20cm/s
「やっぱり、だめだ。未来がない現在、怜也には何を言っても、どんな希望を与えようとしても、それは届かない……」
弟の病室を出て、扉に背中を預けるように楽座が言う。
彼の絶望にも似た言葉を聞いて、酷く傷心したのか体重をそれで支えているとした方が正しかった。
今にもしゃがみ込んで、塞ぎ込んでしまいそうなほどに震えていた。
それをやっとの思いで抑えているようだった。
「あぁ、ごめん、私の彼氏とか嘘言って」
「……それはいいけど」
嘘八百。
嘘も方便と言うが、しかしこの場合その効果はなかった。
それは弟に希望を持たせるために吐いた嘘だったけれど、未来が崩壊した現在、意味はなかった。
確かに、多少の驚きは見せたようだった。
それでも。
それだけだったのだ。
楽座の言葉にも否定的で、何もかもを諦めた様子の弟はこの世界ではもう死んでいると言えるのかもしれない。
『彼女』の言うように、そう表現しても強ち間違っていないのかもしれない。
そう言ってしまうと、残酷ではあるけれど。
冷酷ではあるけれど。
「前は――私が未来を壊してしまう前は、あんなのじゃなかった。むしろ、痛々しいと思えるくらい、哀れんでしまうくらい無邪気に未来について語ってた。それに耐えられなかった。けれど、こうして希望を抱かない怜也を目の当たりにして、やっぱりこれも耐えられないね……」
「…………」
扉に体重を預ける楽座と対峙するように、幅の狭い廊下を挟んで彼女と同じように壁に背中をつける。
「どっちがいいとか、どっちがマシとか、そんなこと言うつもりないけれど、やっぱ――」
駄目だ、と楽座は小さく声を出してその場にしゃがみ込んだ。
「私はどうしたらいいのかな。明日が来なければ、このままずっと怜也と一緒にいられる。けれど、こんなになった怜也をこの先ずっと見ていかないといけないと思うと苦しい。かと言って、もし何かのきっかけで明日が訪れたとしても、怜也は近い内に死んでしまう……ジレンマね」
ジレンマ、で片付けられるほど簡単なことではないと思った。
そうだ。
そうなのだ。
未来が壊れ明日が訪れない現在、弟が死ぬことはないのかもしれない。
けれど、それは繰り返される二十八日の中の弟なのだ。
昨日と同じ弟で、明日も同じ弟――希望を抱くことのない、弟。
それを打破したとしても――明日が訪れたとしても、それは弟が最期に近づくということを意味している。
遅かれ早かれ、最期は訪れる。
彼の病態を目の当たりにして、それはきっと遠くない未来なのかもしれない。
現在を繰り返しても。
未来が訪れても。
いずれにせよ、楽座にとって逃れることのできない絶望なのだろう。
「自分のために未来を壊した――猫の言う通り、私は怜也のことなんて何一つわかっていなかったし、何より、自分のことも理解してなかった」
「未来が来ない現在、繰り返される今日。或いは、明日が訪れる未来、弟が死ぬ未来か――」
「どうしたら、いいのかな、私は」
現状を打破することは可能だ。
繰り返される現在を打破し、明日が訪れる未来に変えることは可能だ。
『彼女』に願えば。
俺が、『彼女』に願えば。
「こんな質問、正直したくもないんだけど――」
「……何?」
「現在と未来、どっちがマシだ?」
「…………」
楽座は沈黙する。
「希望を持たない弟をこのまま永遠見続けるか、それとも最期が訪れるかもしれない弟を見続けるか、どっちがマシだ?」
繰り返す。
俺は繰り返して訊く。
「いや、マシだ、なんて言葉で済ませるのはよくないか。楽座からしたらどっちも嫌なことだもんな。それでも、未来を迎える方法はあるんだよ。明日を迎える方法は――ある」
「未来を迎える……」
「本当は、未来が破壊された時点で――二十八日が繰り返されていると理解した時点でそうするつもりだったんだよ」
そう。
こうして楽座にどんな言葉を投げ掛けても、語りかけても、『彼女』に願ってしまえばなかったことになる。
白紙に、なる。
「別にこれは同意を求めてるわけじゃない。楽座がもし『現在』の方がいいと言うなら、俺はそれを無視して明日を迎える。だからこの質問には意味があるようで、ないのかもしれないね」
「……そう、あなたの、猫ね。願えば未来が来る。なら質問は変えた方がいいわ、弟が死ぬ覚悟はできているか、って」
「強いな」
「そうじゃない……認めていはいるのよ。怜也が死ぬという現実は避けられないってことは理解している。けれど、いざとなると、怖い」
そう言えば、『彼女』に願い、未来が訪れ、全てが白紙に変化したとして、それは一体どんな世界なのかという疑問を解決していなかった。
楽座の弟という点のみに言えば、果たしてその結果、以前のように希望を持ち明日を生きることができるのかどうか、その保障はどこにもない。
例え、それがどこにもなかったとして――楽座の気持ちに反する形になったとして、俺は『彼女』に願うべきなのだろうと思う。
いや、願わなければいけない。
こんな壊れた世界で、いつまでも過ごすわけにはいかない。
「怜也はそれでも助からないのかな」
「……どうだろうな。俺にもどうなるかわからない。もしかすれば、悪い結果になるのかもしれない。けれど、それでも俺は明日を迎えたいんだよ。楽座は、弟と明日を生きるべきだ。彼女が言うように、明日に夢を描く弟と一緒にいてあげるべきだ」
「…………」
「未来を壊して、後悔してるんじゃないのか?」
「……そうかもしれない。猫に言われた通り、反論の余地もない。まさか、忌み嫌っていた猫に気づかされるなんて思ってもいなかったけど」
楽座は自身を嘲笑するように力なく笑った。
自分のため、残酷な現実から逃れるための願いは楽座自身の首を絞め、さらには最も大切な弟までも手にかけていた。
それがどれほど心苦しいことか、当人しかわかるまい。
わかるはずのない、痛みだろう。
けれど、そんな痛みも苦しみも、『彼女』に願えば消えてしまう。
消え去ってしまう。
それが果たして良いことなのか、誰にわかるというのだろう。
全てを忘れ去って、何もかもが無かったことになって、そうすれば救われるのだろう。
辛いことなど、誰も抱えたいとは思わないはずだろう。
確かに救われる――痛みを忘れることで解放されるのかもしれない。
しかし、どうだ。
忘れてはいけない痛みもあるのではないだろうか。
消してはいけない辛い思いもあるのではないだろうか。
明日を迎える――未来を迎えるということは、それすらも全て消失することを意味している。
そう思えば。
千早と左目、楽座の願いが思いにそぐわないような、悪影響を与える結果で叶ってしまったことを代償と言うのなら、これもまたある意味代償だ。
代償と言うか、対価と言うか。
代価と言うべきか、罰と言うべきか。
全てが変化する代わりに、全てを失う。
『彼女』の言葉の真意はそこにあるのだろう。
あぁ、そう言えば、失わないのは俺だけなんだっけ、と『彼女』の言葉を思い返した。
『全てを変える。何もかも全て、だ。過去も現在も未来も、全て等しく、何もかもだ。変わらないことなど何一つないほど、何一つ残らないほど、全てが変化する。新しい世界に変貌する。今までお前が築き上げた関係は勿論、環境、記憶もみんなだ。誰にも語られない、誰にも証明することができない記憶をお前だけが持つ』
代償と言えば、むしろ自分だけが誰にも語られることのない記憶を持つことこそ、そうなのかもしれない。
ある意味、代償。
ある意味、罰。
千早のこと、左目のこと、楽座のこと――過去、現在、未来が壊れてしまった記憶は自分だけが保持することになる。
それだけでなく。
四人の関係もクラスメートも、隣人関係も赤の他人の環境も、白紙に変わり、白紙に戻る。
自分だけが覚えていて、自分だけが知っている過去は誰にも語られることのない絵空事になる。
なってしまう。
それは酷く物寂しい思いにさせられることだけれど、一方で未来を取り戻す――世界を戻す唯一の方法なのだ。
何も思いつかない以上、何も思い当たることがない以上、それが唯一の策でありたった一つの残された方法なのだろう。
最善かどうかはわからないけれど。
「なぁ楽座、弟は――怜也は死ぬ覚悟があったのかな」
「……どうだろ。知ってはいたみたいだけど」
「自分がいずれ死ぬことを知っていて、明日に希望を抱く気持ちなんて俺にはわからないな。けれど、楽座になら理解できると思うよ。理解して、希望を抱かせてあげるべきだ」
一歩。
一歩。
背中を預けていた壁から離れ、しゃがみ込んだ楽座に近づく。
「わかってる。そのつもりだったよ、最初は。痛々しいと思いながら、哀れみながら何とか話を聞いてあげて、残酷な現実の中でも希望に満ちた話だってした。でも、怜也が危なくなって、私は――」
それが、覚悟がなかったということ。
覚悟がなかったから、願ってしまったということ。
「……そっか、なら俺は未来を変える。未来を創る。全て――『変える』」
楽座は一瞬沈黙して、そして塞ぎ込んだ顔を上げた。
今にも、何もかもが崩れ落ちそうな表情だった。
「覚悟は決める……」
複雑だろう。
いずれにせよ、どの道を選択しようが楽座にとっては避けられない辛いことだろう。
このまま二十八日を繰り返そうが、明日を迎えようが、楽座には避けて通れない『現実』だろう。
けれど。
けれど――
「楽座の決める覚悟は弟の最期を看取ることじゃない」
「…………」
楽座は首を少し傾げた。
「弟と一緒に過酷な明日を生きてあげることじゃないのか?」
圧倒的多数が当然のように明日を迎える中で、訪れることのないかもしれない『明日』を生きる覚悟。
それが楽座の負うべき罰であり、代償であり、そして希望でもあるのだと思う。
「楽座の希望は一体何なんだ?楽座の未来は一体何なんだ?」
その言葉に。
楽座は気付いたように、二度目の涙を流した。
「そっか、そっか……」
長い睫毛が、濡れる。
私にはこれしかなかった。そう思っていたのに――
呟くように漏らしたその声をはっきりと聞き取ることはできなかった。
いつからだろうか、白い猫はいつの間にか姿を消していた。
黒い『彼女』の虹色の瞳が揺れる。




