1cm/m
どうやら夢だったらしい。
眠りについた記憶が無かったことを思い出して、今自分がいる場所確認する。
あぁそっか、と納得した。
それ以上何も感じることはなく、手ぐしで髪をある程度整えてから時刻を確認した。
登校するには早すぎる時間だったが、一度帰宅するには学校に遅刻してしまいそうだったので、それは諦めた。
まぁこれは予想していたことで、事前に入浴と着替えを済ませ、制服を持ってきて正解だった。
「あと三十分くらいかな」
と呟いたところで、誰も返答しない。
誰にも聞こえていないし、誰にも届かない。
少なくとも、この病室で横たわる弟には――。
◆
高校三年に上がって一番興味を惹いたことは、今まで一度も顔を見合わせなかった彼が同じクラスに属することになり、さらには隣の座席になったということだった。
それは異性として、の意識ではなく。
テスト終了後、校内に張り出される上位の順位発表で常に一二を争っていた彼がどんな人物なのかという興味にしか過ぎない。
別にテストの成績が一位だろうが二位だろうが、そんなことをわざわざ気にしているわけではないけれど、それでも多少なりと対抗意識が芽生えることは至極当然のことだ。
けれど彼は――授業中は主に居眠り、休み時間は左目翁という、恐らく恋人であろう彼女と、最近来るようになった他クラス美少年とふざけた会話で盛り上がり、予習復習自習することなく放課後は颯爽と下校する。
自宅での学習で成績を維持しているのだろうが、それにしても学校内において、彼がどうして学年一位の成績なのかという疑問が解決することはなかった。
ある休み時間には珍しく彼女と会話しないな、と思っていると私が愛読するギャグ漫画を隣から覗き見ては薄らと笑みを浮かべ、ある休み時間には教室の隅でぶつぶつと誰かと会話しているのか独り言を呟いていた。
なんて。
彼について――立屋千尋のことをこれほど意識しているのにも関わらず、それが異性として彼を見ているわけじゃないなんて否定は、最早意味を成さないのかもしれない。
しかし事実だ。
異性として好意を持っているのではなく。
何と言うか、不思議な感じがしたのだ。
それは主に勉学の面において、だけれど。
彼の人間関係とか、周囲の環境なんてものに微塵も興味がないというわけではないが、必死に勉強に勤しむ自分が惨めに思えるほど彼は勉強していなかったのだ。
それを考えれば、学年最下位の左目さんは清々しいなぁ、と少し羨ましくもなるものだ。
まぁ、彼のそんな行動は私にとって、冥利がいいと言っても過言ではなかった。
善行には程遠いが、それでもそんな生活態度の彼のおかげで、私もまた励むことができているのだから。
もしも今後、テストの順位で私が一位を独占することになったとするなら、私はもう彼に興味を抱くことはないだろう。
それくらい私のメンタルを影ながら知らず知らず支えているのが彼である。
残念ながら一度も会話したことはないんだけれども。
◆
「またタイヤキかよ、ふざけんな!昨日いくつ食べたと思ってるんだよ。二十個だぞ、二十個」
「いや、左目に負けてるとかそういう意地はいらないって……」
昼休み。
そんな声が聞こえてきたのは普段使われることの少ない階層のトイレからだった。
理科室や家庭科室、音楽室といった移動教室で使用する四階の一番奥の男子トイレだ。
偶然、たまたま、通りかかった私がその声を聞いた、ということではなく。
珍しく左目さんと峰 千早と言うらしい他クラスの生徒の誘いを断っていたようで、もしかして隠れて予習でもするのかと思った挙句、我ながら恥ずかしい行為ではあるが隠れて尾行することにしたのだった。
いつ勉強しているの、と話しかければ済むことなのに。
なんとまぁ勇気のない。
自覚はしているけれど、中々行動を起こせないのが私だ。
これじゃ、他から見れば男子に恋を抱く純情乙女みたいではないか。
しかし間違ってもそれはない。
それは――ない、はず。
「だから、未来のための投資とか意味不明なこと言ってる場合じゃないだろ。未だに君のこと何なのか理解してないんだが」
誰かと話している。
少し声量を抑えたのか、先ほどより聞き取り辛い。
「そんなこと言うなら、君が自分のためにすれば良いだろう」
「なら、俺が代わりにそれをやっても良いけど」
「ふざけんな、黒いの!」
けれど。
どうしてか、もう一人いるであろう会話相手の声を聞き取ることができなかった。
微かにすら聞こえない。
電話かとも思ったが、事前に彼が携帯電話を鞄に入れたままという事実を目視している以上それはない。
いや、携帯電話を二つ以上所持している可能性はあるか。
しかしこれは、どうやら私の淡い期待を裏切る形のようだ。
隠れて勉強しているわけではなさそうだし、それにもうすぐ昼休みも終わる。
検討違いだった。
まったく、徒労も甚だしい。
骨折り損のくたびれ儲けとはこのことだ。
せっかく昼食を抜いてわざわざ来たというのに、何の成果も得られないんじゃ、コンビニエンスストアで購入したおにぎりが無駄になる。
彼が勉強する姿を学校内で一向に見せないことに何か理由でもあるのだろうか。
学校で勉強する意味が無いと考えているのだろうか。
それとも、学校は何か別の目的のために通っているとでも言うのだろうか。
それは左目さんのためなのだろうか。
まぁそれは案外、正鵠を射ているのかもしれない。
一緒に登校する姿を見たことは無いけれど、ほぼ毎日一緒に下校している様子を目撃すると恋仲の関係にあるという推測は概ね正しいだろう。
しかし、クラスで噂になったり、弄ばれたり、からかわれたり、ちやほやされたり、嫉妬されたりといった場面を一度も見たことがなかった。
むしろ、そんな雰囲気すら感じられなかった。
或いは、以前からの付き合いで周知の事実になっているのだとしたら、そういった時期はすでに過ぎているのだろう。
ともかく。
人の恋人関係を詮索するような真似はやめよう。
無駄になったおにぎりをいつ食べようか悩んで、教室に戻ろうとした時だった。
「――!」
あと一歩踏み込めば男子トイレの中。
声を聞き取るために張り付いていたが、気づけば。
目の前に立屋千尋が存在していた。
紛れもなく彼本人で、どうやら一人のようだった。
「…………」
「…………」
お互いに沈黙。
しかしそれは意外にも、彼の言葉でそれは破られる。
「えっと、何しているの」
「トイレ……」
「ここ、男子トイレなんだけど……。女子トイレは真逆の方向なんだけど……」
「それくらい知ってる」
「えっと――え?」
「誰にも気を遣わずトイレ済ませたかったから」
「だから、ここ、男子トイレなんだけど……」
「……そうだよね」
まずい。
これは非常にまずい。
さすがにトイレまで尾行していた、なんて言えるはずがない。
せっかく成績優秀なんだから、ここは上手く切り抜けるための理由を考えて――。
「女子だって別に男子トイレを利用しても構わないでしょう」
あぁ……。
終わった。
私のスクールライフは――学園生活は終わった。
悲壮感に包まれるほど充実した生活は送っていないけれど。
「いやまぁ確かにそれは構わないけど。と言うより、楽座って案外図太いんだな」
「…………」
初めての会話で――最悪の印象を与えてしまったようだった。
なんてことだ。
と言うか、こいつ、女子に向かってなんてこと言うんだ。
学校生活を送る彼を見て度々思うけど、どこか抜けてて、しかもデリカシーの欠片も無いとは。
なんて。
そんな風に、対抗意識として私の中の彼の印象を同じく最悪にしたところで。
急に彼は、はっと口を開けて驚いた顔見せた。
血相を変えて、まるで何かに怯えたようだった。
青ざめた力の抜けた表情をしていて、少し汗を掻いているようだった。
そんな彼を見て何となく抱いた感想を述べた矢先、今度は神妙な顔つきになって私の両肩を掴んだのだった。
それも力強く。
思い切り。
なんとまぁ表情豊かな人だなぁと思った。
こうして並んで見ると思った以上に背が高いようで、彼は腰を曲げて私の表情を伺うように覗き込む。
目と目が合う。
視線が合う。
思わず目を逸らしてしまいそうになるほど、私の一点を見つめる眼差しだ。
少し、どきっとしてしまう。
鼓動が打つ速度は徐々に加速している。
彼の顔が段々と近づいて来るような錯覚さえ覚えた。
まるで、キスをする直前のような感覚だった。
いや、したことないんだけれど。
そんな私の高鳴った心境を知ってか知らずか。
「放課後、俺と付き合って」
と、私をデートに誘ったのだった。
後々思えば、これはデートとは程遠いものだったけれど、それでも私は初めて同年代の異性と二人きりでお茶をすることになったのだった。
彼に対する興味が、少しだけ別の意味に変化したような気がしたが、気のせいだろう。
いや、気のせいに違いない。
――気のせいな、はず。