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『これは現実だぞ。紛れもなく、淀みもなく、歪みもなくな』
「そっか……」
『まぁ驚くことは無理もないだろう。ところで早速だが、お前の未来について話そうか』
「そっか……」
『未来について、どう思っている?』
「そっか……」
『さっきからお前は、そっか、しか言ってないぞ』
幼くも落ち着いた少女のような声だった。
けれど、それでもどこか意思がはっきりしているような、自分の意見をはっきりと言えるような力強さも感じられる声だった。
少女が背伸びしたようなものではなく、予め完成された少女が発するそれだ。
これまで一度も耳にしたことの無い、透き通った声だ。
けど――。
何だ、これ。
何で目の前で猫が喋ってるんだ。
いや厳密に言えば、別に口を開いてるわけではないが。
まるで俺の心に語りかけているような、内側に伝わるような、そんな感覚だった。
夢……。
夢だろ、これ。
夢――じゃないのか?
「当たり前だろ、猫が喋ってるとか笑い話にもならないんだけど」
夢うつつというか、夢見心地で答えた。
何だか意識が朦朧として、上手く思考できない。
開いた口が塞がらないというよりは、開いた瞳孔が塞がらないといった表現の方が比較的正しいと思ったが、どうやらそれも案外的を射ていたとは言い難い。
『別に私は笑い話をするために、ここにいるんじゃないだけど』
「じゃ何のためにいるんだよ……理解が追いつかない。大体何で猫が喋ってるんだよ」
『ただ猫の形をしているだけであって、私は猫ではないよ』
「そっか……」
未だにはっきりとしない思考の中で、眼前の黒猫をじっと見つめる。
どこからどう見ても普通の猫だ。
それ以上でも、以下でもない。
異様に毛並みの艶やかな黒猫で、虹色の眼球が浮いて見えるがそれ以外特に変わった様子でもない。
タイヤキをぺろっと平らげる姿を見ても、どう間違ったとして猫以外の何かには見えなかった。
「君は一体何だ?」
俺は問う。
一切の思考を停止して問い掛ける。
『お前の相棒だよ』
と、彼女は笑って見せた。
いや、実際には笑い声が聞こえるだけで猫は笑っていない。
歯を剥き出して笑われても、それはそれで反応に困る。
それに、想像するだけで不気味だ。
「じゃ、君はどうして俺の部屋で、どうしてタイヤキを食べて、どうして俺と会話してるんだ?」
『タイヤキはさっきお前から貰った。私はお前の相棒としてここにいる』
「タイヤキはさっきもらったって――」
『そうだ、お前がさっき私にくれたんじゃないか。最後だから、とか何とか。まぁタイヤキ食べたくらいで死にはしないけどね』
「――!」
はぁ?
はぁ?である。
タイヤキはさっき俺が公園であげた――。
猫の幽霊ってことか?
二週間前に車で跳ねられた黒猫の幽霊が俺の部屋に現れて、こうして喋ってるってことか?
確かに、そう思えば死んだはずの黒猫の姿に見えなくもない、が。
いや同じような種類の猫を、しかも一目見ただけの印象で判別できるなんて俺には不可能だ。
それに、酷い有様の死体だったのだ。
わかるはずがない。
わかるわけがない。
『あの時の猫と言えばそうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。お前が死体を埋めた場所に供えたタイヤキをこうして私が食べているのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない』
「さっきと言ってること全然違うんだが」
『だから、お前が今朝見た夢に現れた黒猫なのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない』
と、言ったのだった。
また会えたね、と彼女が吐いた台詞を思い出す。
夢の続き――。
いやしかし、これは彼女が言う通り紛れもなく現実だ。
痛覚はある。触覚も嗅覚も聴覚もある。
落ち着いて考えてみよう、と思った。
ため息にも似た深呼吸を二度吐いて、反芻する。
どうやら先までの曖昧な思考は払拭されたらしい。
何がきっかけだったとか自分でも把握しかねるが、まぁそれについては素直に喜ぶべきだろう。
これは今朝の夢が現実になった、ということなのか。
まぁそう考えてみれば、かなり現実味を帯びた夢だったように感じる。
夢の内容は明らかに非現実的だが、それはこうしていざ現実で体験してからこそ、そう感じるのかもしれなかった。
夢幻とは一体何のことなのだろうか。
誰がそんな言葉考えたんだよ。
夢で見た微かな記憶と酷似した体験を現実ですることで、以前経験したように感じるデジャブという現象、それはこの場合当てはまらないようだ。
いくら夢だったとしても、こんな非現実的な存在をデジャブしてたまるか、である。
なんて考えたところで、黒猫の正体を解き明かすることは不可能で。
どういった原理で人の言葉を話しているかという謎を解明することも不可能で。
結論、何もわからないのであった。
少なくともわかっていることは、笑い話にも冗談半分の噂話にもならないほどに、今眼前に広がる光景は圧倒的に現実だということだった。
歪みに歪んだ現実である。
『まぁ考えるだけ無駄。とりあえず、お前が今、目の前で起こっている事象を理解することができる脳味噌を所持しているという仮定をした上で、行こうか』
と、彼女が言い放った矢先――。
視力が失われた。
いや、違う――見慣れて、当たり前のように生活してきた自室が、真っ黒の世界へと一瞬にして変貌したのだ。
これは変貌というより、移行したのだと思った。
真っ暗な世界で、何も見えない世界で、立ち竦んだ。
体を動かすことができない。
萎縮して、力を入れているはずなのにどうしてか足が竦んで、頬が引き攣っている感覚があった。
視力が役に立たないせいか、全身の神経が敏感になっている。
全身の毛穴が開いて、嫌な感触の汗が滲んでいるのがわかる。
それでも。
そんな真っ黒の世界でも。
あの猫がやったことなんだ、と理解することができたのだった。
我ながら馴染むのが早い。
どうやらネジが緩んでいるせいなのだろう、左目が日頃から言うことは正鵠を射ていたというわけだ。
『ちゃんと話が終わったらまた元に戻すから心配するな。別にタイヤキみたく取って食べようとしてるわけじゃないよ。むしろ逆で私とお前はパートナーなのだから』
「ここはどこだ?」
『どこと言われても困るな。どこでもないし、名前もない。まぁ私がやったってことについては正解だよ』
「君の姿が見えない、と言うか何も見えない」
『それはそうだよ。お前は暗闇で物を見るほどの視力があるのかい?まぁこの場合視力は関係ないか。それでも私はお前を視認できるからそれで十分じゃないか』
猫目って案外便利なんだ、と彼女はそう言って見せた。
「俺には見えない。と言うか、姿が見えない相手と会話するのはどうも居心地が悪い。今まで経験したことのない感覚なんだけど」
『ふむ……ならこうしようか。とりあえずそこに座ってみろ』
言われるがままに、どこに床があるのか分からなかったが、不器用にその場に座る。
突然の命令にも素直に従う自分が驚きだったけれど、それはともかく。
舐められた。
ぺろっ、と。
ぺろぺろ、と。
手の甲を舐められた。
いや実際、何も見えない状況なので本当に舐められたかどうかは確認できないが、明らかに湿ってざらついた舌のような感覚が手を襲った。
「ひゃあ!」
『…………』
なんて、変な悲鳴をあげてしまったのは生まれて十七年で初めての経験である。
初めての経験を猫にさせられた。
そして何より、人生史上最も恥ずかしい一面だったに違いない。
『落ち着け、暴れるな。ちょっと意地悪してみただけじゃないか』
彼女は笑った。
甘い声で笑って見せた。
『暗闇で不安だろうが、悪いことはしない。信用しろ、私を』
「信用できるか!」
優しくも力強い声が聞こえたと思うと、胡坐をかいた足に少しの重みを感じる。
そして、手と腕には柔らかい毛並みの感触が伝わった。
どうやら足の上に乗ったらしい。
居心地の良い温か味。
人肌の温度と同じだと思った。
『これで見えなくても平気か?』
「そうだな……」
『どうした、別にさっきの可愛らしい悲鳴を利用してお前の弱みにつけ込もうとなんて考えていないぞ?』
「君は夢に出てきた猫なのか?」
『おいおい、突っ込めよ。まぁ概ね正解だが、間違いでもある。夢の猫と、私が猫であるという関係性は皆無だよ』
「でも君は確かにあの夢の猫だったと思う」
『夢に出てきた猫が私ではなくて、君が夢に見たのが猫だっただけさ。確かに夢に出たのは私だが、お前が夢でいやらしい少女を見たのなら私もまたそうだということさ』
いやらしい少女を夢に見る男子高校生の存在は危険過ぎるだろ。
「と言うことは、俺がたまたま夢見た君の姿が猫だったわけで、それが君の姿になったということか?」
『そういうことだね。それこそ夢幻と言ったものだ』
と、黒猫は甘い声で鳴いてみせた。
それは人の言葉を話す彼女が鳴いたのか、姿を模しているという猫が鳴いたのか判断はできなかった。
『何だ、もしかして本当に少女の夢を見たかったとでも思ってるのか?』
「少しだけ理解が追いついてきたよ。君の正体が何なのかってのは依然不明だけど、君が現実のそれではないということは理解した」
『おいおい、突っ込めよ。私の正体と言えば、神様と表現した方が正しいのかもしれないな。まぁ強ち間違ってもいないだろう。猫神様だよ』
神様、ねぇ。
何だか胡散臭い話である。
信憑性零の都市伝説みたいなものだ。
この場合、街談巷説と言ったほうがマシか。
「じゃ、神様は一体全体どうして俺のとこに現れたんだ?」
『お前の願いを叶えるため』
「…………」
『もっと具体的に言えば、お前の過去や未来、或いは現在を変えるため』
「つまり?」
『お前の未来を変えてあげよう、ってことだよ』
比喩でも何でもなく、頭上に無数のクエスチョンマークが浮かんだ。
どうやらこれは現実らしい――。