第一話 信号機を横切って
その散歩道は、ぼくが物心ついたころにはもうあった。
幅三メートルくらいの、アスファルトがひび割れてところどころ土の覗く小道が、ずーっと伸びている。
ぼくの家がある盛名町から、高校のある広河市の中心部まで、地図にマジックペンで勢いよく引いた線のようにまっすぐ、ゆるやかにカーブしつつ延々と伸びていて、途中には公園やら休憩用の屋根付きベンチやら、地元の建築家の手になるという謎のモニュメントやらがてんてんとたっている。
その正確な全長はしらないけれど、端から端まで自転車で二時間弱くらいだった。ぼくは毎朝毎夕、学校指定のヘルメットをかぶり、学校指定のママチャリに乗ってその道をはしった。
この散歩道は歩行者と自転車専用で、学校指定の通学路だったのだ。
「じゃ、また明日」
「おう、また」
そういって、ぼくはいつもの場所で黒田と別れた。
黒田の自転車は車止めを器用にすりぬけて、自転車道と交差する一般道へとこぎだしていった。
これまた学校指定のだっせえ蛍光たすきが、たそがれどきのうす暗い中でほんのりと浮かびあがっていたが、それもすぐ植え込みにさえぎられて視界から消えた。
◇
ぼくの暮らす盛名郡は、静かでわりとすごしやすいところなのだが、いかんせんド田舎だ。電車がないのは当たり前、バスも町の補助金でようやく運航している赤字路線が一時間に一本くらいしかない。
だから高校に通うには、制服姿のガキでぎゅうぎゅう詰めのバスに一時間ゆられるか、この散歩道をきこきこと二時間はしるしかない。
ぼくは車酔いするたちということもあって自転車組だった。
高校に上がった当初はけっこう長い距離をはしる毎日の登下校が不安で、自転車通学している近所の高校生を軽くリスぺクトしていたりもしたけれど、友人と話しながらだらだら走るサイクリングは思いのほか楽しいということをぼくはほどなく知った。
黒田とは家が近く、小学校の頃から一緒で、高校に上がってからもその縁でつるんでいるのだが、それもこの四つ辻までで、彼の道はここで終点だった。
黒田の家はぼくの家より学校に近いところにあるので、一足早く自転車道からはずれるのだった。
話し相手の黒田がいなくなると、自転車道は途端にさびしげな本性をあらわにする。通行人の目を楽しませるような景観などもちろんない。左右の視界は植え込みで隠れているし、道が微妙にカーブしているので前後も同様。前を見れば、道があって、植え込みがあって、田んぼがある。さらにさきには山があって、夕日が身を沈めようとしている。
右を見ても左を見ても山がある。
盛名郡は山と山のすき間にへばりつくように形成された地域で、東西南北をもれなく山にかこまれている。
どこに行くにも峠越えをしなくてはいけない土地柄なのだった。
黒田と別れてからぼくの家まで、自転車で十五分くらい。
うす闇のなか、視線を山々に通せんぼされ、すれ違うひととてほとんどない。植え込みと田んぼをはさんで自転車道と並行にはしっている県道から、仕事を終えた人びとの運転する軽自動車の音が聞こえる。
ぼくはからだを左右に振って無心にペダルをこぐ。アスファルトのざらざらした地面をタイヤが噛む音が、ハンドルを通して直接、手のひらにひびく。
このうそ寒いような空気が、しかしぼくは決して嫌いではなかった。
ロアルト・ダールの小説に『単独飛行』というのがあって、夜間なにも見えないなか、ひとりぼっちで空を飛ぶ戦闘機乗りの話なのだが、この十五分の単独飛行はその名作のブラックユーモアまみれのあたたかさ、ねばり強さを思い出させて、ぼくを力づけた。なにか一日の終わりをしめくくる儀式のようですらあった。
気取ったいい方をするならば、それは魔法の時間だった。どのような荒唐無稽な不可能ごとでも、そのいっときのあいだならばたやすく実現すると思える瞬間が、日常にはたしかにある。
ぼくが体験したようなSFな出来事が、このようなシチュエーションのもとにおきたのは、ある意味でとてもふさわしいことだった気がする。
◇
その日、いつものようにひとりぼっちで自転車道をはしっていたぼくは、道ばたで妙なものを目にして、
「何だコレ」
と思わずつぶやいた。
ぼくは自転車を止めて、しばしそれに見とれた。
それは鉄道用の信号機であった。円い指示器が縦にみっつ並んでいる、黒くて煤けてでっかいやつが、道のわきにずでんとそびえたっていた。
「昨日までは」
無かったはずだ。
学校一注意深い男子とうぬぼれるつもりはないが、毎日ここを通っているのだ。
さすがに、こんなでかいモノがあれば気づく。げんに、否応なく視界にとびこむ信号機に、いまぼくは目を奪われている。
ぽかんと口をあけて信号機を見上げていた、その視線をなんとなく下にやると
――そこには小道が一本あった。
ぼくは自転車道の前後に目をこらして、自分の位置を確かめた。
見覚えのある看板が二枚、自転車道のわきに並んでいる。
ひとつは町役場の看板で、散歩中にもよおした犬のふんは飼い主が責任をもって始末するように訴えている。
もう一枚は警察署の看板で、バイク、原付、スクーター、その他、人力以外の動力をもつ乗り物でこの自転車道に乗り入れた場合、罰金がかせられると警告している。
どちらにも、いかにも役所の広報らしい、野暮ったいキャラクターが描かれている。
そのどちらの看板にも見覚えがある。
だからこそわかる。
昨日も、朝の登校時も、この二つの看板のあいだに脇道はなかった。
ぼくは信号機の下にある小道を観察した。小道は、幅三メートルもない、ごく普通の農間道に見えた。
両側面がごく短い土手になっていて、草が生え、そのさきには溝が掘られている。
いかなる舗装もされておらず、かといって田んぼのあぜ道の湿っぽい地質ともまた違うかんじで、砂のざらざらした地肌がむき出しであった。
学校の運動場を蕎麦の生地みたいに何枚か折り重ねてトントントンと細切りにしたらこうなるだろうな、とぼくはくだらないことを考えた。
ぼくは小道の先に目をこらした。小道には街灯一本たっておらず、みちゆきは闇に溶けて消えていた。
――この道の先にはなにがあるんだろう。
好奇心がぼくに耳打ちをした。
たいした手間でもない、いまからちょっと行って確かめてみようじゃないか。
ささやき戦術に屈してハンドルを小道の方に切ると、そのとたんに反対の耳から「よせよ」とふきこむものがあった。それは恐怖心と面倒くささのツープラトンであった。
そのふたつの勢力は、ぼくの胸のなかで押し合いへし合いした。
どちらが勝ったか?
勝ったのは好奇心であった。
◇
小道は真っ暗で、街灯はもちろん、ガードレールも、道のわきにある名前も知らない反射板もなかった。自転車のライトだけが頼りであった。
ライトは自家発電をする、自転車のタイヤが回っている間だけ点く方式のやつだったので、ぼくが大きくひとこぎするごとに明るさは強まったり弱まったりして、ぼくの影をゆらめかせ、ぼくの考えなしな勇気を一足ごとに削りとった。
水たまりの跡らしいでこぼこ道でバランスを崩さないよう、ぼくは両手でハンドルをしっかりと握りしめ、背筋をまっすぐ伸ばして漕いだ。
そのまま、一〇分くらいは漕いでいたと思う。
ぼくは一度足を止め、自転車の前かごから水筒を取り出してのどを潤し、何分自転車をこいでいたのか確かめたくてスマホをポケットから引っ張り出した。デジタル数字の時刻表示を確かめてから、この道に入ったときの正確な時刻を覚えていないことに気付き、ぼくは舌打ちをした。
自転車のハンドルにひじをついて体重を預ける。
ぼくはこの道について、本格的にいぶかしみはじめていた。
盛名町は狭い町である。自転車で一時間ちょっと走れば、町を横断できるのだ。自転車道の出口に近いこの辺りを一〇分も走っていれば、どこぞの県道やら見覚えのある建物やらに行き付くはずであった。
それなのに。
背筋が、ぞわりとした。立ち止まっているので自転車のライトはついていない。空には月と星が輝いているので自分の手先くらいは見えるが、そのさきは夜の海のような黒い空間が延々と続いている。
ぼくはそれを無限だと思った。限りない闇の真ん中に、ぼくは迷い込んでしまい、そしてニ度とこの空間を出ることはかなわないのではないかと恐れた。
背後に不気味な視線を感じた気がさきほどからずっとしていて、でも思い切って振り返るには恐ろしすぎたので、ぼくはもう一度水を飲んでごまかした。
もうこのまま帰ってしまおう、そう思った。勇気を振り絞り、なんなら目をつぶって自転車を切り返し、通いなれた自転車道に帰ろう。そう思った。
そう思ったときだった。
ぼくが、前方の夕方にとつぜん気付いたのは。
寒天ゼリーの素を二種類使ってよく混ぜ合わせずに固めると、混ざりきらなくてだんだら模様のゼリーができたりする。前方の空を見たときぼくの心に浮かんだのは、そんなどうでもいい体験だった。
道の先は、夜と夕のだんだらであった。
ぼくは直観にみちびかれるまま、再び自転車を駆って道を進んだ。ひと漕ぎごとに、それは確信に変わっていった。
道を進むにつれて、世界は徐々に明るくなっていった。
山のなかに戻って行ったはずのカラスがUターンしてきて、夕方の鳴き声をたて始めた。
山に沈んだ夕日が、風呂からあがるみたいに西の山からせり上がって、ぼくたちの狭い町を照らしていた。
世界は劇的につけひげをむしり取り、もうひとつの顔をあらわしたのだ。
そこについたとき、ぼくはまぎれもない夕刻の日に照らされていた。
◇
そこは空き地であった。生垣で区切られていて、広さはちょっとした公園くらいだが、手入れは行き届いていなかった。
生垣は伸び放題で、地面は草ぼうぼうに荒れていて、足元は砂利っぽくてざらざらした。子供を遊ばせると転んでひざをすりむきそうだと思った。
空き地には人っ子一人いなかった。沈む寸前の太陽のななめの光のなかで、その寂しさはいっそうきわだった。
そんなわびしい空間の真ん中に、大きな木が一本立っている。栗の木であった。見覚えのあるとげとげした殻が、根本にいくつも散らばっていた。
ぼくは自転車を手で押しながら、不思議な夕方の不思議な栗の木を眺めた。
美しいと思った。
たくましいと思った。
高さはさほどでもないが、幹が太い。大人の男ふたりがかりであっても、両手をまわすのは難しそうだった。樹齢は何年くらいなのだろう。見当もつかなかった。ぼくは樹木にかんして、たいした知識を持っていなかった。
にわかにすがすがしい心地になった。のんびりした夕方の光と影がぼくを包み込んだ。この空間の不思議さが作用して、ぼくの心は警戒心を削りとるハッキングを受けたように広々とした。
「大きな栗の木の下で」
なんとなく鼻歌がもれた。歌ったあとで恥ずかしくなって、周りにだれもいないことをこっそり確かめた。
そのとき初めて気づいた。
栗の木の陰に、人影があった。
それは少女であった。
ぼくの目は少女の格好にひきつけられて、しげしげと眺めた。少女は妙に見覚えのある野良着みたいなものを着ていた。なぜ見覚えがあるのか、一瞬あとに気付いて、
「もんぺ?」
とぼくはつぶやいた。
それは教科書に載っている、戦時中の女性の格好だった。




