10cm/s
「久しぶり、相変わらず時間にはルーズなんだね」
「遅刻したような言い方するな、時間までまだ五分あるよ」
午後五時三十分。
公園の中央に位置する、巨大な噴水のある広場で、彼女は立っていた。
背後で水しぶきが舞う。
彼女。
彼女――
左目 翁。
現在を変えた左目。
現在を壊した左目。
愛情に狂った左目。
嫉妬に狂った左目。
そして。
それらの元凶とも言えるべき――猫。
それは赤い――猫だった。
彼女が仁王立つ隣に、小さく座った『赤猫』。
やはり、そうだったのかと思った。
左目が本当に現在を壊してしまったのか、とようやく実感する。
逆に言えば、やっと。
裏を返せば、ついに。
左目の行為を心のどこかで否定していた部分があったけれど、こうして『赤猫』を目の当たりにして、そんな淡い希望は脆くも崩れ去ってしまった。
まぁ、それも元々可能性の低い期待ではあったが。
それでも、どこか痛々しい気分になる。
悲しくもなる。
以前までの左目はもういない――なんて、センチメンタルにならなくもないけれど、目の前にいる左目こそ本当の彼女であり、本来の姿なのだと、そう感じた。
いや、過去の左目が――自分を含めた四人だけが持つ記憶の中の左目が偽物だったということではないが。
それも含めて、全て、左目なのだろう。
けれど。
俺はそんな左目のことを誤解していた。
学年最下位という学力とは関係なく、彼女の思考はシンプルで明快なものだと、そう誤解していた。
誤って、彼女のことを捉えていた。
それは自分が鈍感だから――という理由で片付かなくもない。
よくよく考えてみれば、一度振った男に対して、何も考えなしに自然体で接するなんて真似ができるはずがないのだ。
そんなこと。
その程度のことに頭が回らなかったのだ。
実際、左目は思っている以上に何かを内に抱えていて、黒い一面を持っていて、嫉妬深く、狂おしいほど他人を愛することができて――
短くはない期間を共にしてきたというのに、彼女の素性一つでさえ見抜けなかったのだ。
恋愛に疎いだとか、鈍感だとか、それだけでなく、洞察力にも欠けていたのかもしれない。
だからこそ、去年末に彼女の告白を断ったことは、それらに起因するものだったのだろう。
自分では知らず知らずに。
左目のことを知らないから。
左目のことを知ろうとしないから。
そう考えれば、左目に対して感傷的になるというより、自分自身に対してそう感じなくもなかった。
憤りを感じなくもなかった。
やり場のない、この感情は、曖昧で。
もやもやで。
朦朧としてしまう。
「あたしが――」
と、左目が口を開けた。
隣に猫を連れて、お互いに対峙する形。
今からまさに、決闘でもしそうな様だった。
こうして、向き合うことに奇妙な違和感を覚えて、そして何より、左目の様子にも同じものを感じた。
重い雰囲気がそう感じさせているのかもしれない。
彼女の重い面持ちがそう感じさているのかもしれない。
けれど、明確にそれが何故か、という疑問を導く解答は得られなかった。
「どうしてこんなこと、しちゃったのか、わかる?」
「…………」
「どうして、赤い猫に願っちゃったのか、わかる?」
「…………」
俺はあえての沈黙。
辛そうに訊く左目が、痛々しくて。
こっちまで辛くなってくる。
同情するし、憐れみにも似た目で見てしまう。
ことの元凶が猫とは言え――彼女をこうしてしまった原因の根源にあるのは、紛れもない、自分自身だ。
だからこそ、どうしようもなく、苦しかった。
「どうして、あたしが教室に火をつけたか、わかる?」
「…………」
やっぱり、そうだったのか。
どんな手段を用いて、そんなことをしたのか、と質問をしようとした寸前で、それを飲み込んだ。
ごくり、と。
生唾を飲み込んだ。
「わからないよなぁ、わかるわけないよ。千尋って、あたしのこと何も知らないもんね。知ろうともしないもんね。あたしがどんな人間で、どんな腹黒い女の子なのか、そんなこと気にもしないもんね」
「……だね」
「ねぇ、ねぇ千尋――あたしが千尋のことを好きになってしまったからいけないのかな?そもそも、それが原因でこんなことになっちゃったのかな?大事な友達に対して妬いて、憎んで、怒って――自分でもわからない内に、好意から悪意に変わってたんだよね。教室に火つけるなんてことまでしちゃってさ」
それは。
左目の言う、それは。
懺悔にも似た言葉だった。
「ほんと、どうして、だろうね……」
こういう場合、どうしたらいいのか。
どうするべきなのか。
どんな言葉を掛けるべきなのか。
そんなことが頭の中をぐるぐると回った。
「現在を変えるとか、壊すとか、あたしには未だよくわからないけれど、でもさ、結局意味なんてなかった。だって千尋が以前の記憶を持っているんだから。それもそうだよね、そんな都合よく行くはずないよね」
せっかく大吉を引いたのに、と左目は言った。
「俺に記憶が無かったら、上手くいくと思ったのか?」
「『今』よりかはマシ」
「今までの、俺と左目の関係が全部無くなっても、か?」
「『今』よりかはマシ」
「例え、俺の――左目との記憶が無くなって、関係が白紙になったところで、俺の人格は変わらないよ」
「それでも、『今』よりかはマシだよ!」
左目が声をあげる。
今まで聞いたことのない、怒鳴り声だった。
周囲を行き交うスーツ姿の人々が一斉にこっちを見た。
それでも。
それでも気にせず。
そんなこと、気にも留めず。
「千尋は何もわかってない!ほんと、何にもわかってない!あたしのことなんて、本当はどうでもいいんじゃないの!?別に何とも思ってないんじゃないの!?なんで、なんでそんなこと平気で言えるの!?」
「『今』がどれだけ大事なのか、お前こそ何もわかってないだろ!お前のやったことが――左目と千早のやったことが、どれだけ周囲に影響を与えたか、理解してないだろ!」
と。
怒鳴り返してしまう。
柄にも無く、似合わない大きな声で。
周りのことなんて、知るか。
他人を案じているにも関わらず、ではあるけれど。
左目は固執し過ぎている。
それも、異常なほど。
異様なほど、過剰に。
『今』を壊すことで、俺との関係を白紙に戻すことに。
そして――友人関係ではなく、恋人関係になることに。
「そんなこと、あたしは知らない!そんなこと、どうだっていいよ!千尋はあたしに説教するために来たの!?あたしがやった取り返しのつかない行為を責めに来たの!?もし、例えそうだったとしても、もう遅いよ!」
左目は言う。
「もう――何もかも、遅いよ……」
左目は最後に、弱々しく、力なく肩を落として俯いた。
遅い、か。
それもそうだろう。
最早、手遅れだ。
周囲を改変した現状を元に戻すことはできず、そして何より、壊れてしまった俺たち四人の関係を修復することも、できない。
あぁ、どうしてこうなってしまったんだろう。
彼女の言うように、心の底からそう思った。
「あたしは千尋と付き合いたい、ただそれだけ。そのためなら周りがどうなったって、知ったことじゃないよ。本音はそれ。千尋の知るあたしは、きっと演じてきた偽者のあたしなんだと思う」
「周りがどうなっても、俺と付き合いたい――」
「……うん」
「自分や他人、友達の環境を壊してまで――」
「……うん」
「左目、お前、おかしいよ――」
「……だね」
左目は薄っすらと笑みを浮かべる。
それがどういった意味を持つものなのか、何となく理解できた。
きっと、自己嫌悪だろう。
自分を嘲笑しているのだろう。
そして、言われるまでもなく自分がおかしいと、そう自覚しているのだろう。
「おかしいよね、あたし。いくらなんでも、教室を燃やすなんて、どうかしてるよ」
「……それも『今』を壊すためか」
猫に願った結果、無意味に周囲の環境を変えただけで、彼女の望む成果は得られなかったのだ。
言うなれば、無駄、の一言に尽きる。
余計な被害を及ぼしただけで、結局何もかもが無駄だったのだ。
だから。
だからこそ。
自らの手で『今』を変えようと。
どんな手段を用いてでも『今』を壊そうと。
そう思っての行為だったのだろう。
愛しの男子と付き合いたいために。
恋仲になりたいがために。
恋人になりたいだけのために。
本当、おかしいと思う。
そこまでする意味があるのか、と思う。
多大なリスクの割りに、リターンが小さいだろう。
けれど、これは常人の感性だ。
彼女は、違う。
左目は――違う。
付き合うためなら、どんなことでもやってのけてしまう。
まさに、彼女が言うように、他人のことなど知ったことではないのだ。
黒猫は左目と千早の行為を利己的、と表現したが、それは言い当たっていたということだ。
正直、自分の感性ではついていけない次元の話だと思った。
いや、こんなこと、一体誰が理解できるというのだ。
できるはずがない。
それはまさしく、狂った愛情。
黒くて、深い愛情。
「勿論、そんなことで何かが変わるとも思えない。けれど、あたしにして見れば、教室を燃やしたことは正解だったかも。だって、その現場、どうせ千尋のことだから確認しに行ったんでしょう?そして、あたしのことが脳裏に過ぎった」
「…………」
「それはそれで、すごい進歩だよ。今までのことを思えば、千尋があたしのことを何かから連想するなんてこと、なかったんじゃない?」
それだけ――
それだけのために、教室を燃やしたのか。
燃やし尽くしたというのか。
生徒に直接的な被害がなかったのがいいものの、それだけのために――
怪我人が出る可能性はあった。
もっと言えば、死人が出る危険性もあった。
そして実際、担任のハナハナ先生が言ったように、生徒の所有物が燃えカスになっているじゃないか。
それでも。
それでも、放火行為が正解だと――心からそう思っているのか。
「それだけのために、お前は……」
「――それだけ?」
左目が俺の言葉に眉を反応させた。
眉間に皺が寄る。
唇が歪む。
茶色の髪が乱れる。
「それだけ、ってどういうこと?」
「そんなことのために、教室を燃やしたのか、ってことだよ」
「他人なんて知ったことじゃないって?自分のためなら、自分が好きな異性と恋人になるためなら、何でもできるって?」
左目は沈黙した。
「『それだけ』のために教室を燃やしたんだろうが。『それだけ』のために無駄に周囲に悪影響を及ぼしたんだろうが。『それだけ』のために人間関係だって白紙にしたんだろうが。『それだけ』のために今までの環境をぶち壊したんだろうが。『それだけ』のために被害者を出したんだろうが。『それだけ』のために――」
それだけ。
それだけ。
それだけのために。
それだけのために。
たったそんなことのために――
「――俺はお前のことが嫌いになりそうだ」
「あははは「あははははは「あはははははははは「あははははははははは「あははははは「あははははははは「あははは「あははははははは「あははははははははは「あはは「あははは「あははははは「あはははは――」
「……お、おい、左目」
「あたしだって、もうこれが好意なのかどうか、愛情なのかどうか、そんなのわかってないんだよ!判別できないんだよ!殺したいくらいに愛しい、これって愛情なの?どうなんだろ」
「…………」
「あたしは千尋のことが好き、大好き。千尋のためだったら何でもできるくらい好き。千尋が言うなら、ここで死ぬことができるくらい好き。何度振られようが、何度拒絶されようが、それでも諦めきれないくらい好き。何度だって近づくし、幾度と無くアピールしてみせる」
千尋は――と、左目は続けて。
「あたしのこと、好き?」
と訊いたのだった。




