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ハイブリッド・ドラゴン

作者: イトー

 サナギって旨そうだよな、と思った。

 サナギというのは蝶やら蛾やらが作るあのサナギだ。外はカリッとして中はジューシー、TVを見て寝そべりながら食すがよろしい。サナギスナックと銘打って各地のコンビニエンスストアで売り出すのはどうか。

 水槽の中のサナギを観察しながらそんなことを言ったら、こんな答えが返ってきた。


「実験が終わったら好きなだけ食べていいですよ」


 生意気な言葉を浴びせかけてきた男は、私と並んで水槽を眺めながら手持ち部沙汰に白衣の襟元をいじっている。伸びるに任せた蓬髪と眼鏡の奥の淀んだ瞳が、この男の湿った雑巾のような陰険さをよく現わしている。私より年下とはいえ二十代半ばは過ぎているはずだが若く見えた。


「私は欠食児童か。ここ何日もずっとサナギばかり観察し続けていれば誰だって妙な発想くらい生まれるだろう」


 直立した木の枝に張り付いたサナギを見ていると、その色合いがクロワッサンに似ていることに気づいた。抱えるほど大きくて、なかなか食いでがありそうだ。

 そのとき腐葉土を敷き詰められた水槽の中でサナギが僅かに揺れた。二人してアホな会話をやめて、水槽にキスをせんばかりの勢いで身を乗り出した。 

 サナギに入った切れ目は楊枝で引っかいたような、ごく小さなものだった。そこから鋭利な爪が飛び出すと、緩慢にサナギを切り開いていく。溢れた透明な粘液に遅れて現れたのは小柄なイグアナくらいの爬虫類だった。全身がぬらぬらとした液体に覆われている。


「おお、孵ったぞ。ちょっと見ないうちに大きくなったな。最初なんてこんなイモリくらいだったのに」

「孫を迎えた爺さんですか……? そもそもそうなるように遺伝子を操作してるんですから当然ですよ。全長十三メートルが目標なんですから、一メートルくらいで喜んでちゃ最後にはリアクションのネタが切れますよ」


 益体ない話の間にもおのおのが自分の仕事をした。彼がパソコンで監視カメラからのサーモグラフなど様々な映像情報を確認するよそで、私は「照明・日向ぼっこ用」とラベリングされたスイッチを入れた。四○ワットのミニレフ球が点灯し、柔らかい白光を浴びて気持ちよさそうにイグアナ似の爬虫類が目を細めた。後は放っておけば勝手に身体を乾かして、サナギの間に溜まった老廃物を全て排泄するだろう。


「後でちゃんと餌のコオロギあげてくださいよ」

「分かってるって。今回は何の遺伝子を入れたんだっけ、グリーンイグアナか?」

「いやそれ思い切り草食性でしょう、グリーンとか言っちゃってるし。インドシナーウォータードラゴンですよ、こいつは動物食性なんです」

「へえ、イグアナよりはそっちの方が良さそうだな。だって、名前がドラゴンだろ」


 はぁ、と気のない返事が戻ってくる。

 私は爬虫類の頭頂部から尾の先にかけて発達した、クレストと呼ばれるノコギリ状の鱗を眺めた。

 私たちが作ろうとしているものもドラゴンだ。火を吹き空を飛び、光り物を収集するあのドラゴンである。


 私がこの動物実験に手を貸しているのには理由がある。


 発端はこのD国とある連合の間で起こった戦争だった。国力ではるかに劣っているD国が連合の相手になるはずもないという意見が主流であり、概ね私も同意だった。

〈ドラゴン〉を作ってくれ、と言って私が見せられたのは一匹のトカゲだった。ただのトカゲではない、森林の奥地で発見されたというそのトカゲはサナギになることで自らの身体を急激に作り替えることができた。彼らはそこで更にrDNA技術を利用することを考え付いたのだ。

 戦争とドラゴンの二つが結びつかない私に、私を面接した男は自嘲を唇に湛えてこう言った。


「我がD国はドラゴン信仰ですからね。上のお方が兵士の士気向上や民衆へのプロパガンダにドラゴンを使うつもりみたいですよ。立てよ臣民、神は我らが味方についた、といった風に。後はまあ、単純な科学競争の面もありますか。ソ連と米国のソレみたいなものですよ」


 複雑そうな事情に鼻白んでしまう。

 だが事は遺伝子を操り、ただの爬虫類を竜に昇華させようという試みだ。言うなれば特殊効果に頼らない特撮だ。そうだUMAだ怪獣だと自らを鼓舞すると、大分やる気が沸いてきた。

 世界をジグソーパズルに例えたら、さながら私はその操り手だろう。私は子供のように胸が躍るのを感じながら、書類にサインをした。

 採用通知が届いた後、面接官に会う機会があったのでどうして私を選んだのかを尋ねたことがある。狐みたいに狡猾そうな笑みで、彼はこう答えた。


「あなたは少々特殊な経歴をお持ちのようだったので」


 最初は何かの皮肉かと思った。私はいわゆる三流大学の出身だった。

 二週間後、地下深くの実験室に連れてこられた私は同僚になるという男と二人並んで姿勢を正した。将官の階級を示す赤色の軍服に身を包んだ中年男性から拝聴した『実験』の到達目標は以下のようなものだった。

 曰く、《全長一三メートル、体重は問わない。動物食性であることが望ましい》。そして、《火炎を吐き翼で空を飛ぶ、伝承に近い姿形であること》だ。


 蛍光灯の光で埋め尽くされた通路を歩き、何層もの殺菌室を通る。それだけしてようやく我々二人しか来ることのないモニター室に辿りつくことができる。

 私は白衣の袖を正しながら、もはや水槽と呼ぶには大きくなりすぎた飼育空間に目をやった。アクリル板で仕切られた向こうは密林の一部分を切り取ったようだった。サナギトカゲはあれから度重なる蛹化を繰り返し、今やコモドドラゴンに迫りそうな巨躯を土の上に横たわらせていた。これほどまでの変貌を遂げるまで何と二か月経っていない。


「なかなか順調じゃないか。もうこんなに大きくなって。餌も冷凍マウスじゃおっつかなくなりそうだな」

「順調だなんてとんでもない!」


 声は白い部屋の隅からした。実験のパートナーである眼鏡の男がパソコンを操作していた手を止めた。胸に差したボールペンを指でもてあそびながら、


「rDNA技術の手法は知ってますよね」

「ああ、なんかこいつがサナギになるたびマイクロシリンジで何か注入してるやつだろ。あれだろ、DNAとかゲノムとかそういうのだろ。すごいよな」


 我ながらTVで知識を得た親父のごとき適当な発言だと思った。もっと何か頭の良さそうな言い方がある気もしたが、私の知識ではこれが限界だった。

 部屋隅のフリーザーから一キロ少々の冷凍マウスの入った袋を引きずり出す。それからその隣に設置された簡易キッチンを使って湯を沸かす準備をした。


「あれはベクターと呼ばれるビールスや細菌の一種を使って、特定の遺伝子をトカゲのもとまで運搬させてるんです」


 ヒトの細胞にもぐりこんだビールスが、ビールスを増産する遺伝子を押し付けて自らを量産する理屈か。そういえば奴らは遺伝子交換が得意だと聞いたことがある。


「それで蛹化中のトカゲに無理やり遺伝子を渡して、トカゲの環境適応に干渉してるんですよ」

「お前物知りだなあ」


 私は素直に感心した。鍋の中の水が沸騰したので、そこに数キロ分の冷凍マウスを数回に分けてぶち込んだ。億劫な作業だが、以前に横着して電子レンジで解凍したら、爆発したマウスの中身がレンジ内部に飛び散って大ひんしゅくを買ったので仕方ない。

 彼の大きな溜息が白い床に落ちた。


「むしろどうしてこの実験に参加できたんですか、あなた」

「生物学の学位は持ってるから最低条件はクリアしてるぞ」


 ただ、真面目に勉学に励んでいたかというとかなり怪しい。私の大学生活を簡潔に称するならば、それはいかに講義に出ないで単位を取得するかという戦いだった。


「結構大変だったんだぞ。入念な事前調査の上でできる限り単位取得が容易な講義を受けたり、恩を売った友人たちに代返してもらったりカンニングさせてもらったり。コネで就職したから、就職活動もしなかったなあ」

「有意義なのか無為なのかよく分からない大学生活ですね」


 それには同意するが、他人に言われるのは腹が立つ。

 私は解凍し終えたマウスから順次タオルで水気を拭き取りながら、


「それだけ私を馬鹿にするのなら、お前はさぞ有意義な大学生活だったんだろうな」


 すると彼は鼻を鳴らして白衣の襟を直した。


「そうですね。自慢じゃありませんが僕の出身大学は、」


 彼が口にした大学名は世界のあまねく人々が子供から老人まで知っているだろう超有名大学のものだった。


「ついでに言うと首席でした。何でも創立以来初めての優秀成績だったそうなんですが、大したことじゃないですね」


 心底馬鹿にする顔で私を見下ろしてくる。「ところであなたの出身大学は?」と尋ねられたが私は呻くだけで言葉にならなかった。


「僕はあなたみたいな適当に学位を取って、適当な中学で教鞭を取ってるような中途半端な学者とは違うんですよ。僕の学生生活はそれはもう一に研究、二に研究、三から百まで研究でした。両親から親戚まで学者な家系でしたからね、ぼくも小学生の頃から有名大学に入って世界でも有名な学者になることが人生の目的でした。小学校の時の蟻の観察から始まって、寝る間も惜しんで研究を続けてきたおかげで、今では特許で暮らせるほどの学者になったんです」

「……。研究に対する興味とか情熱とかは?」

「そんなんあるはずないでしょう、重要なのは有名学者という立場なんですよ。

 以前『皆で事を成し遂げたい』って言って共同研究を持ちかけてきた奴がいましたけどあんなの僕から言わせればただのアホなロマン主義ですね。札束で頬を叩いて追い返してやりました。

 本当ならこの実験だって僕一人で充分だったんです。今までだって実験用のウサギだけが僕の話し相手だったんですから。血清採取用のヘビに食べられたけど」

「暗い人生送ってるなあ、お前」

「他人を利用してしか生きられないあなたよりマシです」


 分が悪くなってきたので動かないマウスの白い毛並みを手の中でいじりながら「何の話だったっけ」と話題を変えた。彼は鼻を鳴らして、


「とにかく他の動物から特定の遺伝子を抜きだすことは簡単なんです。でも、それがトカゲのどの部分に組み込まれて、どんな発現をするかは運任せなんですよ。今はツキが来てるだけです」


 よく分からないが大変だなあと思った。

 どうせ私は生物学の見識を見込まれて採用されたわけではない。私を面接した男の意地悪そうな笑みを、私はこの他人と協調する気がない慇懃無礼な科学者を学生時代の要領でうまく扱えという意味だと解している。


「このまま目標の十三メートルまで巨大化させるのか?」

「いえ。脚部が這いずり型のままだといずれ自重を支えられなくなるので、そろそろ直立型に変えていきます」


 考えてみればかつて隆盛を誇ったという恐竜もほとんどが直立に適した脚部を有している。なるほど、道理だ。

 拭き終わったマウスを袋に詰め直し、小走りで飼育スペースとモニター室を隔てた扉の前に立つ。暗証番号パネルを操作すると分厚い鉄扉のロックが解錠されたことを電子音声が告げた。

 重い鉄扉を押しあけると、鼻孔の奥いっぱいに土と草の混じった臭いが侵入した。体育館くらいの広さのある飼育スペースに踏み出すと、今まで呆けていたサナギトカゲが露骨に私を警戒し始めた。大きな体躯の割にこいつはとにかく臆病だ。

 首をすくめてじりじりと後退るトカゲから、少し距離を置いたところで立ち止まる。長めのトングでマウスをトカゲの口元に寄せるが、なかなか口をつけようとしない。

 仕方なくマウスの腹をトングに引っかけて割いた。生温かい血液が指にかかる。出てきた内臓を舐めさせたらようやく餌だと認識してくれたらしく、トカゲは赤い舌でひったくるように餌を丸飲みにした。

 これを一キロ分繰り返さなければいけないのだから給餌作業は非常に面倒だった。それでも段々と慣れさせていくにつれて、私が給餌に現れると少しずつ警戒の色を残しつつもあちらから出迎えてくれるようになった。

 遠巻きにこちらを眺める姿は変わらなかったが、比較的積極的に餌を口に運んでくれるだけマシと言えた。


「実験の手間が省けることは良いことだ」


 次のマウスをトングに挟みながら、私は呟いた。


 実験開始から三カ月が経った。

 同僚の懸念とは裏腹に、サナギトカゲは順調にサナギになってはその体躯を一回り、また一回りと大きくしていった。今では平均的なワニ類にも引けを取らないだろう。

 牙もナイフのように薄く殺傷能力の高いものに変わり、脚部も以前のような腕立て伏せのようなものではなく四足が真っすぐに伸びた、哺乳類に近いものになった。私たちが目指す〈ドラゴン〉の容貌にいささかながら近づいたように思える。

 透明な板の向こうではトカゲが走り回っている。

 自分以外動くもののいない人工の密林に閉じ込められているせいでストレスが溜まるのか、最近こいつは狂乱したように駆けずり回ることが多くなった。


「やかましくてかなわないですね。防音にしてくれればよかったのに」


 直立した四足歩行の爬虫類が軽快に走っている光景は控えめに言っても、不気味だ。私はあまりそちらを見ないようにして自分で持ち込んだ小型TVの画面に集中した。昼食休みの時間はただでさえ長くはないのだ。


「何でいらないって言ってるのにいつも弁当にキノコの煮物が入るんですかね。菌の塊ですよ。発酵食品でもないのにこんなの食べるなんて正気じゃないですよ」

「じゃあ牛肉でも焼こうか」


 さらりと言ってのけた私に、彼の淀んだ目が大きく見開かれた。広いだけで無味乾燥な室内を見回してから、


「……そんな気の利いたものありましたっけ」

「あそこに」


 部屋の隅に設置されたフリーザーを指差した。二メートルほどの大きさの箱の中には大量の牛肉ブロックが常備されている。彼はしばらく押し黙ってから一言、


「サイコロステーキ……?」


 ただし一塊二キロの、と私は小声で付け加える。

 結局、プラ製のフォークで押し付けてくるキノコをしぶしぶ弁当の蓋で受け取った。決して愉快ではないが、彼の機嫌を損ねて実験が滞れば上から文句を言われるのは私だ。

 気を取り直して画面に向き直った。ブラウン管の中で暴れる怪獣たちの咆哮や破壊光線に熱中していると、ふと天啓が頭上に舞い降りた。


「おい、思ったんだが角を付けるのはどうだろう。鼻の先あたりがいいと思うんだ」

「映画の観過ぎです。それはそうとボリューム絞ってくれませんか?」

「聞けよ、割と本気だぞ。見た目がよりドラゴンっぽい方がクライアントには好まれるだろう」

「そりゃ必要ならやりますが、どう考えてもそれあなたの趣味が入ってるじゃないですか」


 ぐうの音も出ない。だが我ながら驚くべき粘り強さだと言えた。


「いや、でも獣の世界は見た目がりりしいほど生殖活動が有利になるはずだというし」

「こいつにはもうとっくに生殖機能なんてないですよ。どれだけ遺伝子をいじくり回したと思ってるんですか。


 それに生活に必要ないものは定着しても退化して消滅する可能性が高いですし、あんまり遺伝子操作を繰り返すと遺伝子異常の危険は増える上に、サナギトカゲにも相応の負担がかかります。今だって定期的にクーリング期間を設けてるんですから」


「いいじゃないか。どうせ死ぬわけじゃないし、スペアだってあるんだから」


 万一のときに備え、サナギトカゲはもう一匹メスの個体が別の場所で飼育されている。当然遺伝子操作も行なっていないため形態は小さなトカゲのままだ。

 私の熱い主張に反して彼は冷ややかだった。


「じゃあ本音言いますよ。嫌ですよ、面倒くさい」


 その時、バットで壁を思い切り叩いたような大音声が背後で轟いた。「ひっ」というか細い悲鳴が隣の男から漏れた。

 それきり室内は静かになった。気づけばばたばたと奔走していた騒々しい足音も聞こえない。


「何だ……?」


 恐る恐る振り返った先で、つぶらな瞳と目が合った。

 巨躯の表面に青みがかった苔色の鱗を持つサナギトカゲがいた。ワニ似の爬虫類が真っ直ぐ伸びた四足で立つ様子はかなり不自然で、どこかフィクションじみている。トカゲは凶悪な牙をはみ出させた縦長の顔をアクリル板に押し付けて、何故かこちらを凝視していた。

 ……獲物として見られている気がしてどうにも居心地が悪い。私はつい後退ったが、後方不注意だった。はずみで私の尻が白いテーブルにぶつかり、テーブル上の小型TVが落っこちたのだ。

 大きな音に驚いたようにトカゲの巨体がぎくりと震えたが、目だけは床上のTV画面に向けられている。


「映画が気になって来たんじゃないですか、もしかして」

「まさか。所詮爬虫類だぞ」

「ワニは人の顔も判別しますよ。巨大化に伴って知性も向上しているんですからこの程度は不思議じゃないでしょう」


 おかしな話だが、私はそう言われて爬虫類にも知性が存在することを再認した。爬虫類に限らず、全ての実験動物に対して私は奴らが「生き物」であることを久しく忘れていた。


「もしそれが本当だとしたら、なかなか理解のある奴だ」


 その日以来、トカゲのストレス解消のため(という口実で)定期的に怪獣モノのDVDの上映がスケジュールに追加された。サナギトカゲの興味は動画ではなく、同時に聞こえる音楽の方に向けられていると知ってからは、私が持ち込んだCDプレイヤーで映画のサウンドトラックやクラシック音楽がBGMに流された。

 彼はその時間が来るたびうっとうしそうに顔を歪めるが、たまに首でリズムを取っていることを私は知っている。

 今度は映画『ドラゴンズ・ワールド』のサントラをかけようと思っている。


 順風満帆に思えたトカゲの改造実験だったが、体長が一○メートルを超えたあたりでとうとう行き詰まりを見せた。

 いや、その表現は正しくない。行き詰まりの予感は実験当初から存在した。


「畜生、畜生っ。この計算でも駄目なのか。諦めないぞ、どんな巨体だって僕が飛ばしてやるっ」


 ぼさぼさの髪を両手でかきまわして、甲高い声と共に机の上に積まれた書類をあたりに撒き散らす。この男がここまで荒れる場面には初めて出くわしたので、私はおろおろとするばかりだった。

 巨大なトカゲを空へ飛ばすためにできることはほとんどやった。鳥類の遺伝子を注入するうちにサナギトカゲの太い前肢は薄い膜を張った翼に変じ、骨格は猛禽類のように中央部に空洞のある非常に軽いものになり、心臓は肥大化した。

 そのおかげでトカゲは助走をつけた上で羽ばたきも合わせて跳躍すればかなりの滞空時間を確保できるようになっていた。グライダー的な滑空は断崖の向こう(これも人工的なものだ)の餌を取りに行くために活用されたが、所詮は飛行とはかけ離れたものだった。

 鳥類が飛ぶことができるのは極限まで体重という重りを減らし、飛ぶために必要とする莫大なエネルギーを少しでも少なくしているからだ。当然それは体が大きくなればなるほど困難になる。

 彼の苛立ちの原因に、珍しく上の方から実験の進捗をせっつかれていたこともあっただろう。他人から強制されることを彼は何より嫌った。


 しかし時間が経つにつれ、上からの催促は頻度を増した。

 ここのところ私たちは満足に寝られた試しがない。彼の情緒も一時期に比べれば大分おとなしくなったが、上からのプレッシャーは途絶えることがなかった。以前のように益体のない会話をすることも少なくなった。


「どうも戦況が厳しくなってるみたいだな。ここの物資もかなり無理して回してもらってるみたいだぞ」


 適当に淹れたせいか見た目はインスタントコーヒーのそれだが味がしない。色のついた湯を飲んでいる気分だったが、水分さえ取れれば味は正直どうでも良かった。彼の方も特に気にせずマグカップを口に運んでいる。


「そんなこと知ったこっちゃないですよ。ドラゴンさえ作れればいいです。僕、D国民じゃありませんし」

「俺だって違うよ。そもそも外のD国民の人たちはD国が敗色濃厚だってこと自体知らないんじゃないか」


 透明な板の向こうでは何度目になるか分からないサナギの孵化が終わったところだった。溺れそうなほどの粘液溜まりに半身を浸したトカゲの胸筋は、以前よりも更に肥大して盛り上がっていた。


「まるで鳩胸だな。いや、竜胸と称すべきかな」

「何でもいいですよ。今回の眼目はそれじゃないですし」


 そう言うと鉄扉の電子ロックを解錠し、軽い足取りで飼育スペースに入ってしまう。強化アクリル層板越しに手招きを受けて私も続く。

 灌木、喬木問わず様々な草木が茂る巨大水槽の中は石清水のような清涼な大気に満ちていた。やや肌寒いのは、トカゲが飛行に消費する莫大なエネルギーを生み出すために必要なだけ新陳代謝を高めさせる下地だというが、詳しいことは知らない。

 彼が呼びかけると巨体の注意がこちらに向いた。丸太めいた四肢それぞれが直立しているせいで見下ろされる形になる。こいつがその気になれば圧し掛かられるだけで私は即死するだろう。象以上の重量感と巨大な爬虫類という異質感を前に息を呑んで立ちつくしていると、「びびってないで、こっち来てくださいよ」と呆れられた。

 彼がまだ粘液で濡れた口に扉を開くように手をかけると、その意志を汲み取ったトカゲが大きく口を開く。鋭い牙が揃った口内から肉が腐ったような臭気が漂ってきて、私は思わずのけぞった。

 悶絶する私をよそに、彼はグロテスクな喉の奥をペンライトで照らし目をすがめる。


「あった。見てください」


 虫歯でもあったのかなと鼻をつまみながら黄色い乱杭歯を眺めていると、後ろから頭をはたかれた。首から上が口内の生温かい空気に包まれて、悲鳴が喉の奥でくぐもった。慌てて首を引っこ抜く。


「俺を挽き肉にするつもりか!」

「映画の観過ぎです。牙に触らなきゃ大丈夫ですよ、こいつ怖がりだから大きい生き物は襲いませんし」

「触ったらどうなるんだ?」

「挽き肉になります」平然と言った。「歯じゃなくて喉の奥を見てください。口蓋弁が見えるでしょう?」


 口蓋弁なら知っている。ワニの仲間が持つ、水場で呼吸をしても弁のおかげで水が逆流することがないという仕組みだ。ただ、私は一向に暗い喉からその弁を見つけることができないでいた。


「そんな恐る恐るじゃなくてもっと喉奥まで顔を近づけてくださいよ」

「やめ、やめろ。頭を押すな、泣くぞ泣いちゃうぞ」


 疲れた顎が落っこちてきては敵わない。口蓋弁はあったということにして一歩二歩とトカゲから離れた。


「その弁がどうかしたのか。まさか今更こいつを水棲にするわけじゃなかろうな」

「まさか。考えてみてくださいよ、もしあなたが口から火を吹いたらどうなると思いますか?」

「マスコミとかから取材されて一躍時の人じゃないかな」

「すみません、僕の訊き方かあなたの頭のどちらかが悪かったです。つまりですね、そもそも生き物が口から火なんて吹いたら逆流した火に肺が焼かれる危険があるんですよ」

「なるほど、火傷しないための口蓋弁というわけだ。でも、どうやって火を吹かせるんだ? 自然界で口から火を吹く生物なんていないだろう」


 彼は眼鏡の位置をそっと直すだけで答えなかった。重ねて問おうかと思ったが、眉間に刻まれた深い皺を見てやめた。いまだに実験は飛行の目途すら立っていないのだ。

 後に本部へ送付する資料を封筒に詰める前に確認すると、細かい文字で生き物がどうすれば火炎を吐くことができるかに関する考察の記述を見つけた。

 その多くは私の頭で理解することは困難だったが、かろうじて判明した限りではどうも彼は火炎ではなく引火性の高い液体を体内に貯蔵し、火打石の要領で吐きだす瞬間着火するという可能性を模索しているようだった。

 我々の懊悩に構わず、巨大トカゲは地面に転がっていたかんらん岩を氷でも食べるように口の奥の臼歯ですり潰していた。ワニ類は消化の助けのため石を飲み込むというから、この行動もその類だろう。


「お前はのんきでいいな」とアクリル板越しに私は愚痴った。


 睡眠時間は日に日に削られ、私たちは次第に追い込まれていった。

 彼は一日の大半を別室の実験施設にこもるようになり、私はトカゲのどんな小さな変化も見逃すまいと目を皿のようにして、いくつもの画面が並んだ監視モニターに視線を縫いつけた。

 早朝、落ちようとする瞼を懸命に支えながらモニター室に入った私は違和感を覚えた。複眼のように並んだモニターのうちの一つにはとうとう十一メートルを超えたトカゲの巨躯が映っている。私の気配を感じて人工洞窟の奥からモニター室側に寄って来ているようだったが、歩き方が妙だ。猛禽類のようにしなやかな後ろ脚を引きずっている。


 眠気が覚めた。


「あれ、どうしたんですか。何か騒々しいですね」


 白衣を着崩してやってきた彼の言う通り、いつもは私たち二人しかいない白い部屋には大勢のスタッフが右へ左へ走り回っていた。

 ここと透明な板一枚を隔てた人工の森では大型車両くらいなら容易に収容できる無菌テントが広げられてる。白いテントの中に横たわるドラゴンもどきとそれを囲むスタッフたちが、照明を受けて影絵のようにテントに映し出されていた。

 私は声が震えないよう慎重に告げた。


「トカゲが骨折した」

「こっ」と手で口を覆ったきり硬直してしまう。


 彼のここまで動揺した姿は初めて見るが、悠長に観察しているほどの余裕はなかった。私はあらかじめ用意しておいた台詞を機械的に口にした。


「左大腿骨がぽっきり折れていたそうだ。どうも軽量化されすぎた骨が急増した自重に耐えきれなくなったらしい」


 予期できた事態だった。その危険に気づき、対策を練らなかったのは私たちの失態だ。

 サナギトカゲは尋常ではなく環境適応能力に秀でた種だが、それだって本来ならばこんな極端かつ性急な変化はしない。DNAの注入による生態変化の操作はとてもいびつなものだと、私たちは熟知していたはずなのに。


「僕たちの遺伝子操作がトカゲの脚を折ったんですか」


 沈痛な静謐が私たちの間に落ちた。

 お互い何を言うでもなくじっとつま先を見つめていると、空色の手術着を身に付けた医療スタッフが走り寄ってきた。長い髪をポニーテールにまとめた若い女性で、鼻から下を覆ったマスクのせいで表情は分からなかった。


「治療処置完了しました。骨折箇所をボルトで固定した後プレートを挿入したので、後で患部を確認して頂けますか。それと極端に落とされた水槽内の温度なんですけど、サナギトカゲの療養中だけでも常温にしておくことはできませんか。代謝機能が落ちていて、危険な状態なんです」


 つい入口付近の壁に埋め込まれた空調の操作パネルに目をやった。次に私と同じ白衣を纏った同僚に視線を移す。


「それはできません」


 彼は迷わなかった。


「あなたもこの計画の最終目標は知ってるでしょう。火吹きと、飛行です。

 生物が空を飛ぶためには僕たちが想像する以上のエネルギーを必要とします。生き物は基本的に身体が温かければそれだけ運動能力を発揮しやすいものですが、爬虫類などの冷血動物はそれが叶いません。

 ですが少しずつ低温に慣らしていき、かつ高い運動量を要求する環境を維持すれば、このトカゲの適応能力ならばあるいは温血動物並みの産熱能力を獲得できるかもしれないんです。

 実際、冷血動物にも関わらず高い運動能力を有するマグロやサメに見られる〝奇網〟に似た組織が生まれつつあります。

 しかし今飼育環境を元に戻したら全ては元の木阿弥です。最初からやり直しです」


 立て板に水を流すように並び立てられた言葉はほとんど私の頭に入ることはなかったが、彼の意図は理解できた。

 まずトカゲが空を舞うドラゴンになるためには危険を承知で今の低温環境を維持しなければいけないということ。

 そして私たちにはもう時間がないということだ。


 経過観察のため医療スタッフたちはモニター室に残りたがったが、それは私が口八丁を縦横無尽に躍らせてご遠慮頂いた。室内に私たち以外の人間の気配があるとトカゲが怯えてしまうためだ。

 おかげでただでさえ足りない睡眠時間を削って、私たちは二時間交代で夜通しの看病にあたっていた。身体を丸めて寝ているトカゲはほとんど動かないのでモニターによる観察も容易だったが、動きが少ないせいで気を抜くと瞼が落ちそうになる。

 せめてもっと刺激的な画面なら気も紛れそうなのに、と思う。伏したトカゲの背景で爆炎などの特殊効果がふんだんに使われるとか。それはもはや看病ではないか。

 そんな取りとめのない妄想をしていたせいで、危うく見逃すところだった。

 一瞬、画質の悪い画面の端に赤い光が映った気がした。


 気のせいか?

 いつの間にかトカゲは身体を起こしていた。やはり右後ろ脚を引きずっている。いくつものボルトが打ち込まれ、ワイヤーで縫合された痕が痛々しい。低温の環境がトカゲに負担を与えているのか、どこか動きが鈍い気がした。

 モニターばかり見ていたせいで目が疲れてきて、私は眉根を強くもんだ。再び目を開けたとき、信じられない光景が視界に飛び込んだ。


「何ですか? まだ交代時間まで三十分以上あるじゃないですか」

「いいから来い。眠気なんて吹き飛ぶぞ」


 おぼつかない足取りの彼の手を強引に引いて狭い通路を抜ける。白いドアを開けモニター室に入った彼の顔を両手で掴み、無理やりたくさん並んだモニターへと向けさせた。

 睡眠欲に支配された顔が水面のような画面に反射している。やがて瞼に圧し掛かった睡魔が徐々に蒸発していくように、大きく見開かれた瞳に爛々とした光が灯った。


「何事ですか、これ」


 小さなモニターには地面の上で丸くなって寝るサナギトカゲの姿が映っている。大きな翼は畳まれていた。その傍らで赤く光る揺らめきがトカゲを暖めていた。


「火だよ、信じられるか。折れた木の枝や枯れ葉を前肢で集めて、そこに火を吹いて点けたんだ。ご丁寧に周囲に燃え広がらないような場所を選んでる」


 私は抑えきれない興奮が心臓からこんこんと沸き出るのを自覚した。声が弾みすぎるのを堪えるのに苦労した。

 飼育スペース内に夜間用の照明を点け、電子ロックを抜けてトカゲの元へと二人で走った。

 薄闇の中で一際目立つたき火の明かりが私たちを迎えた。ぱちぱちと火が爆ぜている。トカゲは私たちの姿を認めると大きい顎を少しだけもたげたが、脚が痛むせいかいつものように立ち上がりはしなかった。


「口開けて。早く」


 彼に似合わない乱暴さで無理やり口をこじ開けると、大胆にも凶悪な形をした口内に上半身を突っ込んだ。何て怖いもの知らずな奴だ。


「あなたもペンライト持ってるでしょう。ちょっと照らしてください」


 恐る恐る肘から先を顎に突っ込み、ペンライトで彼の手元を照射する。火炎の余熱が残った口内は熱かった。

 彼は注射器に似た気体採取機を口の中から引き抜くと、「気体の組成を調べてきます」と言ってその場を離れた。

 トカゲの巨体の隣でたき火に当たっていると、さほど時間を置かずに彼が戻ってきた。

 肩をがっしと掴まれる。熱に浮かされたように彼は一気にまくしたてた。


「水素です。それと少量のメタン。他にそのあたりの岩から摂取したと思しき、自然白金――つまりプラチナを含んだ鉱物が口の奥の臼歯に付着していました。この二つが合わさるとどうなるか、」


 ぽかんと大口を開けた私を見るなり、彼の興奮は瞬く間にしぼんでいった。肩から離した手を白衣で拭きながら、


「まあ。知らないでしょうね……」

「よく分かってるじゃないか。さあ教えろ」


 私は開き直った。


「偉そうに……。まあ要するに、それらの気体に触媒となるプラチナが合わさると発火するんですよ」


 突然背中をぐいぐいと大きいものに押されて危うく転びかけた。何とか踏みとどまって振り返ると、ワニに似た巨大な頭が私を見下ろしていた。上機嫌な雰囲気を察知するとこいつは仲間に入れてほしいとばかりに割って入ってくることがある。

 なおも私の胸に擦りついてくる巨大爬虫類の鼻に私は渾身の力で抗したが、人の力では如何ともしがたかった。もっともこいつが本気になれば鼻の一突きで私の内臓は桃色のペーストになるだろう。これでも手加減されているのだ。


「ええいうっとうしい、息が水素臭いから離れろ」

「恐らくこいつは魚の浮き袋のようなものを持ってます。腸内で発生するガスを他の生き物のように外へ排出せずに、その嚢中に溜めこんでるんでしょう」

「するとどうなる」


 屁が出なくなるのはいいなと思った。

 私はすでに尻もちをついていた。硬い鼻がごすごすとあばら骨に当たって痛い。


「気づかないんですか? バカだなあ。当然ですが水素は空気よりもずっと軽いものです。そして体内にガスを貯蔵できるってことは、」


 そうか。私は息を呑んだ。

 翼だけでは飛ぶだけに必要な揚力を得られない。だから私たちはいかに翼を強力に操る肉体を持たせるか追求した。

 だが、もし他に浮力を得る手段があるとすればどうか?

 理解が進むにつれて胸の奥から炎のように熱い感情が滲み、指の先まで身体を満たしていくのを感じた。

 湿った夜闇を鮮烈な橙が切り裂いた。トカゲが再びたき火に炎を注いだのだ。沸き立つ私たちにつられるように火柱は激しく燃え上がった。


「作れますよ。ドラゴン」


 歌が聞こえた。

 聞くものの腹腔を震わせる太く力強い声だ。ギターの澄んだ音と共に心地よいリズムを作っている。CDプレイヤーから流れるその歌に合わせて、鉄を擦るような甲高い音が聞こえた。それは明らかに人のものではなかったが、確かな意志をもった歌だった。


「また歌ってるんですか」


 彼がモニター室に現れるのはいつも私より後だ。白衣の襟を整えながらモニターに目を向ける。画面の中の大きなトカゲは短い首を空に向け、その巨体には似つかわしくない高い声で鳴いていた。大きな翼を広げ、強靭な後肢をぴんと伸ばして高らかに喉を鳴らし続ける様子は妙に現実離れした、幻想的ともいえる光景だ。その音色は決して巧緻とは言い難かったが、聞く者の何か原始的な部分に訴えかけるような、不思議な魅力があった。

 ごく最近、トカゲが始めたこの奇妙な行動を私たちは「歌」と呼んだ。


「珍しく特撮音楽じゃないんですね」

「ああ。この前の医療スタッフの人にトカゲが音楽好きだって話をしたら、ビートルズのアルバムを貸してくれた」


 優しいリズムが心地よい曲だった。曲名は〝イエスタデイ〟だったか。曲に浸っているとトカゲがまだ手に乗る程度だったときのことから今までに至るまで、まるで昨日のことのように思い出された。


「今、ヘイジュードって聞こえませんでしたか」

「気のせいだろう」


 曲が途切れたと同時に、大きな翼が力強く大気を叩いた。びりびりとアクリル板が震え、助走の勢いを乗せて人工ドラゴンの巨体が宙に投げ出された。

 目が眩むほど高い天井の下を悠々と飛ぶトカゲの姿は、まさに伝承のドラゴンのままだった。


「後は首が長くなれば良かったんだけどなあ」


 伝承の姿ではドラゴンは首長竜のような容姿で描かれている。だがどう考えてもその長い首は捕食型の肉食獣には不要のものであり、何度か遺伝子操作を試みたこともあったがトカゲのそれは環境的要因からすぐに退化してしまったのだ。実際、長首ではあの強靭な顎を支えるのに苦労しそうだ。

 おかげでドラゴンの首をワニにすげ替えたような、奇妙な風貌になってしまった。




 あるとき何の連絡もなしに苔色の軍服に身を包んだ男がやって来たことがあった。(同僚の彼は風よりも早く身を隠したので私が応対することになった。おのれ)

 狐のような鋭い目つきにどこか見覚えのある男は、複数のカメラに映ったトカゲの姿を見て低く唸った。後から気づいたことだが、その男は私を面接した軍人だった。


「頑丈そうな鱗ですね。拳銃弾くらいは受け切れそうだ」

「はぁ。そうですか?」


 そんなことは考えたこともなかった。


「ちょっと竜らしくないところはありますが、そこは映し方や見せ方次第でどうにかなりそうですね。ちょっと目の前まで連れて来てもらえることはできますか?」

「いえ、それは……」つい言い淀んでしまう。


 結局、最後までトカゲは臆病なままだった。我々が考えている以上にトカゲは知らない人間を恐れている。私たちが指示すればトカゲを呼び出すことはできるだろうが、恐怖に囚われて大きな身体からか細い声を漏らすトカゲを見たくはなかった。

 エヘヘと阿諛の混じった笑みを浮かべる私を軍人はしばしガラスのような無表情で眺めていたが、やがて「ならば仕方ありませんね」と顔に笑顔を貼り付けた。見る者に安心を与えない、珍しい種類の笑いだった。


「ありがとうございました、すばらしいお仕事です。ここのところ急かしてばかりで申し訳ありませんでした」

「いえ、忙しいのは私たちだけじゃありませんし……」


 実際、目の前の軍人の目も痛々しいほど充血していた。恐らく私たちと同じように寝不足の日が続いているに違いない。こんな後陣の士官がどんな仕事をしているのかは知らないが、少なくとも楽なものではないのだろう。


「いえいえ、ご謙遜なさらずに。せめて今日一日くらいはゆっくりとお休みしてください。今は席を外しているようですがもう一人の彼にもよろしく言って頂けますか」


 そうですか。はあ。それじゃお言葉に甘えて。

 私のそんな返事を聞くと、満足そうに頷いて軍人はモニター室を辞した。

 軍人の姿が消えると肩の力が抜けた。自覚はしていなかったがこれでも緊張していたようだ。

 緊張が解けるついでに、今まで耐え続けていた眠気が重く圧し掛かってきた。休めというのなら休むとしよう。どうせ実験もそろそろ終了だ。

 仮眠室で硬いベッドに身を横たえながら、ふと用を終えたトカゲはどうなるのかと考えた。動物園などで保護されるのだろうか。それとも……。

 結論を待たずに私の意識は暗闇に落ちていった。


 夜中、突然の尿意に襲われて目が覚めた。

 トイレトイレと呟いて狭い廊下をダッシュ、落ちついて鳥を撃った後には悠々と来た道を戻っていると、いつものモニター室付近に差しかかったあたりで物音が聞こえた。 

 どすん、ばたん、というような原始的な音がドア越しに弾んでいる。音だけではない、何種類かのくぐもった声がモニター室の扉を通してこちらまでかすかに届いていた。

 私が音の元を辿って扉を開けたのに深い理由はなかった。ただ妙な場所で妙な音が聞こえたから見にいった。

 扉の鍵は閉まっていなかった。ドアノブを捻って開かれた扉の向こうでは、奇妙な光景が広がっていた。


「何やってんだ、あんたら……」


 完全装備の戦闘衣の男が六、七人、アクリル層板の中でライフルを構えて半円の陣を作っている。その中心にいるのは分厚い鱗を有したトカゲと白衣を着崩した彼だった。

 彼とトカゲが撃たれようとしている。その事実を理解した瞬間、私はすでに開け放たれていた鉄扉をくぐって飼育スペースの中に飛び込んだ。銃口のいくつかが私の方へ向けられ、ほとんど飛びあがる勢いで私は両手を挙げた。

 凶弾の恐怖に意気が打ちしおれそうになる。しかし銃口を向けられたトカゲとそれを庇う同僚を再認した瞬間、燃え上がった怒りが頭の裏を焦がした。


「あんたら、何のつもりだ!」


 怒鳴ったのはいつ以来だろう。私の声に反応して白衣の男と、半円陣の中心にいるトカゲの注意がこちらへ向いた。複数から向けられた敵意を前に巨体を低く伏せてしまっている。怯えているのだ。当然だ、生き物なのだから。

 ライフルを構えていた人物のうちの一人が銃を下ろし、私に向かって軽く手を挙げた。ボディーアーマーとヘルメットのせいで分かりづらかったが、例の狐のような男だと遅れて気づいた。


「ああ、すみません。本当は秘密裏に行うつもりだったのですが。ドラゴンはこのままこちらでお預かりします。もともとそういう約束だったのだから、構わないでしょう」


 理屈は分かるが、いくら何でも突然に過ぎる。そもそも私たちに秘密で行う理由が分からない。


「ドラゴンはこの後前線へ送ります」


 明日の天気は晴れです、とでも言うような淡々とした口調だった。

 ようやく白衣の彼がトカゲを庇っている理由が判明した。私だって同じ立場ならばそうするだろう。私たちにとって、サナギトカゲはもはや単なる実験動物では無くなっていた。

 だが、研究者は銃口の前では無力だ。

 軍人が手を振り上げると、一瞬の躊躇もなく一人が発砲した。空気が擦れるような拍子抜けする音だった。トカゲの巨体が一瞬震え、段々と力が抜けていき地に伏した。そのままぴくりともしない。麻酔銃だったのだろう。

 白衣の彼はトカゲに走り寄ろうとしたが、ライフルを向けられ立ち止まった。彼は憎々しげに狐顔の軍人を見据えると低く唸るように「そんなに」と喉を振り絞った。地獄から響く亡者のような声だった。


「そんなに戦争が大事か。こんな、少し炎が吐けて、ちょっと飛べる程度のトカゲに頼らなくちゃならないくらい」


 狐顔の軍人はライフルを担ぎ直すだけで答えない。だが、一瞬だけ浮かべた自嘲的な表情が妙に印象的だった。

 やがて大型のコンテナが運ばれた。大きなマットにトカゲを乗せると、ゆっくりとクレーンでマットごと吊りあげる。トカゲの巨躯がコンテナの中に収容され、搬送用の大きな鉄扉から外へと運ばれた。

 後にはもう住む者のいない人工の密林が残された。


 それから間もなく、この戦争最大の会戦におけるD国の大敗が報じられた。

 この地下施設は中の人間の声が外に出ない代わりに、D国に住む人民とは違って偏向のない情報が伝わってくる。もともと様々な国から優秀な人間が引き抜かれてできた施設だ。その点ではここは無国籍的だと言えた。

 あれ以来、モニター室に来るのは私だけとなった。彼の姿は久しく見ていない。仕事がない今、私もただの習慣として足を運んでいるだけだ。

 デスクチェアーに座って脚を組む。小型TVの画面では巨大化したコウモリ似の怪獣が、大都市の上空で戦闘機と空中線を繰り広げているところだった。

 あれ以来、暇なときはぼうっと特撮DVDを観返して、それでも余った時間は自然と戦場へ向かったトカゲに想いを馳せた。

 画面の中で鋭角的なフォルムの怪獣が戦闘機を一機、また一機と爆破していった。手に汗握り、ついつい画面に文句をぶつけてしまう。


「ええい不甲斐ない、パイナップルアーミーのくせに。あんな大きい的、ミサイルなり機銃なりで簡単に――」


 そこまで言ったところで喉が詰まった。私の言葉通りに怪獣に誘導ミサイルが衝突し、怪獣が爆炎に包まれたのだ。


「あっ」


 墜落した怪獣がタワーに突き刺さり、それきり動かなくなった。一拍置いて大勢の人々の歓声が弾けた。

 ……そっと私はTVの電源をリモコンで落とした。

 この先の展開は知っている。怪獣の親がやって来て人間たちに復讐をするのだ。まるで歯が立たない人間たちはやがて窮地に追いやられてしまう。

 もちろんそれはフィクションの中だけの話だ。現実に銃を持った人間の群れに勝てる生物などまずいない。

 それはドラゴンだって例外ではない。頑丈な鱗を持ち、火を吹いて空さえ飛ぶ生物。

 だが、それだけだ。

 火炎放射を使い過ぎてガスを消費すればいずれ空は飛べなくなる。鱗の強度も限界がある。事実、至近距離からのライフルによる麻酔弾はドラゴンの鱗を貫いた。


「何より、あのトカゲは怖がりだ」


 独りごちる。どれも全て研究資料に目を通していれば遼然な事柄だ。

 トカゲを誘致した際、狐顔の男が見せた自嘲的な笑みを思い出した。本当はあの男も分かっていたのではないだろうか? 分かっていながら、それでも藁を掴む以外にはもうどうしようもなかったのかもしれない。

 ……すっかり気が滅入ってしまった。しかしもう再びDVDを鑑賞しようという気にはなれなかった。どうしてもトカゲのことが脳裏に浮かんでしまうからだ。

 かわいそうなドラゴン。苦しんで死んだのだろうか。

 

 そのとき、硬いものが床にぶつかる音が閉鎖空間に大きく響いた。

 驚いて目を向けた先では、空っぽの缶コーヒーが躍るようにまだ小刻みに弾んでいた。一時間ほど前に私がデスクに置き忘れたものだ。勝手に落ちるような場所に置いた覚えはなかった。とすると、


「虫か何かかな」


 ちょうど良いと思った。気を紛らわせてくれるものを私は探していた。


「あまり生物学者を舐めない方がいい」


 無意味に独りごち、両手で捕獲の構えを取りながらデスクへとにじり寄った。私は平ぺったい黒い虫程度ならば素手で捕まえることができる。しかしそのスキルについて他人から称賛を受けたことはない。

 一歩ずつ、一歩ずつ、すり足で近づく。やがてあと五歩という距離で標的が動いた。デスクの影から飛び出した小さな生き物の先には、しかし私の右手が先回りしていた。




 モニター室にはいくつかの部屋へ直通の回線が繋がっている。興奮する私からの電話で呼び出された彼は、明らかに機嫌を損ねていた。もう実験は終わったというのによれた白衣を着ているのは何か拘りでもあるのか、それともただの習慣だろうか。


「何ですか、今更……。それとこの音楽も」


 室内には仄かに男性の湿ったテノールとクラシックギターの音が漂っていた。私がビートルズを選んだのに理由はない、ただあの日以来ずっとプレイヤーの中にCDが入れっぱなしになっていたという理由だ。

 私が「見てくれ」と言って小さな水槽を指差した瞬間、彼の憮然とした表情に不審が混じった。それから「まさか」とでもいうような驚きが上塗りされた。

 水槽の中にいたのは一匹のトカゲだった。火も吹かなければ翼もない、手に乗る程度の大きさしかないトカゲだ。 

 ただ一つ特筆することがあるといえば、瓶にはまったコルクを回すようなか細い鳴き声が聞こえることだった。それは水槽の中から断続的に届き、BGMに合わせているように思えなくもなかった。


「……同一個体なんですか」

 彼の声は微細に震えていた。

 サナギトカゲの遺伝子は蛹化を繰り返すたびに大きな変化を生じる。そのため、人間のようにDNAを元に「身元を特定する」ことは不可能だ。

 無論、私が論じるまでもなく彼はこの事実を知っている。それでも彼は私に訊いた。だから私も静かにぼんくらな生物学者としての意見を講じた。


「分からん。だけど、いいんじゃないか。

 古代の恐竜のように無用な巨体が淘汰されて後には小さな種ばかりが生き残ったみたいに、何千人もの人間と武器に襲われたドラゴンが生き延びたいと願って選んだ形態が、元の通りの矮小で目立たないちんけなトカゲだったとしても。

 その過程で失った知性の中に、唯一残っていた記憶に縋ってトカゲはここまで辿りついたんだっていう想像くらいしても、いいんじゃないか」


「映画の観過ぎですよ」という返事は聞こえなかった。

 その代わり、低く唸るような声が足元に忍び寄った。涙を堪えるような、歓喜を押さえつけるような、その二つが溶けて一つになったような声だった。


 鼻の奥にツンと痛みが走った。私の口から勝手に「俺は昔」という台詞が漏れた。「俺は昔この実験をしながら、世界がジグソーパズルだとしたら俺はそれの操り手だなって思ったんだ」

「馬鹿ですね」という鼻声が返ってきた。


 その言葉を聞いた瞬間、奇妙な話だが、私は愚かだった過去の自分を彼に罵倒して欲しかったのだと知った。

 彼は鼻水を垂れ流しながら「僕の場合は小説家でした」と言った。

 狭い室内に響く低い呻きの二重奏は当分止みそうになかった。頭の中が全て唸り声になってしまっていて、それを絞り尽くした後には何も残らないような心地よさだった。


 私たちはただ愛すべき隣人の生還を喜んだ。

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