紙をぼくに手渡した。ぼくは夢中で手紙を読んだ。



『前略 その後はお変わりありませんか。

 さて、昨日、生まれて初めて列車に乗って、広島まで行きました。

 その途中、岡山で一泊することになりました。米軍の爆撃のせいで線路が壊されたとかで。


 それで起きたら、青い顔した憲兵さんが引率の先生(例の無法松です)と話していて、それで先生が「広島にはいけなくなった」と言いました。

 わたしが思わず「空襲ですか!」ときいたら、「新型の爆弾やそうや」と先生は言いました。


 それが一九四五年の八月七日の朝です。今からちょうど一週間前のこと。


 その後ばたばたして、ようやく落ち着いたのですが、あなたがあらわれません。わたしから会いに行く方法がないので困ってしまいました。

 そこで、未来に向けて手紙を書くことにしました。この手紙を読んだら、ぜひ、またあの栗の木の下でお会いしたく存じます かしこ


 追伸――明日の朝、陛下がラヂオ放送をなさるそうで、役場のひとが校庭にラヂオを据え付けてくれました。

 陛下のお声が聞けるとは思いませんで、みんな騒いでおります。なんとおっしゃるんでしょうか――。


 あなたはその内容も御存じなのでしょうけれど』



 そう。

 もちろんぼくは知っていた。

 もちろんぼくは、一九四五年八月十五日に、『陛下』が何というのかを知っていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 見知らぬ他人のために何かする気は起きなくても、女の子のためには手を尽くしたくなる。力が及ばなければ無力感に打ちひしがれる。そんな心の動きがリアルに感じられました。 最初に細道に入っていくシ…
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