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黒猫センチメートル。  作者: 三番茶屋
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 どうやら夢だったらしい。

と、目覚まし時計の指す時刻が午前六時半だということを曖昧な思考で認識して、もう少し眠れると思った。

 

 



 夢――悪夢。

夢というのは、眠っていても脳が活動している故に見るとか何とか、詳しいことは知らないけれどそんな風にテレビで見た記憶がある。

それでも、レム睡眠というのがぐっすり眠れていないということは事実のようだった。

実際久しぶりに見た夢のせいか、気持ちの良い朝を迎えるということは出来なかったが、しかしまぁ早起きは三文の徳。

予定より三十分前に起床できたことは素直に夢のおかげ、とでも言えるのかもしれない。

 高校三年にもなって、寝坊で遅刻するなんて恥ずかしいにもほどがある。

いや、全国の寝坊で遅刻する者たちを非難するつもりはないけれど――俺の通う県立高校では遅刻者に与えられるペナルティが常軌を逸したものなのだ。

複数回の遅刻者は週に一度の全校生徒を集めた朝礼で一名ずつ名前を挙げられ、主な理由を公開される。

さらには反省文として書いた原稿用紙一枚を隅から隅まで、一言一句逃さず読み上げるというものだった。

そのせいで遅刻者の多い週になると、一限目の授業に朝礼が食い込むという事態が度々起きた。

まぁけれど、そんな無茶な校則のせいか遅刻者は激減、一週に複数回する生徒は今では殆どいなくなったわけだった。

 それもそうだろう。

高校生――大人の一歩手前だからと言って、何の処罰も無しに生徒がルールに準ずる方が難しい話だ。

厳格な規則があるからこそ生徒たちは守られ、本人が気づかない内に指導されている。

自分で考え、行動し結果を出すには、まだ幼い。

少なくとも、独立して一人で生活できるようになるまで保護者に養われ、守られ、学校という閉鎖空間で指導を受け、建設的な人間関係の構築を勉強しているのだから。

学校は社会に出るための予備知識を蓄える場所でしかない。

学校は社会に出るための予行演習する場所でしかない。

生徒の本分は学業だ、とかそんな文言は一体誰が考えたのだろうか。

多種多様な生徒の才能は何も勉学のみに発揮するとは限らないのに。

まぁ、学歴社会の世の中、優位に立つためにはそれが必要なのだろう。

しかしスポーツで輝く者もいれば、幅広いコミュティを形成して勝利する者もいる。

とは言っても、そんなことで大人から認められる生徒は極僅かで、一般的には皆学業に明け暮れて世知辛い世の中で生きるために励んでいるのだと思う。

大衆は皆、学歴社会で生活してるのだから。

 未来のため、将来のため、夢のため。

目標のためとか、理想のためとか。

よくもまぁ十代の子供が考え付くものだ、と思う。

いや、これについては違うか。

幼いからこそ夢見心地になるのだろう。幼いからこそ抱ける夢はあるのだろう。

大人になってしまえば、自分のいる現実と想像していた未来の差異が理解できる。

嫌でも理解しなくてはいけない。

その点、俺はどうなのだろうか。

未来って何だろう。将来って何だろう。

目標を決めたことが今まであっただろうか。自身が思い描く理想なんてあっただろうか。

まだ、よく理解していない。

自分の将来のことをはっきり見据えている高校生の方が少数なのかも知れないが。

およそ一年後には高校を卒業して、そのまま適応の大学に入学して、周囲と同じように就職活動して――なんて在り来たりな未来しか思い浮かばない。

何がしたいわけでもなく、むしろ何もしたくないと言った方が正しいのかも知れない。




 けれど、まぁこうして一学期中間試験――校内のエントランスに張り出された五教科総合得点順位発表を確認すれば幾らか有望な未来が待っているのかも、なんて思ってみたのだった。




「おはよう、千尋。げっ、また一位だったの?よくまぁ簡単に学年一位取れるねぇ」

 と、学級委員長である左目(ひだりめ) (おきな)が背後から言った。

 地毛だからと言って、公立高校では許されるはずがない茶色の髪はどうやら彼女だけ特別に許可されたものらしい。

生まれつきだ、と。遺伝だ、と。

劣性遺伝とでも言うのだろう、病院の診断書を持っているらしかった。

「おはよう左目、とか言うと俺の右目が眠ってるみたいだけど」

「苗字で呼ぶなって言ってるでしょ。大体、学級委員長として言わせて貰うけど、学年一位なんだからもっと自覚しなさいよ」

「自覚も何も、それだけは学年ビリの学級委員長である翁に言われたくはないな」

 それに、と俺は続ける。

「二年の最後の期末テストは二位だったしな。けれど何て言うか、学年の一位と二位が同じクラスって――お前何でこんなクラスで学級委員長やってるんだよ」

「言うな!笑うな!」

 今回の中間テスト学年二位――楽座(らくざ) 怜那(れいな)のことは詳しく知らない。

ただ単純に、高校一年の時から、顔も知らず、一位と二位を二人で独占し続けたということだけだ。

けれど、三年になってクラス替えをし、俺は初めて彼女の姿を視認したのだった。

とは言っても、それは『見た』だけであって、話すことは無かった。

そもそも彼女が他の誰かと会話している場面をまだ一度も見たことがない。

彼女が発する声も、授業中に教員に当てられて「わかりません」と言うか細いそれしか聞いたことがなかった。

休み時間だろうが登下校中だろうが、彼女はいつも一人で。

真っ白なブックカバーが印象的な何かの文庫本をいつも教室の後ろで読んでいて、中には読んで知的レベルが下がってしまいそうなマンガも購読しているようだった。

どうやらかなりの濫読(らんどく)派らしい。

彼女にとって読書というのは何でもいいのかもしれないし、そこにはある決まった共通点があるのかもしれなかった。

学校生活の大半を読書で占める彼女が時折垣間見せるたおやかな仕草と細い声のせいか、深窓の令嬢だと冗談半分に噂する者もいる。

その真意は定かではないけれど、それでも紛れも無くその立ち振る舞いはそう錯覚させるものだ。

左目とは対照的な長い黒髪は、真っ直ぐ綺麗に肩甲骨辺りまで伸びていて、艶やかだった。

けれど。

そんな絵空事のような噂とは裏腹に、文庫本を見据える鋭い眼差しを見るにどうやらやはりそれは話半分冗談半分だろうと感じる。

それもそうだ。

万が一にもそんな信憑性の無い噂が真だったとしても、少なくとも令嬢は公立高校に通ったりしないんじゃないのか。

私立高校を選択して、所謂(いわゆる)お嬢様学校にでも入学するべきだろう。

いや、決め付けはよくないが。

 俺は教室に入って自分の席についた後、朝礼が始まるまでの間、そんなことを(うつつ)に考えていた。

真横で無表情に読書する彼女を見て。どうやら今日はマンガを読んでいるようだ。

少年向けの週刊誌に掲載されているギャグ漫画だった。

「………」

 それにしても、睫毛が長い。

多少の化粧はしているみたいだけれど、それにしても長い。

しかも毛量が多い。

薄い唇は艶があって、水々しい。

にきびのない綺麗な肌はやけに白くて、透明感に溢れていた。

 少しだけ。

ほんの少しだけ、胸が高鳴った。

チャイムの音で一瞬にして忘れさせれた程度の鼓動だったけれど。



        ◆



 テストでどれだけ一位を取ろうが、スポーツで優秀な成績を残そうが、もっと言えばどれだけ勉強が苦手だろうが、スポーツが苦手だろうが、校内においては皆同じ生活を送っていて、惰性(だせい)で過ごしてる生徒が大半を占めている。

得手不得手(えてふえて)関係なく、一つの共同体として同じ空間に存在し、同じ一瞬を経験している。

科別に分かれているクラスとは言え、どれだけ能力の差があろうとなかろうと、同様の授業を受け平等な指導を受ける。

形成されたコミュニティは幾らかに分類されるものの、どれを取って見ても過ごす時間は同じだ。

けれど一つ違うと言えば、一つの大きな団体として――共同体として日常生活を送る彼らは各々が持つ未来が異なる。

教室の隅で気の合う仲間同士で盛り上がる彼らもまた、一人一人違う未来を持ち、違う夢を抱いている。

大人しく次の授業のために予習している彼女らもまた、そうだ。

目標も多種多様で、多義に渡る。

言ってしまえば、共同体としてはばらばらなのかもしれない。

同じ意思の集合体、ではない。同じ未来を目指す集合体、でもない。

ただそこにあるのは、学校という全貌が掴めないほどの巨大な閉鎖的コミュニティの内に存在する一つの集合体、ということのなのだろう。

一人の生徒、ではなく一つの生徒。

 そう考えれば、まるで学校に踊らされているかのような錯覚に陥る。

義務教育過程ではないのだ。けれどそれなら言いえて妙なのかもしれない。

高校生とは、立派な大人なのかもしれない、と思った。

社会に出るための予行演習のつもりが、本番だったのかもしれない、と改める。

 とは言っても社会に発つには十代は早すぎる、か。

テレビで見る十代のトップアスリートなんかを見ると、本当に才能が恐ろしい。

学年一位を取る成績なんてそれに比べれば屁でもない。

ある程度の能力があれば、あとは記憶するだけなのだから。

国語や古典は読解パターンを覚えるだけ。

数学は解き方を覚えるだけ。

地理、社会、世界史は単純に記憶するだけ。

英語は語彙(ごい)、文法を覚えるだけ。

理科も同様。

記憶力と読解能力があるだけで、勉学においては優秀な成績を残すことができる。



だからこそ――。

だからこそなのか、大人になると今まで躍起(やっき)に勉強してきたことが薄れ、忘却していくのだろう。

 それは。

学生時代に夢見てきたことをも忘却するのと同義なのかもしれない。



「千尋、今日も寄って行く?」

「あぁ…そうだな。今日で最後にする」

「ふぅん?」

 考えてみれば、こうして左目と会話することを当然のようにしているけれど、実際他から見れば少々歪な光景だ。

『好きです、付き合ってください』と。

去年末、俺に告白してきた左目は泣いた。

ぼろぼろ、と。ぼろぼろ、と。

雨の日だったと思う。

大雨にも負けない大粒の雫をはっきりと涙と捉えることができた。

それから数週間、彼女は顔も合わせなくなってしまったけれど――何を契機にそうなったかは知らないけれど、以前通り普段通りにこうして会話してくるようになった。

彼女の中で『何か』が吹っ切れたのかもしれないし、そうではないのかもしれないが。

それでも、本音は良かったと思う。

仲の良い友人の一人として捉えていた彼女との他愛の無い会話。

居心地は良い。

あの時、もしも恋人同士の関係になっていれば、どうなっていたのだろうか。

なんて。

そんなこと考えるだけで無駄だろう。

なにせ、一つの未来を消したのだから。俺は彼女の一つの未来を消したのだから。

消えたと言えば、俺の場合もそうなのだけど。

「どうして今日が最後なの?もう二週間くらい毎日通ってたのに」

 厳格な規則がある高校に属しているとは言え、中学校のように稚拙(ちせつ)なものではない。

厳密には遅刻には厳しいだけで、逆に言うとそれ以外は他の公立高校と比べ比較的自由だった。

だからこうして下校中にタイヤキを食べても、何も問題はなかった。

いや、あるとするなら。

餡子(あんこ)とカスタードクリーム、チョコレートの三種類の味をそれぞれ五個ずつ購入したことだ。

「何となく、かな。気分って感じ。正直、今までが異常だったんじゃないか?別にそこまで俺たちがする必要じゃないし。少なくとも俺たちがしてあげられることはやったって」

「そうだけど…」

 左目は少し悲しそうな、寂しそうな表情を見せたが、甘いタイヤキを頬張ることでそれは一瞬に消えた。

女子は甘いものが好きだと言うが、それにしても食べすぎだ。

「あぁ!何だこれ、尻尾に全然餡子入ってないぞ」

「千尋、タイヤキの尻尾が何のためにあるのか知ってる?」

「それは鯛には何で尾びれがあるのか、って意味か?」

 左目はそこで快活に笑って見せた。

何だか小馬鹿にされた気分だったけれど、まぁ彼女が楽しいのならそれで良いか。

「タイヤキの尻尾って口直しにするためにあるんだって。最後まで甘いと食べ終わった後、口の中が甘々しちゃうでしょ」

 甘々ねぇ…。

その言葉にはわざわざ突っ込みを入れるほどじゃないか。

まぁ納得できなくもないが。

いや――

「それってさ、ただの経営戦略じゃねぇの?やっぱ一番コストが掛かるのって生地より中身だろ。そうやって良いように(うた)っておけば悪い印象受けなくて済むし」

「ひねくれ過ぎ……」

 左目は餡子の入っていない尻尾を(くわ)えて嘆息した。

大のタイヤキ好きからすれば、今の発言は非難轟々なのかもしれなかった。

「しかも、それ言うなら左目は最後まで甘い方が良いんじゃないのか?甘いもの好きだろ。いや、左目が最後まで甘いとか食べたことないからわからないけど」

「だから苗字で呼ぶな!眼球が甘いのか、あたしが甘いっていうセクハラ発言なのかややこしい!」

「いや、どっちも不正解なんだけど…」

「わかってる!」

 的を得ていた発言だったのか、左目は味気の無い尻尾を不満そうに咀嚼(そしゃく)した。

 そんな馬鹿げた会話をしながら、徒歩およそ十五分。

見慣れた公園に左目と一緒に足を踏み入れる。

広大な土地だ。

公営の公園というのは、どれも莫大な維持費が掛かりそうなほど巨大だが、それを言うなら私営でこれほどの公園を維持することは困難だろう。

夏に向けてか、所々に真緑の葉をぶら下げた木々が多量に植えられている。

およそ中央広場とでも言えるべき場所には子供から大人まで、さらにはカップルと、様々な人が集まる噴水がある。

夜になると、ライトで照らされたそれは、県内有数の名スポットらしい。

近くに住んでいるというのに、まだそれを一度も見たことが無い上での『らしい』だ。

多数のカップルが連日連夜やって来るらしいから、簡単に一人で見に行こうという気にはなれなかった。

いや、カップルが来なかったとしても、行く気にはならないんだけど。

それを言うなら、こうして左目を隣にそんなスポットを歩いていれば、他から見るとカップルに見えるだろう。

まぁ他人がどう思おうが、どう見られようが、一生無縁に違いない人のことを逐一気にかけていたら精神が擦り切れてしまう。

 噴水で遊んでいる子供を微笑みながら見守る家族も、側のベンチに座って仲睦まじく話すカップルも、犬を連れて散歩する老人も、ランニングに励む体格の良い青年も、皆違う未来を見て、違う夢を抱いているのだろう。

けれど、共通して。

俺たちも同様に彼らと共通して、目的は違えど、同じ場所で同じ時間を過ごしているのだ。

『何か』を夢みて――。


「さっき気分だって言ったけどさ」

「あぁ、今日でもう終わりって話の続き?」

「そうそう。まぁ変な話になるけれど、今朝夢見て思ったんだよ」

 噴水のある広場を真っ直ぐ抜けて、生い茂る木々の隙間を縫うように歩く。

コンクリートで舗装された道から外れているせいか、周囲の目線が少し気になった。

「夢?」

「まぁ言っても訳わかんないし内容は伏せるけど、猫を好きになる夢だった」

「なにそれ」

 左目はくすっと微笑んだ後、神妙な表情をして見せた。

どうしてだろう、と思った。

けれどそんな素朴な疑問をわざわざぶつけることはなく、俺たちはある一本の木の前に立つ。

周りのそれらと比べれば少し痩せた木だ。

概ね、隣に植えられた樹木の枝葉のせいで上手く光合成が出来ないでいるのだろう。

まぁしかし、木漏れ日がこれほど射しているのなら、余計な心配なのかもしれなかった。

「あ、キャットフード持って来るの忘れた」

「えー、最後の最後で忘れ物とか。千尋はいつもどこかのネジが緩んでるよね」

「おいおい、それ言うなら左目のネジはいつも抜けっぱなしだろ。左目にネジなんか入ってたら人間じゃないけどな」

「あのね、それ結構傷つくんだから。あたしはこの変な苗字好きじゃない!」

「そうか?俺はかなり好きだよ」

「面白いからでしょう?」

「それもある」

「それ『も』ある?」

「いや、『しか』ない」

「ふっざけんな!!」

 左目は持っていたタイヤキの袋から一つ取り出し、投げつけた。

まったく、食べ物を粗末にしやがって。

なんて。

予想通りの展開だったので、俺はそれを上手く受け止める。

どうやらもうすでに冷めたようだった。

残ったタイヤキはきっと左目が持って帰ってまた夜にでもまた食べるのだろう。

 そんな冷めたカスタードクリーム味のタイヤキを木の根元にそっと置く。

置いて。

置いて――両手を合わせて目を瞑った。

黙祷(もくとう)だ。

拝み、黙祷を捧げながら、もうこれで最後だよ、と心の中でそう伝えた。

伝わっているかどうかは誰にもわからないけれど、そう何度も何度も呪文のように唱えた。

左目も上手くスカートの裾を使って下着が見えないようにしてから、隣にしゃがみ込む。

同様に手を合わせて、黙祷して。



「…………」



 二週間ほど前のことだ。

それを思い返せば、あれから十四日も経過したんだな、と感傷的になりそうだった。

これで十五回目の参拝だ。

 下校中に一匹の黒猫が車に跳ねられてから十五日目だ。

今でも鮮明に想起できるが、死体は表現できないほど無残なものだった。

それでも、それを目の当たりにした俺と左目はこうして近くの公園に埋めてあげた。

それに意味があったとは言えないかもしれない。

だけど、そんな行動の理由は別に善人行為でも何でもなく、現場を目撃した誰もが見て見ぬ振りをしていたからにある。

誰も死んだ猫に駆け寄ろうとはしなかった。

『もの』を見るような目で通り過ぎるのだった。

結果的にそれは善人的行為だったように見えるのかもしれないけれど、実際は居た堪れなくなって、哀れみで耐え切れなくなって取った行動に過ぎない。

 同情した。

無残に命を散らした猫にも、それを見て何も感じない大人にも。

そして何より、取った行動と裏腹な自分の心境に。

死んだ猫は恐らく野良猫なのだろうが妙に毛並みが艶やかだった記憶がある。

まぁそれも、殆どが血に浸っていたせいで、見るに耐えない様だったけれど。

 野良猫が交通事故で死んだからと言って、こうしてわざわざ二週間、毎日欠かさず拝みに来ている理由は主に左目にあった。

彼女は良い意味でも悪い意味でも素直だ。

そしてたちの悪いことに、非常に思い込みの激しい人間でもある。

そんな素直な彼女が――。

あたしの気が治まるまで付き合って欲しい、と。

そう言い出したのだった。

それについて俺は特に反論しなかったが、内心は野良猫のために何故そこまでする必要があるのかと常に疑問に思っていた。

実際、およそ二週間にも渡って、こうして手を合わせていると最早惰性になってきて、そんな疑問すらどうでも良くなっていたが。



「今日は最後だからタイヤキだな」

「自分の忘れ物を棚に上げて良いように言ったところで、猫にタイヤキなんて食べさせたら死んじゃうかも知れないでしょ」

「猫は魚好きだけどね」

 長い長い黙祷を終えて左目が立ち上がる。

どうやら少し泣いているようだった。『左目』が赤く充血していた。

あの時のように――。

年末のあの時と同じように――涙を薄らと浮かべていた。

呆気に取られた俺の表情見て察したのか、左目は自分の涙に気づいて、ごしごしと力強くブレザーの袖でそれを拭う。

「…………」

「千尋、帰り送ってけ」

「はいはい……」

 俺は左目の肩に二度活を入れて歩き出す。

 特に名残惜しいとは思わなかった。

感慨深いとも、センチメンタルになることもなかった。

 後ろを振り返らず、来た道を戻るだけだ。

 左目はもうすでに泣き止んだようで、普段の笑顔を取り戻したみたいだった。

まったく、笑顔だけ見れば能天気な奴だと思う。

まぁそんなはずはなく、彼女また色々と抱えるものがあるのだろう。

 他人事のように聞こえるかもしれないが、実際それは他人事だ。

誰かが何を思おうと知らないことは知らない。

無知の相手に自分の抱えた『何か』を察してくれ、なんて無責任だろう。

 想像のつかない未来。

わからない。

 自分の将来。

わからない。

そんな俺が、他人の未来をどうこう思えるはずがない――。



        ◆



 別れを惜しむせいか、延々と家の前で長話をする左目を振り切って、自宅の部屋に戻って息をつくはずだった。

しかしどうやら現実は上手くいかないようで、息をつくどころかもう二度と呼吸が出来ないんじゃないかと思えるほどの驚愕を受けたのだった。

自宅の部屋で。

紛れもない俺の部屋で――。

タイヤキを頭から銜えた黒猫が一匹、ベットの上に座っていた。

虹色の眼球に口を開けた自分の姿が映る。



『また会えたね。私は信じていたよ』



どうやらこれは、夢の続きらしい――。



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