10cm/m
峰さんの黒い左目が微かに揺れる。
そしてわずかに、滲んでいた。
「そうですよ、楽座さんの言う通り、僕の望みなんて友達にこじつけて願ったに過ぎない身勝手なものかもしれません。どうしようもなく自己嫌悪しているんですよ。どうしようもないくらいに、どうしたらいいのかわからないくらい、自分のことが嫌いで、嫌いで仕方ないんですよ」
「…………」
「僕の気持ちわかりますか。『あの左目』は僕にとって全ての元凶だったんですよ。いじめ、なんて生半可なものじゃなかったですよ。そのせいで母親から逃げられ、先生やクラスメートも僕を除け者にしたんですよ」
峰さんは続ける。
「過去に友達と言えたクラスメートのあの子も、僕が好きだったあの子も、僕と関係があるということだけで囃し立てられて、いじめを受けました――それも、全部、僕のせいで――『あの左目』のせいなんですよ」
「……そうなの、別にそれは左目のせいではなく、峰さん、あなた自身の問題もあるんじゃない」
「わかってますよ!そんなこと言われなくても!だから、だから願ったんじゃないですか……」
「なら、友達と対等になりたいとか、そんな嘘臭い御託はいいから、自己嫌悪に陥る自分から逃げたくて過去を壊した、と訂正した方がいいよ」
「――!」
私の痛烈な言葉に、峰さんは露骨に表情を歪ませた。
眉間に皺をこれでもかと寄せ、その様は美少女とも言えない姿だった。
いじめを行っていた、あの時と同じ面持ちだ。
友人である峰さんに、こうも酷い言い方をしてしまっている私もまた、似た表情をしているかもしれない。
どうしても、鼻についたのだ。
峰さんの悲劇の主人公振った態度がどうしても気に入らなかったのだ。
自分の犯した過ちに気付かず、のうのうと利己的な意見を垂れる彼女に苛立ちを覚えたのだ。
感情的になっていると思う。
久しぶりに、こんな酷い言葉を使ったと思う。
まさか、峰さんに対してこんな態度を取るとは思ってもいなかった。
彼には大言壮語を吐いて、峰さんを任せてと言っておきながら、この様だ。
まぁ、任せるも何も、一体全体何をすればいいのかわからなかったけれど。
結局、やってしまった取り返しのつかないことで、後戻りもない手遅れな状況だったのだ。
この後に及んで、一体何をすべきなのかと思った。
優しく接したところで、何かが変わるわけがない。
かと言って、責め立てたところで、取り戻せることもないだろう。
どんな状況になれど、私たちは友達だよ、とでも言ってあげればよかったのだろうか。
そう伝えれば、峰さんの気持ちも少しは和らぐのだろうか。
私にはわからなかった。
今までどんな難問でも答えを見出してきたけれど、これは初めて経験する超難問だった。
難問と言うか、難関である。
それは、どんな言葉を掛けたところで、超えられないように思えた。
攻略不可の砦を目の当たりにしている気分だった。
「もう後戻りできないんですよ。何と言われようが、どんな罵声を浴びせられようが、もう手遅れなんですよ。僕が過去を壊す以前から、僕自身すでに手遅れだったんですから」
峰さんは薄っすらと歪んだ微笑を浮かべる。
自傷症が浮かべるような、自虐的なものだった。
「……手遅れ、ね」
「そうです。もう何もかも、手遅れ。僕が過去を壊したのもそうですし、左目さんが同じように現在を壊した結果、僕たちの関係もどうしようもなく手遅れです。もうこの亀裂を復元するには難しいですよね。僕と左目さんが生んだ軋轢は、もう取り返しがつきません」
その通りだ、と思った。
私たちの間にあった友情とやらは、すでに崩壊している。
それだけでなく。
私たちも、その周囲も、何もかもが変わってしまって、壊れてしまった。
峰さんのせいで――
左目さんのせいで――
何より、『猫』のせいで――
こんな荒唐無稽で、魑魅魍魎の類に全部めちゃくちゃにされた。
台無しにされた。
何も、二人だけの責任ではない。
全ての元凶であり、問題の根源でもあるのは、紛れも無くこの『猫』なのだから。
こんな。
こんな小さな猫に、私たちの関係を――
「手遅れ、ということはないかもしれない」
壊されてたまるものか。
壊されて、たまるものか。
「確かに取り返しはつかない、けれど、これからのことは手遅れじゃない。過去と現在が壊れたのなら、私は未来に希望を持ちたい」
それは。
その言葉は。
私の本心であり。
本音だった。
「もう、駄目ですよ……楽座さんに言ったのは僕の嘘偽りない言葉なんです。言ってしまった以上、もう友達に戻ることなんてできません」
だから、私は言葉を選び、取捨選択をし、吟味をし。
感情的にならず、取り返しのつかなくなってしまった『今』、私のすべきことをする。
「私は、『峰さん』と今日初めて会ったのだけれど、友達に戻るってどういうこと?」
と、私は笑った。
今度は嘲笑なんかではなく、純粋な笑みだったと思う。
しかし。
今度は峰さんが、やり返さんばかりに、私を嘲笑うのであった。
ははっ、と声を漏らて。
鋭い視線が刺さった。
――心に。
◆
「未来に希望を持つ、ですか。そんなことに何の意味があるんですか。僕に希望があるように思えますか?今まで一度たりとも希望を持ったことなんてないですよ。ただ平凡な毎日を過ごして、いじめられて、いじめて、そんな明日に何の未来があると言うんですか」
ぶちっ、と。
ぶちぶちっ、と。
峰さんの、その言葉は私の『何か』を切るのに十分過ぎるものだった。
堪忍袋の緒が切れる、そんな表現では足りない。
こめかみの奥の方で血管が本当に切れてしまったのではないかと思うほどだった。
もしかすれば、その音は峰さんにまで届いているのかもしれない。
希望がない――
希望を持つことに意味がない――
平凡な毎日――
明日――
明日が本当に来ると思っているのか。
同じような毎日が来ると思っているのか。
明日に希望を持つことが無意味だと、本当にそう思っているのか。
何の変哲もない明日にも――そんな明日にすら希望を抱かざるを得ない人の気持ちを詰って――
そんな、弟の気持ちを――
怜也――
「もういいわ、あなたに優しい言葉を掛けた私が馬鹿だった。未来に何も希望を抱かない、そんなの無意味だって?まさか、峰さんからそんなこと言われると思ってもいなかった。なら、峰さん――ねぇ、峰さん。あなたはずっとここで誰かをいじめて、八つ当たりしてればいい。結局、『前』と同じ、自己嫌悪に陥るのがオチだと思うけれど」
「でも本当のことじゃないですか。僕がいじめる人も、僕をいじめた人も、未来に何か希望を抱いているようには見えませんでした。誰もが同じような毎日を繰り返して、同じようにいじめているんですから」
「お前の考えを押し付けるな!」
私は峰さんに負けない勢いで怒鳴った。
初めて、人に怒声を浴びせた。
「一つだけ言ってあげる!『今』のお前は、私の知る『峰くん』じゃない!自分のトラウマに負けた――ただ逃げてる弱いやつだ!」
「楽座さんに何がわかるって言うんですか!僕のことなんか、何も知らないじゃないですか!」
「わからない!わかりたくもない!」
「どうしようもないトラウマのせいで、どんないじめを受けてきたか、そんなの知らないでしょう!」
「トラウマなんか――トラウマなんか、誰でも持ってるんだよ!どうしようもないコンプレックスとか、どうにもならない傷とか、皆抱えて生きてるんだ!お前だけじゃない、誰もがそれと向き合いながら折り合いつけて生きてるんだよ!」
「…………」
屋上に響く二人の叫びは、多分誰にも聞こえていない。
私たち二人だけ。
二人だけの、本音の言い合い。
叫び合い。
白猫も、青猫も、興味が無さそうに微動だにしなかった。
「思い出したくない過去とか、嫌な思い出とか、そんなの皆等しく持ってる。峰さんだけじゃない、私だって、どうにもならないことだってある」
弟の顔を思い出して。
私は語る。
「そのせいでいじめられたとか、家族が逃げたとか、トラウマに責任転嫁しないで。トラウマのせいにしないで……」
希望を持つことに意味がないとか。
明日は必ずやってくるとか。
何の変哲のない毎日は訪れるとか。
そんなこと言わないで――
「なら……僕はどうしたらいいんですか。こんな姿になって、こんな醜態晒して、今更戻ることなんてできませんよ――」
「自分で考えてよ。トラウマから逃げた後は、教授を請うって言うの?私に聞かないで」
「もう千尋くんや、左目さん、楽座さんとも友達に戻れませんね……」
「あなたなんか、最初から知らない。少なくとも私は、『峰さん』なんて人は知らない」
「――ですか」
峰さんは力尽きたように、鉄柵にもたれた。
肩を落として、顔を伏せて、全体重をそれに預けるように項垂れた。
「そんな姿になって、惨めだと思う。哀れだと思う。あなたの幼稚な考え方には同情すら覚えるし、子供みたいな言い訳には本当に呆れる」
けれど。
けれど――と私は続ける。
「戻れなくとも、進むことはできるんじゃない?」
これが最後の言葉だ。
私が、峰さんに掛けることのできる最後の言葉だ。
差し伸べられる最後の手だ。
今からでも遅くない。
手遅れだなんて、そんなわけない。
私は――友達のことなら、全部受け止める。
醜い姿だって、真っ黒な腹の中だって、全部理解する。
何より。
こんな荒唐無稽、魑魅魍魎に壊されてたまるか。
こんなにも簡単に――一日に全てを潰されてたまるか。
こんなにも歪んだ青春なんて、私は認めない。
私たちがけが持つ『過去』の記憶が偽りだったなんて言わせない。
言いたくない。
誰にも語られることのない思い出、そんな風に終わらせたくない。
誰にも語ることのできない思い出、そんな風に終わらせたくない。
だから。
だから私はもう一度――峰さんに手を伸ばす。
伸ばすから、捕まって欲しい。
トラウマなんかに負けずに。
『猫』なんかに負けずに。
「僕は僕のままで良かったのかもしれない――」
独り言のように、そう呟いた峰さんの背後で、耳を刺すような金属音と共に鉄柵が後ろに倒れた。
屋上を囲った鉄柵の後方。
ビル八階分の高さ。
峰さんが宙に投げ出される。
私が差し伸べた手と、峰さんが伸ばした手が繋がることはなかった。
『にゃおん』と鳴き声が聞こえて、青色の猫が消えた。
立つ鳥後を濁さず、とは言うけれど、とんでもないものを残して――どうしようもない状況作るだけ作って、消えていくのであった。