11cm/m
二日後――峰さんが中層ビルの屋上から転落してから、二日後。
奇跡的に、彼女は一命を取りとめていた。
まさに、九死に一生を得る、と言える。
死んでもおかしくない高さからの落下だったけれど、落下地点に植えられた大量の植物と柔らかい土が緩衝材となり、運良く、命辛々、助かった。
しかしそれでも、高さが高さだったので、無傷と言うには程遠く、全身打撲やら骨折やらを負った重傷であった。
まぁ。
あの高さ――十階相当の高度からの落下で、それだけで済んだのだから不幸中の幸いと言えよう。
彼女が奇跡的に助かったことは素直に喜ぶべきだろう。
そして、私は今、お見舞いのため病室にいる。
峰さんのお見舞いではない――
訂正しておくと、何も峰さんのことが嫌いになったというわけではない。
むしろ、その点では、本音を互いに言い合って、言いたいことを吐き出して、より距離は縮まったように感じる。
峰さんの具合が良くなく、重傷が故に安定するまで面会は謝絶されているのだ。
行きたくとも。
看病したくとも。
事故直後ということもあり、それが叶うことはなかった。
偶然にも――
と言うか、近くの大型病院に搬送された峰さんは、必然的に弟が入院するそこで治療を受けることになった。
だから、まぁ。
容態が安定したら、峰さんのお見舞いもしてあげようと思う。
入院する棟は違うけれど、同じ病院内ということなら、看病もし易いだろう。
見舞い。
お見舞い。
弟の見舞い。
そこは私が日頃から惰性で通う弟の病室である。
毎日、とはいかないものの、朝早くに病室へと向かい、そのまま登校することも珍しくなく、下校途中に寄ることもしばしばあった。
予定のない休日は基本的に病室で過ごし、そのまま一夜を越すこともまた頻繁にある。
最早これは、私の毎日に組み込まれた一つの日常だ。
私にとって、何の変哲もなく過ごす、日常の一つ――
――なのかもしれない。
「やぁ、お姉ちゃん、元気にしてた?」
そんな、か細くも弱々しい声を怜也は発する。
どうやら今日は体調がいいとは言えないらしい。
病弱ながらも。
弱体しながらも。
普段ならば、精一杯の笑顔を見せるはずなのに。
まぁ、しかし。
かと言って、それが珍しいというわけではない。
それもまた普段通りと言えばそうだろうし、よく考えてみれば、私が見る弟の笑顔は私だけに見せるものなのかもしれないのだ。
青白い肌、細い体躯。
純白、蒼白。
容易く折れてしまいそうな、痩せこけた腕。
頬。
体を取り巻く多数の管。
そして――
治ることのない病。
不治の病。
難病。
それが、弟――怜也だ。
峰さんにすら負けてしまうほどの小さな体躯は、病気が原因なのか、それとも先天的なものなのか、もう今となってはわからない。
十二歳、まだ体格が発達していないのか。
それとも、六歳から六年もの間、この病室に囚われたせいなのか。
いずれにせよ、成長期の只中である六年間、入院生活を送っているのだ。
それもそうだろう。
間違っても、健康体とは言えないのだ。
怜也の病は、重い。
けれどそんな中でも――人生の半分を病室で過ごす怜也は完治を夢見、諦めることはなかった。
それどころか、病気の完治を確信しているかのように、将来について語るのだ。
希望を持ち、期待を抱いて、私に話すのだ。
「お姉ちゃんより、絶対先に彼女作ってやるから!」
退院を夢見て。
完治を確信して。
こんな小さな夢でさえ、怜也にとっては希望に成りうるのだろう。
もっと言えば、学校に行きたい、それだけで弟の望みは叶うのかもしれない。
「それよりさ、お姉ちゃんはいつになったら彼氏を連れてくるの?あれ……前にもこんな話したっけ。あぁ、あれは友達って言ってたんだっけ――」
「……連れてくるよ、いずれ、ね」
「おー!楽しみにしとく!」
だから、こんな約束ですら、笑顔を見せる。
弱々しくも、希望に満ちた笑顔を見せてくれる。
それが叶うことのない希望でも。
叶えることができない希望でも。
けれど――
そんな小さな約束ですら、私は守ることができそうになかった。
そんな約束が果たされることはないのだ。
反故にするわけでもなく、破綻させるわけでもなく。
いや、それを言えば、怜也と約束することそのものが既に破綻しているだろう。
何せ――
既に弟の希望が破綻しているのだから。
叶うことのない希望。
叶えることのできない希望。
望みのない願い。
望みのない夢。
遮断された将来。
怜也は将来に夢をあと幾つ描くことができるのだろうか。
果たして、弟にはあとどれだけの希望を抱くことが許されているのだろうか。
余命一年、そんな非常な宣告を受けてから、とうに一年は過ぎた。
いつ容態が悪化してもおかしくはない。
いつ心臓が止まってもおかしくはない。
そんな風に、担当医からは常々、覚悟の準備をさせられる。
その度に私は気落ちし、何も喉を通らなくなるのだけれど、そんなこと露知れず、怜也が語る未来に私は再起するのだった。
無邪気で、健気な弟が思い描く未来は、煌びやかで、誰もが羨むものだ。
本当に健気だと思う。
本当に無邪気だと思う。
そして、それ以上に痛々しいとも思う。
怜也の語る未来を聞く度に、私は哀れみにも似た感情を抱いてしまう。
自分の病態を聞かされていない弟は、やはり完治を確信しているのだ。
本当は、露ほどにしか余命は残っていないと言うのに――
私は怜也に最期まで希望を抱き続けて欲しいと願い、だからこそ、こうした破綻しきった約束だって交わすのだった。
真っ暗な未来が待っていようと、私はただ頷いて、弟が夢見る眩しい将来を聞くのだ。
聞けば聞くほど、私の気持ちは反面、闇に沈んでいくのだけれど。
「お姉ちゃん、何かあった?すげぇ暗い顔なってるけど」
「……ん」
「お姉ちゃん、何かあった?すげぇ黒い顔なってるけど」
「黒くない!白いわ!」
むしろ、微量の紫外線すらも気にして隅々までクリームを塗りたくっているのだ――純白と言っても過言じゃない。
いや、この表現だと、色白だとしてもべたべたしてそうだ。
「そっか、明日は来てくれるの?」
「うん、来るよ」
「看護士さんに教えてもらったんだけど、トランプで手品見せてあげるよ」
「へぇ――楽しみにしとく」
ほとんど寝たきりと言ってもいい病態なのだ、そういう遊びもいいだろう。
気が紛れるだろうし――まぁ、何も知らない怜也が紛れる気など持っているとは思えないけれど。
しかし、明日は来なかった。
厳密に言うと、当然、日が沈めば昇るように、次の日はやって来るのだけれど、怜也の『明日』は来なかった。
明朝、急激に容態が悪化した、という連絡を受けた私は足早に病室へと向かった。
余命一年、という宣告が脳裏を過ぎった。
◆
「あれ……お姉ちゃん、早いね。残念だけど、今ちょっと手品見せれそうにないや……」
「……冗談言ってる場合じゃないでしょ」
呼吸器を装着した姿を見て、そんな笑えない冗談に突っ込みなど入れる余地はなかった。
そんな余裕など、毛頭なかった。
それでも、私は少しの安堵感を覚えていた。
ため息のような深呼吸が漏れるほど、私は安心した。
かなり具合の悪そうな表情だったけれど、ただ生きていることにほっとしたのだ。
ほっとして。
泣いた――と思う。
「実はさ――知ってたんだよ。この病気が治らないってことも、死ぬかもしれないってことも。先生にこっそり聞いちゃった……」
「…………」
怜也の言葉に驚きを隠せなかったと思う。
驚愕に満ちた表情をしていたと思う。
けれどそれ以上に、私は泣いていた。
顔をしわくちゃにして、泣いていた。
訊きたいことも訊けないほど、泣きじゃくっていた。
「でもさ……お姉ちゃん優しいから、何も言わずに――将来のこととか、未来のこととか、笑わずに聞いてくれたよね」
私は怜也の手を握って。
細く小さな手を、折れんばかり握り締めて聞く。
「本当は、そんなこと願っても、意味ないんだけどね……」
でも――
でも――
「希望を持っていたのは本当。病気が治らなくても、明日死ぬかもしれないとしても、希望はあるんだよ……」
ねぇ――
ねぇ、お姉ちゃん――と。
「明日って当たり前のように来ると思ってるでしょ。日が沈んで夜になって、そしたら日が昇って朝になって――それが当然の日常なんだよね……それが毎日なんだよね……」
それは、私たちが送る日常のことを言っているのだろう。
私たちが過ごす、何の変哲もない毎日のことを指しているのだろう。
「俺にとっては、明日って本当に来るかわからないものじゃん――明日死ぬかもしれないんだからさ……。他の人は明日に希望を持ったりしないけど、俺は違うんだよ」
「明日にしか、希望を持てない……。明日死ぬかもしれないって、怖いよ――」
変わらない明日。
変わることのない日常。
その中で、明日に希望を持つ。
訪れるかわからない明日を夢見て。
やって来るかわからない明日を望んで。
怜也は――
全て知った上で、希望を語っていた。
それは、未来のものではなく――明日の希望。
明日を生きるための希望。
明日も生きたいがための希望。
今日生きて、明日も生きようという、希望。
「明日生きることができたら、お姉ちゃんと話できるし、また明日生きることができたら、またお姉ちゃんと話できるじゃん……遠い未来に希望を持つことはできなくても――俺でも、明日くらいには希望を持ってもいいよね……」
「……怜也」
私の声は、弟のものより小さく、細いものだった。
涙で弟の顔がよく見えない。
涙で上手く声を発することができない。
「本当に、明日って来るのかな……このまま寝たら、もう二度と目を覚まさないかもしれないって考えるだけで怖い。だから、全然寝付けずに、ずっと起きて朝を待ってたりする……」
怜也は力なく笑う。
薄っすらと消える笑い声を出すだけでも、苦しそうだった。
私は泣きじゃくりながら、「うん、うん――」と相槌を打つだけで精一杯だった。
「入院した当初は、退院したときのことを考えて、色々夢見たりしたけど――未来が段々と短くなってきて……、そうしたら今度は、明日のことを考えるだけに一生懸命になって……。俺からしたら、何も思わず毎日を過ごしてる人がおかしく見えるんだ……」
「そうだね……」
「お姉ちゃん――」
「俺って、死ぬのかな――」
私は怜也の細い体を抱きしめて。
抱きしめて。
弟の存在を確かに感じ取るように、目一杯の力で抱きしめて。
「死なないから。死なせないから――」
白いシーツが滲んだ。
◆
その後、楽しみにしていた手品を見ることなく、怜也は緊急治療室に移送され、一切の面会が謝絶された。
それは家族だろうが、許されることはなかった。
生か死か――
或いは、今日か明日か――
そんな状態だった。
『手品ならあるぞ、お前の目の前に』
くつくつと、白猫が笑う。
『見せてやらんこともない、お前が願えばな』
「……結構です」
望めるものか。
峰さんと左目さんから鑑みて、そんなことできるはずがない。
できるはずがないだろう。
関係を全て崩され、環境を壊され、悪い方ばかりへと誘うような『猫』に願うものなんて皆無だ。
そんな『猫』に叶えてもらいたいことなど、それこそ皆無だ。
だから私はきっぱりと断る。
全身全霊、意思を明確に、拒絶する。
けれど、どこかに心揺らぐものを感じたのは紛れもない事実だった。
それを自覚して。
あぁ、きっと峰さんと左目さんはこんな気持ちだったのだろう、と理解した。




