第二話 列車の通る路のそばで
ぼくと少女は、はじめてであった犬みたいに、少し距離を置いてお互いを観察した。
もんぺの少女は短い髪を、柄の入ったほっかむりの下に隠していた。小柄で小顔で寸胴体形で、全体的にちんまりしていて、だけどはじめて会った男性を警戒するようすは機敏そうで、木の実をかじる小動物を思わせた。
ぼくは少女になんとなく好意をいだいた。
ぼくの胸は、不思議と恐怖も不安もなかった。むしろ突然はじまった非日常に対する好奇心でいっぱいだった。
少女の方でも、ぼくの方を興味津々に見つめていた。
ぼくは少女に話しかけた。
「こんばんは」
「こんにちはぁ」
同時に少女が話しかけてきて、ぼくたちのあいさつは空中で鉢合わせした。
ぼくと少女は一瞬戸惑って、それからどちらともなく笑い出した。
◇
ぼくは少女に名乗った。少女も名を教えてくれた。
「東京から来られたの?」
少女がぼくに聞いた。
「うん、そんなとこ」
とぼくは嘘をついた。本当はもちろん東京なんていったこともなかった。
少女の言葉は方言が非常に強かった。地元生まれなので意味が分かったが、ぼくが本当に「東京から来んさった」人なら聞き取れなかったと思う。そのレベルで少女の言葉はなまっていた。
おばあちゃんみたいな話し方だな、とぼくは思った。
「私、話し方ですぐわかったよ。東京の人の話し方だもん」
「そっか」
「それ、変な服だね」
少女はぼくの制服のブレザーを指さして言った。ぼくは曖昧に笑って
「似合う?」
とか何とかいった。
「なんでわざわざ東京からこっちまで来たの」
「こっちに世話してくれるがいて」
「そうなの、どこの人?」
「ごめん、来たばかりでよくわかんないんだ。何ていったっけ」
「新田? 広河町? 浦井大字?」
「新田。奥の方の」
ぼくは適当に話を合わせていった。
驚くべきことに、ぼくは早くもルールを飲みこみ始めていた。
突然ゴキブリとか蜂があらわれたとき、何人も一緒だと大騒ぎになるのに、ひとりぼっちで対処しなきゃならないときは妙に冷静になったりする。あの不思議な冷静さがぼくをとらえた。
ぼくはポケットから紙切れと鉛筆を取り出して、何か書き込むふりをした。
「ごめん、今日、何日だっけ」
「5月2日だよ」
「何年の?」
「えっと、20年」
「ありがとう。昭和20年、と」
少女は訂正しなかった。つまり少女にとってのいまは昭和20年ということだ。
たしか、終戦が昭和20年の八月。ということは、終戦の3か月前。
「なに書いているの?」
「日記だよ、日記」
少女が首をのばしてメモをのぞこうとしてきたので、ぼくは適当にメモしたこと見破られる前にポケットにしまった。
そのとき、ふっと、少女が顔をあげた。
「あ、汽車だ」
空気のにおいをかぐ犬みたいな格好で、少女は言った。
ぼくの心がぶるりとふるえたのは、そのときだった。
帰れ。早く帰れ。
ぼくの心の奥深く、今まで存在すら知らなかった臓腑がそう警告を発していた。ぼくは頭が真っ白になって、無我夢中で自転車にかけよった。自転車の鍵を開けようとして、自分の手が震えていることに気づいた。あせりと戦いながら、ぼくは鍵を開けた。背後から、怪訝そうな少女の声が発せられたが、返事をする余裕すらなかった。
地面が震えていた。
カンカンと電車の鐘が鳴っていた。
ぼくは前かがみになってペダルをこいだ。この鐘の音がなり終わる前に、自転車道に帰らなければならない。その確信がぼくをむち打った。
すれ違いざまに、信号機が光っているのが見えた。真っ黒で大きくて煤けた、三つ目の信号機だった。
夕方を超え、夜にむかって、ぼくの自転車は疾走した。夕方と夜のあいだをくぐりぬけ、元の自転車道にかえったとき、ぼくははじめて息をついた。
肩で息をしながら振り返ると、そこは何の変哲もない植え込みであった。植え込みは視界の右から左まで切れ目なく続いていて、信号機はもちろん、線路も、あの小道もなかった。
◇
「なあ、黒田。このあたりに電車なんかないよな」
「いまはないね、昔はあったけど」
黒田は得意げに眼鏡を光らせながら言った。
クラスに一人か二人、いやに物知りで、いやに思わせぶりに話す事情通がいる。黒田はその典型だった。小学校のころ黒田のあだ名は「ハカセ」だった。いまのあだ名は「メガネ」だ。残念ながら成績のほうはそれほどでもないことを、歳を重ねるにつれて露呈したのだった。
ぼくは内心でこいつのことを「エロゲの親友枠」と呼んでいた。
黒田は弁当箱のタコさんウインナーをつついた。黒田のお母さんは息子のためにひと手間かけるのを惜しまない、けっこうなおふくろさんだ。
「昔は広河から盛名まで線路が通ってたけど、国鉄がJRになるときに廃線になっちゃったんだ。そんで、その線路の跡ってのがね――」
「ひょっとして、おれたちが毎日かよってる自転車道だったりする?」
「あ、うん。その通り。当たり」
黒田はちょっと悔しそうに肯定した。
「よくわかったね」
「うん。そんな気がした。なんとなく」
ぼくはあごに手を当てて考えた。
昼休みの教室は、食堂組や購買組が行ってしまったり、中庭で弁当を食うやつらがいたりして、人数自体は少ない。
だが「閑散としている」と感じないのは、授業中とちがってひとりひとりに活気があるからだろう。
みんなは机を寄せ合い、つかの間の解放感にひたりながら、おしゃべりしては弁当を食い、弁当を食ってはおしゃべりしていた。いまのぼくたちみたいに。
「戦時中さ、空襲ってあったじゃん。このへんにも爆弾落ちたのかな」
「ぼくの知る限りはないよ。田舎だもん、このへん。いちばん近いので、昭和20年6月の柄走大空襲かな」
「悪りぃ、くわしく調べてくんねえ?」
「いいけど……なんで急に?」
「んー、なんか突然気になってさ」
ぼくはふと思いついて黒田に言った。
「昨日あのあとさ、女子と会った」
「ふ、ふーん」
黒田の目が明らかに泳ぎ、声が内にこもった。
「それで?」
「けっこうかわいかった」
黒田はもじもじし始めた。なんでも知ってる黒田は、女には詳しくないらしい。こいつに話しかけても、女の子がどこにいるかとか、女子の可愛さランキングとかは聞けそうになかった。
ぼくの中で黒田は、エロゲの親友枠から、SF研の知識型オタクにジョブチェンジした。
◇
あの日から、ぼくの日常には一つだけ日課が増えた。
日課の名は、タイムトラベル。
この非日常に、あまりにすばやくなんなく適応してしまったので、自分でもあきれはてたくらいだった。現実はこんなもんなのかもしれない。タイムトラベルの他の実例なんて聞いたこともないので、ぼくがのんきすぎるのかどうか、何とも判断がつかなかった。
「おいすー」
「こんにちわぁ」
ぼくが自転車で近づくと、少女はぱっと花が咲いたようになる。その笑顔が見たくて、ぼくは毎日通ってしまう。
三九分。ぼくの十八時二十五分に小道があらわれてから、彼女の十六時五十分に列車が発車するまで、スマホで計って正味39分。それがぼくたちに与えられた時間だった。
少女とぼくはいくつも話をした。
少女は話し相手に飢えていたらしく、軽く相槌を打っているだけで情報がどんどん流入してきた。
ぼくは彼女が地元の国民学校高等科の生徒であることを知った。
彼女の校庭がいまやイモ畑であることも知った。
彼女の担当の先生、通称「無法松」の横暴についても知った。
同時に、彼女が話さないこともまた、なんとなく察せられた。
例えば、どうやら彼女がいじめられているらしいこと。
彼女は夕方の休憩時間に話し相手がいないのがつらくて、からかいの声をさけるために、ひとりっきりで駅の近くの広場で時間をつぶしていたようだった。
もちろん彼女は何も言わなかったけれど、現役高校生の嗅覚はごまかせない。彼女の追い立てられるようなしゃべり方や、ちょっと話に詰まったときに見せる不安そうな視線は、いじめられている生徒によくあるものだった。
ぼくはこれでも、けっこう勘がいいのだ。
「ねえ、昨日、柄走で空襲があったの、見た?」
少女が押し殺したような声で聞いた。
「見てない」
「私は見た。ね、だれにも言わない?」
「なに?」
「こんなこと言ったら罰当たりそうだけど、きれいだったあ」
「きれい?」
「周りはみんな夜なのに、柄走の上だけ真っ赤で夕方みたいだった。ごぉぉぉぉって音がして、あれはB‐29の音なのか、爆弾の音なのかよくわからなかったけど、お腹の底に響く音で……。父ちゃんと弟なんて屋根の上にあがってみてたよ」
「そうか。見れなくて残念だな」
「またあるかもしれないよ。そのときは見逃さないようにしないとね」
少女は慰めるように言った。
黒田情報を受け取っていたぼくはもちろん、二か月後の終戦まで、柄走がこの規模の空襲にさらされることはないと知っていた。
ぼくは想像しようとしてみた。あの小道の風景。夕焼けと夜のだんだら。毎日見ているあれは、空襲の風景なのかもしれないと思った。
彼女と同じ風景を共有していることが無性にうれしくてそのことを口に出したかったけれど、でも彼女にタイムトラベルについてしゃべって信じてもらえる自信はなくて、ぼくは半端に満足のうなり声をあげ、彼女に笑われた。
◇
ぼくは二か月間、自転車で戦時中に通った。終戦が近づくにつれて、電車のダイヤは無茶苦茶になり、食料は不足を深め、彼女のもんぺには泥汚れと接ぎ当てが増えた。
そんな中、ぼくはいちばん簡単なことをした。――何もしなかったのだ。
ぼくはその気になれば、食料や、布や、ガソリンを彼女に提供することができたかもしれない。空襲の被害を彼女に伝えることで、犠牲者を減らすことができたかもしれない。
こういうSFドラマでは、いつもそうだろう?
未来の情報や技術をフル活用して歴史を変えようとしたり、現代っ子が戦時中の苦労に放り込まれて当時の苦しみを味わい平和への志を新たにしたり、なにかしらそういうイベントをこなすものだ。
自衛隊がタイムスリップする映画や、毎年八月に放映するようなテレビドラマは、たいていそんな感じじゃないか。
でもぼくは何もしなかった。
ぼくには死なせたくない一九四五年の知り合いなんていなかったし、出所不明の物資を提供して彼女に怪しまれる危険を冒す気にはなれなかった。ぼくは結局、三食たっぷりとりながら、一日三十九分だけの少女との会話を楽しむことに徹した。
ぼくは冷酷な人間なのかもしれない、と自分で思った。
でも、こんなもんじゃないかとも思う。みんなもタイムスリップしたら、たいていはこういうところにおさまるんじゃないか?
彼女は、大空襲をきれいだといった。花火と同じあつかいだった。人間、自分と充分距離をとっている人々の苦しみなんて、だいたいこんなもんじゃないか?
きみはアフリカの飢えた子供たちのために、自分の家を寄付できるか?
ぼくたちが、他人の苦しみにどれだけ雄々しく耐えることができるか知ったら、君はきっと驚くだろう。
というわけで、ぼくはそんなあれやこれやをなんとなく受け入れていた。
このまま何事もなく過ごして、ある日突然小道が通じなくなって、ぼくは友人にもう会えないことをそれ相応に嘆きつつ、でも少しずつお互いの記憶から相手の存在がフェードアウトして行き、最後には適度に忘れてちょっと不思議な思い出になるのだろうと、漠然と考えていた。
そう思っていた。
その予想が大甘だったことに気づかされたのは、ぼくたちが出会ってから3か月後のことであった。
きっかけは彼女のひとことである。
彼女は何といったか?
こういったのだ。
「私、広島に行くことになったんだ」