16cm/s
なんて脈絡のない質問だと思った。
会話の流れをぶつ切りにするかのような言葉を聞いて、また核心をぼかして曖昧にした挙句、話を摩り替えるつもりなのだと思ったが、そうではなかった。
そうではなかった、ということは。
勢い任せに、気分気ままに、身勝手に、自分が楽しむために――俺を混乱させるために吐いた台詞、ということではないらしい。
まぁ、しかし、そうでなかったとしても――彼女がそんなつもりでなかったとしても、混乱するには十分だったし、困惑するにも十二分だったということは、結果的に彼女にそんな意図がないにしろ、俺を苛ませるのであった。
いや、苛むほどではないけれど。
むしろ、砕けた会話は日常茶飯事であり、一方的に語りかけられ、聞き手に回るというのが彼女との日常会話なので、本来混乱するほどでもないのだ。
慣れ親しんだ彼女との会話なのに、少し気が焦った。
どうして彼女が唐突にそんなことを訊いたのか、自問するようにぐるぐると頭を巡った。
心拍数が上がっているのを自分でもはっきり感じられたのだった。
そんなつもりはない、と自分に言い聞かせつつも、揺れてしまう。
心が揺れて、傾く。
奇しくも、なびく。
『ははっ、ここでお前が答えるわけにはいかないよね――私の気持ちに応えるわけにもいかないよね。こんなんじゃ、左目 翁に目も当てられない。哀れむよ、左目だけにね』
「…………」
『別にお前を困らせようとしてるわけじゃないんだよ。私は他の三匹とは違う――違うということがどういう意味を指しているか、わかるかい?その答えが知りたかったら、お前にはここで好きだよ、と言ってもらうほかあるまい』
「なんだよ、その等価交換は。と言うか、そもそも因果関係がまるでないように思えるんだけれど。皆無だよ、皆無」
『因果関係ならあるよ、明確に存在する。お前が答えれば私は嬉しさのあまり、口が滑ってしまう』
「それは因果関係じゃないだろ、因果応報だ」
『……え、いんがおうほう?』
「なんでもない……」
まぁ、例え因果関係があろうと、なかろうと、彼女の言う通り答えるわけにはいかないだろう。
それは左目に嘘でも伝えることのできなかった言葉だ。
嘘で伝えてはいけない言葉だと思う。
『さぁ、もう休憩もいいだろう。早退したんだ、無闇やたらに人目のつく場所に居座るのもよくない。まぁ、もうそんなこと関係ないかもしれないけどね。人はいなくなったし、同じ二十八日が繰り返される以上、ね』
「……そうだね」
『こんな生活を続けていたら、元に戻ったときが大変だよ。癖付くのはよくない。こんな壊れた世界に慣れるのもよくない』
ふむ。
まぁ確かにそうだ。
慣れてしまえば、癖付いてしまえば、それは惰性になる。
繰り返される二十八日を超え、明日が来たら――二十九日を迎え、そして元に戻ったときが苦労してしまいそうだ。
ん?
元に戻ったとき?
未来が壊され、明日が来ない現状――繰り返される二十八日から抜け出すことは可能ということなのだろうか。
二十九日は来るのか?
『…………』
「……えっと」
彼女は何やら察したように沈黙した。
そして、それはきっと他の三匹と彼女が違うという真意を暗に示していることだと理解することができた。
この場合、理解してしまった、とした方がいいかもしれない。
聞かなかったことにするには難しい、核心を突く一言である。
他の三匹と彼女の差異。
違い。
彼女であり、彼女でない『破壊』の彼女、か。
ならば、彼女はきっと――元に戻すことができるのではないだろうか。
全てを、戻すことができるのだろうか。
「元に戻す、か。君はそれができるということか?俺が望めば、それを叶えることができるということか?二十八日から抜け出して、壊れてしまった時間も全部元に戻せるってことなのか?」
正直、焦っていた。
その仮定が正しいのならば、何としてでも縋りたかった。
縋る思いだった。
『おいおい、落ち着け。元に戻ったとき――言葉の綾じゃないか。誰がそんなことできると言った。最初から言ってる通り、どうしようもなく手遅れだと言っただろう。取り返しのつかない行為だと、過ちだと、そう言っただろう』
「あぁ……」
取り返しのつかない過ち、か。
確かそんなこと言ってたなぁ、と彼女の言葉を反復して思い返す。
そんな都合いいことがあるはずないか、と肩を落とした。
それに気づいたようで、彼女は言う。
嘆息しながら。
ため息まじりに。
仕方ないなぁ、と言わんばかりに。
『けれど、手段がないわけではないよ』
「……ないわけではない?」
『あるには、あるということさ。ただ、元に戻す方法はない。これは断言できる。全てを私と出会う前、出遭ってしまう前に戻すなんて、それこそタイムスリップでもしないかぎり無理だろう。けれど、少なくとも、二十八日を抜け出す方法――明日を迎える方法は、ある』
二十八日を抜け出す方法。
二十九日を迎える方法。
明日を、迎える方法――
それはつまり、どういうことなのだろう。
それはつまり――彼女が『叶える』ことなのだろうか。
『全てを変える。何もかも全て、だ。過去も現在も未来も、全て等しく、何もかもだ。変わらないことなど何一つないほど、何一つ残らないほど、全てが変化する。新しい世界に変貌する。今までお前が築き上げた関係は勿論、環境、記憶もみんなだ。誰にも語られない、誰にも証明することができない記憶をお前だけが持つ』
「…………」
『今以上に、変化し変貌することになる。左目 翁はお前のことを好きだったということを忘れ、峰 千早はお前が近づいてくれて友達になれたということを忘れ、楽座 怜那はお前に対抗意識を燃やすことなく、お前に興味を抱いたことを忘れる』
「…………」
『お前だけが、知ってる。お前しか、知らない。そんな世界になるだろうさ』
沈黙。
暫くの沈黙。
「その世界を、君はつくることができるものなのか?」
俺の質問に彼女は笑った。
豪快にも、可愛らしい笑い声だった。
『私がつくるものじゃない、お前がつくるんだよ』
願えば――
私に願えば――
『お前が願うのなら、私は未来そのものを変えよう。壊すのではなく、変えよう――』
唐突なことに、彼女の言葉を理解することはできなかった。
だから。
だからこそ。
「俺に変えたい未来なんてないけどな。勿論、二十八日からは抜け出さないといけないけれど」
なんて、おどけて曖昧にするのだった。
彼女の性格に少し近づいているような気がしたが、多分気のせいだろうと思う。




