9cm/m
結果から言うと、峰さんに逃げられた。
私がゆっくりと階段を上るのに対し、頭上から聞こえる彼女の足音は徐々に早く、激しくなる。
金属を打つ甲高い音だったのが、鈍く重い音に変化して。
時折聞こえる、焦って足を踏み外したような轟音から伺うに、これはどう考えても私から逃げているのだろう。
なら、どうして声をなんか掛けたのだろうか。
最初から逃げるのなら、私が気付いていない内にそっと身を隠せばいいものを。
まぁ峰さんからしても、私との偶然の邂逅は思ってもいなかったことなのかもしれない。
突拍子のないことで。
まさか、であって。
思わず声を上げてしまったのだろう。
しかし。
しかし、まぁ。
いじめ現場に割って入ったあの時もそうだったが――人の顔を見て恐れるように逃走されると、本当に傷つく。
勿論、恐れをなして逃げるほど怖い表情はしていないのだけれど――そんなことはわかっているつもりだけれど、友人にこうも露骨に逃げ回られるとショックで泣きそうになってくる。
あぁ。
もしかして、これが時代に合わせて進化したいじめだとというのだろうか。
陰気で、陰湿で、対象の精神をへし折りにかかる彼女の逃走は、本来あるべきいじめの姿に戻ったと言ってもいいのかもしれない。
まさか、友人にこんなことをされるなんて――
と言う冗談はともかく。
兎に角。
峰さんが私から逃げる理由は概ね予想がつく。
その予想はおそらく的確なものだろう。
『猫』のこと。
過去を改変したこと。
性別の変化。
黒い左目――
それも的を射ているだろうし、むしろそれら以外に他に思い当たることがない。
それらからくる罪悪感なのか。
責め立てられることへの恐怖なのか。
惨めな姿に同情されるのが嫌なのか。
それとも、自己嫌悪に陥った自分に優しくされることを厭うのか。
これもまた、どれも強ち間違っていないだろう。
だからこその懸念だった。
懸念であり、不安でもあった。
ゆっくりと歩みを進めているからと言って、何も優雅に階段を上っているというわけはない。
心中は決して穏やかではなかった。
不安で満ち満ちていた。
中層ビル。
非常階段。
屋上。
峰さんの荒んだ有様。
こんな状況で落ち着いていられるわけがなかった。
まさか、だろうとは思うが、それでも一抹の不安を覚えないわけにもいくまい。
まさか。
まさか、投身自殺なんて真似はしないだろう。
屋上に追い詰められた形になってしまった峰さんが、勢いに任せて飛び降りるなんてこと――
「……何してるの」
だから私は刺激を与えまいと、頭の高さにまで至る錆びた鉄柵を背に蹲った峰さんを見て、静かに言う。
「――んです」
「うん?」
「楽座さんを見て、思ったんです。そんなはずないですよね、そんな都合良く『過去』が変わって『現在』が変わるわけないですよね」
峰さんは姿勢を変えず、私を見つめる。
その表情は。
その哀れな表情は。
脆く崩れ去ってしまいそうな、弱々しいものだった。
まさに、今すぐにでもここから飛び降りてもおかしくはないと、そう感じた。
「そ、そうですよね。楽座さんもまた『猫』を持っているんだから――」
彼女の隣に、青い猫が見える。
そして、私の隣に座る白い猫もまた、彼女に見えている。
互いが対峙するように、いがみ合うように、『猫』は一点を見据えていた。
「ぼ、僕がどうしてこんな姿になったのか、その話を聞きたいんですか?」
「えぇ――」
峰さんが自らのことを、僕、と名乗ったことに少々の違和感を感じたが、男子だった頃の彼を知っているのでそれはすぐに消え去った。
最近では、一人称に、僕、を使用する女子が増加しているらしいけれど。
まぁ、ここでそんな突っ込みを入れるほど私は空気が読めない人間ではない。
「僕は――」
僕は――
僕は――
彼女は語る。
追い詰められた故に、全てを打ち明かす犯人のように。
◆
僕が幼い頃からいじめを受けていたのは、この左目のせいです。
左目――青い、左目。
僕は人工的に作られた子供だったんです。
母親と呼ぶべき人はいましたけれど、父親はいません。
父親は、どこか知らない国の知らない人です。
もう、わかりますよね。
周囲とは違うと気付いたのは小学生の頃ですね。
そのせいで、家庭環境も複雑でした。
母親はもういません。
多分どこかで、違う人と一緒になって暮らしてます。
僕を放って。
放置して。
もう随分昔のことですけど。
だから僕はずっと独りで、あの一軒家で暮らしています。
お金は毎月振り込んでくれているので、その点に関して言えば、母親と呼べますね。
左目――青い左目のせいで、いじめを受けて。
そして、したくもない復讐をして。
自分でもわけがわからなくなるんです。
ただストレスを発散しているだけなのか、それとも、八つ当たりしているだけなのか。
どっちも正解な気がします。
けれど、そんな僕にも友達ができました。
青い左目を綺麗だと、言ってくれた友達ができました。
こんな醜い僕に優しく接してくれる友達です。
一緒に笑い合える――僕にとってそれは初めてのことだったんです。
クラスメートとはいじめの被害者か加害者でしかない、そう捉えていた僕にも、一筋の光が見えたようでした。
本当に、光、です。
文字通り。
一緒に遊びに出掛けたり、笑ったり、冗談を言い合ったり。
あまり会話に混じることはできませんでしたが、僕はそれを近くで――彼らと一緒に、傍でそれを聞いているだけで幸せでした。
こんな醜い僕を。
こんな醜悪な僕を。
哀れな僕を。
もう手遅れな僕を。
青い僕に――手を差し伸べてくれました。
同情ではなく、純粋に一人の友人として。
それがどれほど痛快なことだったか、変わってしまった『今』でも覚えています。
千尋くんが友達として扱ってくれて、左目さんにはタイヤキを奢ってもらって、楽座さんとは初対面なのに話しやすくて。
けれど、そんな優しい友達に囲まれて、こうも思いました。
本当に、僕がこんな扱いを受けていいのだろうか。
こんなに良くしてもらって、果たして僕は彼らに何か恩返しができるのだろうか。
そう考えた結果、笑えることに僕には何もありませんでした。
友達にあげられるものなんて、何一つなかったんです。
今までそんな対象が一人としていなかったんですから、それもまた当然のことですよね。
だから。
だから――
僕は願いました。
友達と肩を並べたいと。
引け目を感じることがなく、彼らの隣にいるための資格が欲しいと。
それはつまり。
長い期間いじめを受けて、荒んでしまった僕の心を変えるということです。
トラウマさえ。
過去のトラウマさえ無くなれば、僕は胸を張って彼らの友人と、そう名乗れると――
そう思いました。
けれど、今思えば、それは間違っていたんです。
彼らは――
友達は、それを含めた僕の全てを受け入れてくれていたんだと。
『過去』を壊して、環境が変化した今――
『僕はいじめを仲裁してくれた千尋くんと、左目さんの存在を思い出したんです』
「僕は、僕の過去を全て壊しました。そうしたらいつの間にか、被害者ではなく、加害者になってしまっていたんです。立場が逆転していたんです。それだったら尚更、こんな姿の自分を友達に見せることなんてできない……」
「……自分のことが嫌いなのね」
峰さんが語る過去。
やはり、私の予想は的中していた。
彼女が抱える悩み。
それは想像を絶するほど、聞き手に伝わるほど、痛々しいものだった。
左目さんと同じく、峰さんもまた思い悩み、思い詰めて、その結果『猫』に願ってしまった。
そういうことなのだろう。
自分の姿を否定し、厭い。
全ての元凶は自分にあると。
全ての責任は自分にあると。
そんな自分に、友達の隣にいる資格はないと言った。
そんな自分だから、友達の隣にいることに引け目を感じると言った。
自分が変わらなければ、何も変わらない。
トラウマさえ消してしまえれば、変われる。
姿も、性別も、心境も。
青い左目も――
そして。
変わってしまった。
この『現在』と同じように、変化してしまった。
何もかも。
本末転倒よろしく、何もかも。
友人関係や周囲をとり巻く環境は崩れ去り、トラウマのなくなった彼女は加害者になってしまった。
それは、今までに受けた迫害の報復であり、復讐でもあり、八つ当たりでもあるのだろう。
変わってしまった自分に対する苛立ち。
ストレス。
八つ当たり。
思い描いていた望みとは異なる結果だ。
友達と対等な関係でいたいがために望んだ結果が、これだ。
しかし反面、そんな恣意的な――身勝手で故意的な願いの結果、どれほどの他人を巻き込んだのか。
彼女は考えてもいないだろう。
そんなこと、想像もしていなかっただろう。
けれど。
だけれど、だからこそ。
私は峰さんに歩み寄った。
ゆっくりと、しかし確実に。
距離を詰めて、雨に晒されて変色したコンクリートに座り込んだ彼女の前に立つ。
立って。
立ち止まって。
こちらを見上げる峰さんに向かって言う。
「可愛いよ。女の子になった峰さんも、可愛いと思う」
青い左目がなくなったのは残念だけどね、と私は付け加えた。
「やめて、ください……。ぼ、僕にそんなことされる資格なんて――」
「友達に資格なんているの?なら、それ見せてよ」
「いや、それは――」
「いつまで自虐しているつもり?峰さんのやったことは、やってしまったことはいくら友達のためとは言っても、それって結局自分のためじゃない?と言うか、峰さんがどんないじめを受けてたとか、思い出したくもない過去があるとか、そんなこと誰も気にしていない。彼も、左目さんも、私も――」
私は少しだけ感情的になりつつあった。
無駄な刺激を与えないように、慎重に言葉を選ぶわけでもなく、むしろ塞ぎ込んでしまった峰さんを叱咤激励するが如く、強い口調で言った。
彼女の姿に、少々の苛立ちを覚えたのかもしれない。
「青い左目とか、複雑な家庭環境とか、生活とか、関係なく私たちは峰さんが好きで、友達になったんだと思う」
私は続ける。
それに、と続ける。
「友達に引け目を感じたり、対等な関係を憧れたり、まぁそんなこと思うのは峰さんの勝手だけれど、少なくとも私はそんなこと感じたことがない。身勝手な被害妄想で、身勝手な願いで、めちゃくちゃにしないで」
「…………」
どうやら、その言葉は効いたらしく、峰さんは沈黙した。
叱咤激励と言うより、見方によっては責め立てているようにも捉えることができるが。
峰さんはこう言われるのが目に見えていたから、私から逃げたんだろう。
それが例えば、彼だとしても逃げただろうし、左目さんでもそうしただろう。
沈黙は長く続いた。
それは十分だったのか、三十分だったのか。
或いは、そう感じただけなのか。
鉄柵に体重を預けながら、体を起こした峰さんが発する。
沈黙を破る。
「――せぇんだよ」
「うるせぇんだよ!!」
峰さんの怒声が響く。
思いもよらない彼女の声に私は驚くどころか、不思議と納得して、自然と、不謹慎にも笑みをこぼしてしまった。
峰さんの本当の姿。
『現在』の彼女の姿。
それはあまりにも滑稽で、同情の余地もないほどに哀れだった。
だから、その私の笑みが何だったのかと言えば。
それは嘲笑だったのだろう。