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黒猫センチメートル。  作者: 三番茶屋
39/56

11cm/m

 二日後――峰さんが中層ビルの屋上から転落してから、二日後。

 奇跡的に、彼女は一命を取りとめていた。

まさに、九死に一生を得る、と言える。

死んでもおかしくない高さからの落下だったけれど、落下地点に植えられた大量の植物と柔らかい土が緩衝材となり、運良く、命辛々、助かった。

しかしそれでも、高さが高さだったので、無傷と言うには程遠く、全身打撲やら骨折やらを負った重傷であった。

まぁ。

あの高さ――十階相当の高度からの落下で、それだけで済んだのだから不幸中の幸いと言えよう。

彼女が奇跡的に助かったことは素直に喜ぶべきだろう。

 そして、私は今、お見舞いのため病室にいる。

峰さんのお見舞いではない――

 訂正しておくと、何も峰さんのことが嫌いになったというわけではない。

むしろ、その点では、本音を互いに言い合って、言いたいことを吐き出して、より距離は縮まったように感じる。

峰さんの具合が良くなく、重傷が故に安定するまで面会は謝絶されているのだ。

行きたくとも。

看病したくとも。

事故直後ということもあり、それが叶うことはなかった。

 偶然にも――

と言うか、近くの大型病院に搬送された峰さんは、必然的に弟が入院するそこで治療を受けることになった。

 だから、まぁ。

容態が安定したら、峰さんのお見舞いもしてあげようと思う。

入院する棟は違うけれど、同じ病院内ということなら、看病もし易いだろう。

 見舞い。

 お見舞い。

 弟の見舞い。

そこは私が日頃から惰性で通う弟の病室である。

毎日、とはいかないものの、朝早くに病室へと向かい、そのまま登校することも珍しくなく、下校途中に寄ることもしばしばあった。

予定のない休日は基本的に病室で過ごし、そのまま一夜を越すこともまた頻繁にある。

最早これは、私の毎日に組み込まれた一つの日常だ。

私にとって、何の変哲もなく過ごす、日常の一つ――




――なのかもしれない。




「やぁ、お姉ちゃん、元気にしてた?」

 そんな、か細くも弱々しい声を怜也は発する。

どうやら今日は体調がいいとは言えないらしい。

病弱ながらも。

弱体しながらも。

普段ならば、精一杯の笑顔を見せるはずなのに。

 まぁ、しかし。

かと言って、それが珍しいというわけではない。

それもまた普段通りと言えばそうだろうし、よく考えてみれば、私が見る弟の笑顔は私だけに見せるものなのかもしれないのだ。

 青白い肌、細い体躯(たいく)

純白、蒼白。

容易く折れてしまいそうな、痩せこけた腕。

頬。

体を取り巻く多数の管。

そして――

治ることのない病。

不治の病。

難病。

それが、弟――怜也だ。

峰さんにすら負けてしまうほどの小さな体躯は、病気が原因なのか、それとも先天的なものなのか、もう今となってはわからない。

十二歳、まだ体格が発達していないのか。

それとも、六歳から六年もの間、この病室に(とら)われたせいなのか。

いずれにせよ、成長期の只中である六年間、入院生活を送っているのだ。

それもそうだろう。

間違っても、健康体とは言えないのだ。

怜也の病は、重い。

 けれどそんな中でも――人生の半分を病室で過ごす怜也は完治を夢見、諦めることはなかった。

それどころか、病気の完治を確信しているかのように、将来について語るのだ。

希望を持ち、期待を抱いて、私に話すのだ。



「お姉ちゃんより、絶対先に彼女作ってやるから!」



 退院を夢見て。

完治を確信して。

 こんな小さな夢でさえ、怜也にとっては希望に成りうるのだろう。

もっと言えば、学校に行きたい、それだけで弟の望みは叶うのかもしれない。


「それよりさ、お姉ちゃんはいつになったら彼氏を連れてくるの?あれ……前にもこんな話したっけ。あぁ、あれは友達って言ってたんだっけ――」

「……連れてくるよ、いずれ、ね」

「おー!楽しみにしとく!」


 だから、こんな約束ですら、笑顔を見せる。

弱々しくも、希望に満ちた笑顔を見せてくれる。

それが叶うことのない希望でも。

叶えることができない希望でも。



 けれど――

そんな小さな約束ですら、私は守ることができそうになかった。

そんな約束が果たされることはないのだ。

反故にするわけでもなく、破綻させるわけでもなく。

いや、それを言えば、怜也と約束することそのものが既に破綻しているだろう。

 何せ――

既に弟の希望が破綻しているのだから。

叶うことのない希望。

叶えることのできない希望。

望みのない願い。

望みのない夢。

遮断された将来。

 怜也は将来に夢をあと幾つ描くことができるのだろうか。

果たして、弟にはあとどれだけの希望を抱くことが許されているのだろうか。

余命一年、そんな非常な宣告を受けてから、とうに一年は過ぎた。

いつ容態が悪化してもおかしくはない。

いつ心臓が止まってもおかしくはない。

そんな風に、担当医からは常々、覚悟の準備をさせられる。

その度に私は気落ちし、何も喉を通らなくなるのだけれど、そんなこと露知れず、怜也が語る未来に私は再起するのだった。

無邪気で、健気な弟が思い描く未来は、(きら)びやかで、誰もが羨むものだ。

 本当に健気だと思う。

 本当に無邪気だと思う。

そして、それ以上に痛々しいとも思う。

怜也の語る未来を聞く度に、私は哀れみにも似た感情を抱いてしまう。

自分の病態を聞かされていない弟は、やはり完治を確信しているのだ。

本当は、露ほどにしか余命は残っていないと言うのに――

 私は怜也に最期まで希望を抱き続けて欲しいと願い、だからこそ、こうした破綻しきった約束だって交わすのだった。

真っ暗な未来が待っていようと、私はただ頷いて、弟が夢見る眩しい将来を聞くのだ。

聞けば聞くほど、私の気持ちは反面、闇に沈んでいくのだけれど。





「お姉ちゃん、何かあった?すげぇ暗い顔なってるけど」

「……ん」

「お姉ちゃん、何かあった?すげぇ黒い顔なってるけど」

「黒くない!白いわ!」

 むしろ、微量の紫外線すらも気にして隅々までクリームを塗りたくっているのだ――純白と言っても過言じゃない。

いや、この表現だと、色白だとしてもべたべたしてそうだ。

「そっか、明日は来てくれるの?」

「うん、来るよ」

「看護士さんに教えてもらったんだけど、トランプで手品見せてあげるよ」

「へぇ――楽しみにしとく」

 ほとんど寝たきりと言ってもいい病態なのだ、そういう遊びもいいだろう。

気が紛れるだろうし――まぁ、何も知らない怜也が紛れる気など持っているとは思えないけれど。

 


 



 しかし、明日は来なかった。

厳密に言うと、当然、日が沈めば昇るように、次の日はやって来るのだけれど、怜也の『明日』は来なかった。

 明朝(みょうちょう)、急激に容態が悪化した、という連絡を受けた私は足早に病室へと向かった。

 


 余命一年、という宣告が脳裏を過ぎった。









        ◆






 

「あれ……お姉ちゃん、早いね。残念だけど、今ちょっと手品見せれそうにないや……」

「……冗談言ってる場合じゃないでしょ」

 呼吸器を装着した姿を見て、そんな笑えない冗談に突っ込みなど入れる余地はなかった。

そんな余裕など、毛頭なかった。

 それでも、私は少しの安堵感を覚えていた。

ため息のような深呼吸が漏れるほど、私は安心した。

かなり具合の悪そうな表情だったけれど、ただ生きていることにほっとしたのだ。

 

 ほっとして。

 







 泣いた――と思う。






「実はさ――知ってたんだよ。この病気が治らないってことも、死ぬかもしれないってことも。先生にこっそり聞いちゃった……」

「…………」

 怜也の言葉に驚きを隠せなかったと思う。

驚愕に満ちた表情をしていたと思う。

けれどそれ以上に、私は泣いていた。

顔をしわくちゃにして、泣いていた。

訊きたいことも訊けないほど、泣きじゃくっていた。

「でもさ……お姉ちゃん優しいから、何も言わずに――将来のこととか、未来のこととか、笑わずに聞いてくれたよね」

 私は怜也の手を握って。

細く小さな手を、折れんばかり握り締めて聞く。

「本当は、そんなこと願っても、意味ないんだけどね……」

 

 でも――

 でも――


「希望を持っていたのは本当。病気が治らなくても、明日死ぬかもしれないとしても、希望はあるんだよ……」


 ねぇ――

 ねぇ、お姉ちゃん――と。


「明日って当たり前のように来ると思ってるでしょ。日が沈んで夜になって、そしたら日が昇って朝になって――それが当然の日常なんだよね……それが毎日なんだよね……」

 それは、私たちが送る日常のことを言っているのだろう。

私たちが過ごす、何の変哲もない毎日のことを指しているのだろう。

「俺にとっては、明日って本当に来るかわからないものじゃん――明日死ぬかもしれないんだからさ……。他の人は明日に希望を持ったりしないけど、俺は違うんだよ」







「明日にしか、希望を持てない……。明日死ぬかもしれないって、怖いよ――」






 変わらない明日。

変わることのない日常。

その中で、明日に希望を持つ。

訪れるかわからない明日を夢見て。

やって来るかわからない明日を望んで。

 怜也は――

全て知った上で、希望を語っていた。

それは、未来のものではなく――明日の希望。

明日を生きるための希望。

明日も生きたいがための希望。

今日生きて、明日も生きようという、希望。



「明日生きることができたら、お姉ちゃんと話できるし、また明日生きることができたら、またお姉ちゃんと話できるじゃん……遠い未来に希望を持つことはできなくても――俺でも、明日くらいには希望を持ってもいいよね……」

「……怜也」

 私の声は、弟のものより小さく、細いものだった。

涙で弟の顔がよく見えない。

涙で上手く声を発することができない。

「本当に、明日って来るのかな……このまま寝たら、もう二度と目を覚まさないかもしれないって考えるだけで怖い。だから、全然寝付けずに、ずっと起きて朝を待ってたりする……」

 怜也は力なく笑う。

薄っすらと消える笑い声を出すだけでも、苦しそうだった。


 私は泣きじゃくりながら、「うん、うん――」と相槌を打つだけで精一杯だった。


「入院した当初は、退院したときのことを考えて、色々夢見たりしたけど――未来が段々と短くなってきて……、そうしたら今度は、明日のことを考えるだけに一生懸命になって……。俺からしたら、何も思わず毎日を過ごしてる人がおかしく見えるんだ……」

「そうだね……」

「お姉ちゃん――」











「俺って、死ぬのかな――」













 私は怜也の細い体を抱きしめて。

 抱きしめて。

 弟の存在を確かに感じ取るように、目一杯の力で抱きしめて。

 



「死なないから。死なせないから――」



 

 白いシーツが滲んだ。










        ◆








 その後、楽しみにしていた手品を見ることなく、怜也は緊急治療室に移送され、一切の面会が謝絶された。

それは家族だろうが、許されることはなかった。

 生か死か――

或いは、今日か明日か――

そんな状態だった。


『手品ならあるぞ、お前の目の前に』

 くつくつと、白猫が笑う。

『見せてやらんこともない、お前が願えばな』

「……結構です」

 望めるものか。

峰さんと左目さんから鑑みて、そんなことできるはずがない。

できるはずがないだろう。

 関係を全て崩され、環境を壊され、悪い方ばかりへと誘うような『猫』に願うものなんて皆無だ。

そんな『猫』に叶えてもらいたいことなど、それこそ皆無だ。

 

 だから私はきっぱりと断る。

全身全霊、意思を明確に、拒絶する。



 けれど、どこかに心揺らぐものを感じたのは紛れもない事実だった。

それを自覚して。

あぁ、きっと峰さんと左目さんはこんな気持ちだったのだろう、と理解した。



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