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私がどうやら現実離れした『現実』に身を投じているらしいと、実感したのは白い猫と出遭ったあの日だ。
けれど、自分のことなのにどこか他人事のようで、まるで第三者から自分を見つめているような気分だった。
観測者とでも言えば妙だが、それでも現状を認識するのに戸惑いはなかったのだ。
だからこうして、気味の悪い夢を見て、たちの悪い現実を概ね理解できた。
あぁそういうことか、と。
これもまた他人事のように。
「はぁ……」
と一人取り残された自室でため息を吐いた。
そんなため息は、酷く焦った様子で血相を変えて飛び出した彼に対する嫉妬心から来るものだったのかもしれない。
わざわざ口実を作って部屋に招いたと言うのに、全く。
部屋に男子を入れたのは初めてだったと言うのに、全く。
そもそもどうして私が取り残されただけでこんなにも焦燥感に駆られなければならないのか。
これを恋愛感情と表現して強ち間違いではないのかもしれない。
恋愛。
恋愛。
恋愛。
けれどそうは言っても、彼と恋人同士になりたいとか、手を繋ぎたいとか、そんな願望は抱いていないのだ。
それはまるで憧憬に似た――憧れのような気持ちだと思う。
テストで競い合う間柄として、同じ境遇同士として。
そんな身近に感じる距離にいる彼がこんなにも遠く見えるのは多分そういうことなのだろう。
憧憬が恋愛感情の始まり、なんて言ってしまえば元も子もないけれど。
彼が誰かと付き合うのは嫌だし、誰かの特別な存在になるのも嫌だ。
唯一無二の、唯独りの憧憬対象として、私は存在して欲しいと彼に願っていることは確かなのだ。
恋愛感情に酷似しているが――例えれば、アイドルのファンのような。
アイドルに心酔したファンのような。
さながらそんな感覚なのだろう。
まぁ、無愛想な彼がアイドルになれるはずがないが――それならそれで、私としては結果オーライ、怪我の功名というわけだ。
いや、彼がアイドルになれないことが『怪我』で『失敗』だとすれば、そんな対象に憧憬を抱く自分が嫌になってしまいそうだけれど。
なるほど憧憬と嫌悪は紙一重なにかもしれない。
なんて。
私は彼が飛び出した後、少ししてから同じように家を出た。
自己誇示をするような大層な門扉を開けて。
「いってきます」
と言った。
別に彼の後を追うつもりではない。
つもりではないが、まぁ私もこの謎めいた現象の解決を図るとしよう。
他人に貢献するほど、心に余裕があるわけじゃないけれど。
少なくとも今の内は――。
◆
ところで、どうして私が公立高校に通っているかと言うと、単純に学歴社会の構造を理解しているからである。
と言うのも、最終学歴が重要であって、大学を将来に据える私にとって高校はどこでもよかったのだ。
まぁどこでも、と言えば語弊があるけれど。
勉強ならどこの学校でもできるし、それで満足できないなら自習するなり予備校に通えばいいのだ。
彼はどうして私が進学校に入学しなかったのか疑問に思っていたようだけれど、大仰な理由は無いに等しい。
それこそ大袈裟と捉えられるかもしれないが、そういうことなのだ。
将来についてはまだ何も考えていない。
模索しているというわけではなく、何も思いつかないとした方が正しい。
取り合えずの学歴。
取り合えずの学習。
徒労に終わるだろうが、少なくともやっておいて損はないだろうということだ。
あくまで保険。
あくまで担保。
あくまで投資。
しかし、これもまた大仰な理由がないとすれば、一体私は何を理由に生きているのかという疑問を抱かざるを得ない。
けれどある。
確固たる生きる理由はある。
「いらっしゃい、お姉ちゃん」
「そこはおかえりの方が良いかな」
病院の一室。
そこに収容された怜也が力なく笑った。
長い入院生活のせいで白くなった肌は、病に臥せていることもあり余計に蒼白だった。
日焼けには細心の注意を払い、念入りにクリームを塗る私よりも白い。
きっと女子からすれば誰もが羨むだろう際立った白さだ。
それは単純に白さ――蒼白だということだけで、しかしこれはきっと誰もが羨まないであろう病態だった。
誰も半永久的に、寝たきりの人生など羨ましいとも妬ましいとも思わないだろう。
もっと言えば、いつ訪れるか分からない死をただじっと待つなんて――。
「今日は体調が良さそうで何より。林檎剥こうか?」
「んー、今はいいかな。それよりお姉ちゃん、ここ数日お見舞い来てくれなかったから寂しかったよ」
こうして昼夜問わず空いた時間をお見舞いに費やして、もう六年ほどになる。
六年と言えば、小学生が中学生になるほどの長い時間だ。
最早惰性になりつつある。
出生して六年、重い病気に囚われ。
そしてまた六年、暗い病室に囚われ。
物心の無い幼少期を六年に含まなければ、実質弟の闘病生活は人生の半分以上を占めるものだ。
どんな気持ちなのだろう、と。
どんな気持ちなのだろう、と。
家族ではあるが、分からないことも多い。
けれど、『人生の半分以上』を病室で過ごす怜也は決して後ろめたいことを口に出さなかった。
きっと言いたいことが山ほどあるはずなのに。
自己嫌悪に陥って、全てが妬ましいと思えるはずのに。
健全な姉が妬ましいと思えるはずなのに。
「で、お姉ちゃんが来てくれない間に色々検査があって、安定してるからようやく来月から海外で治療を受けれるって。だからそれまでに少しでもお姉ちゃんと話したいから通ってよ」
と怜也が微笑んだ。
「……そう」
「なんだよー、離れ離れになるのは寂しいけど治ったら一緒に生活できるんだからもっと喜ぶべきでしょ!」
「……そうだね」
「喜べー!!」
吉報なのだろう。
胸躍るほど喜ばしいことなのだろう。
きっと姉である私に報告すれば笑ってくれるのだろう、と思ったに違いない。
けれど歓喜できるはずがない。
怜也は知らないのだから。
家族の意向で最低限希望を持たせてあげて欲しいと担当医に伝えてあるのだから。
弟は残り僅かの余命を知らない――。
十二歳には過酷な現実。
受け入れるはずがない。
周囲の意見はどうあれ、弟に現実を直視させるべきだという声もある。
自分の置いている現状を知る権利が本人にあるという声だ。
家族で言えば、それを発信するのは父親だった。
「男なのだから」と古風な思考回路故、だろう。
結局、私と母親の反対によって断念したようだったが、はたしてどうなのだろうか。
これに関しては意見が真っ二つに両断されるだろう。
けれど私は、未来に希望を持たせてあげたいと思う。
本来無いはずの見えない未来を最期まで見て欲しいと思う。
だからこそ私は――。
「じゃぁ、怜也の病気が治ったら一緒に遊びに行こう。紹介したい友達もいるから」
「おう!……って、もしかしてお姉ちゃん彼氏できたの?」
「彼氏じゃないよ。友達」
「何でお姉ちゃんの友達を紹介して貰わなくちゃいけないんだよ!絶対変じゃん、その友達も絶対変に思うじゃん」
「大丈夫。その友達自体、変だから」
「変な友達紹介するなよ!」
病室に笑い声が響いた。
珍しく怜也は力強く笑顔を見せる。
私の笑い声はと言うと、病人である弟にすら負けるか細いものだった。
明るく振舞おうと、頭では理解しているが中々難しい。
「まぁ向こうで入院してる間には彼氏くらい作った方がいいと思う。もう高校三年だよ?今までそんなの一人もいなかったじゃん。と言うか男と遊んでるとこ見たことないし」
「中学生に言われたくない。それに入院してるのにどうやって見るのよ」
「……お姉ちゃんの将来が心配だ」
「……自分の心配しなさい」
「はいはーい」
「林檎持ってきたんだし、食べて」
「はいはーい」
全く、可愛い弟だ。
目に入れても痛くないとはこのことだろう。
「はい、は千回ね」
「喉が潰れる!まさにハイリスク!」
こんな『今』がいつまでも続けばいいのに、と思った。
でも続くはずがないと分かっていた。
希望を抱く弟をよそ目に、姉に希望がないなんて。
そう言うなら、私の希望を怜也に押し付けているのかもしれなかった。
押し付けがましくも。
姉、失格だ。
こんなにも弟が愛しいのに。




