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場所は変わり、楽座の自室である。
紛れもなく、淀みもなく、歪みもなく、楽座家そのものである。
彼女の後を付いて招き入れられた部屋は、女の子らしいと言えばそうなのかも知れないが、けれどどこか殺風景だった。
物が割りと少ないというか、整頓され過ぎているというか。
収納のし過ぎというか。
そんな印象を受けた。
豪邸が並ぶ大層な住宅街の一角に、他に劣らない程巨大な門扉を構えているのが彼女の住居で、そんな屋敷のような豪邸を見るのは壮観だったが、何より彼女が深窓の令嬢という噂半分冗談半分に囁かれていたことが正鵠を射ていたということに驚いた。
確かに楽座の仕草や物言いは、そう錯覚させるには十分なものだった。
けれど身近に感じていたせいか、『そういうものなんだ』と納得していた。
まぁともかく。
冗談半分、絵空事のような噂でも案外的確なのかもしれない。
今後の情勢判断だって、噂に一任してもいいかもしれない。
なんて。
どうやら両親は不在なようで、楽座は自らお茶とお菓子を用意して、自室に運んできた。
同年代の女の子の部屋に這入るのは初めてのことではなかったが、しかしやはり緊張する。
物が少ないせいで、余計に広く感じる空間が妙に落ち着かなかった。
「で、それは一体どういう意味だ?」
「先に言った通り、左目さんとあなたの関係は既にない。いや、峰くんとの関係は消えたと言っていいのかも」
一体全体どうして、わざわざ楽座の家にお邪魔することになったかと言うと、平日の朝から制服を着た男子と私服の女子が悠然と闊歩するのは良くないという、まとも過ぎる発案をした楽座によるものだった。
着替えを持っているはずはなく。
自宅に帰ることもできず。
まして、何処かでゆっくりすることもできず。
まぁ実際、一人の男子高校生が制服姿で学校をサボったところで、何か重大な問題に発展するとは思えないが。
それならば、楽座に判断を委ねたことは間違いだったのかもしれない。
「だから、その意味が――」
「夢は見た?」
遮るよう。
背筋を綺麗に伸ばして正座した彼女が、湯気の昇る紅茶を啜りながら言う。
「……夢?」
「夢、今日の夢。今日見た夢――どんな夢だった?」
「あぁ、えっと――男と女が」
「そう、どんな男だった?どんな女だった?」
「…………」
何が言いたいのか、さっぱり理解できなかった。
凄みを増して言う楽座に少し気落ちしながら言う。
「男みたいな女、女みたいな男――千早みたいな」
そう。
曖昧な人物像。
けれど、確かに千早と言われればそうなのかもしれない。
そうなのかもしれないが、断定こそできなかった。
「私が見た夢も同じだと思う――女の子の姿をした峰くんが男の子の姿をした自分の首を絞めていた」
楽座は続ける。
彼女が見た夢とは差異があるようだったけれど、ここではあえて沈黙した。
野暮な突っ込みはしない。
「そして、今朝目を覚まして気づいたんだけれど――」
「前に四人で買い物に行ったとき――私があなたに連れられて、初めて左目さんと峰くんと遊びに出かけたあの日――携帯で撮った写真が無くなっていた」
正確には、と。
「写真そのものは存在するけど、そこに写っているのは私とあなただけだった――」
それは突拍子の無い、疑わしい物言いだった。
それでも真剣な眼差しで、淡々と、彼女はさらに続ける。
「もっと言えば、昨日の放課後に左目さんに貸したはずのノートがいつの間にか私の手元に返ってきてた」
「もっと言えば、峰くんから貰ったラブレターが無くなっていた」
「……ラブ――」
ラブレターじゃなくて、嫉妬に塗れた恨み辛みの手紙のような気もするが。
と内心で彼女の自尊心からくるものであろう嘘に突っ込みを入れた。
「――もっと言えば、私の中から、どうしてか左目さんと峰くんの『全て』が消えた。もしかして、気づいていないの?」
わからない。
わからない。わからない。
楽座が何を言っているのか理解できなかった。
それもそうだろう。
唐突に夢の話をして、そして突然左目と千早が消えた話をして。
楽座はとうに今自分が身を投じている状況を飲み込んでいるようだったが、俺はそうではない。
いくら、テストの成績で学年の首位を対等に争うとは言っても、理解力が同等ということではない。
多少なりと、読解力に自信のある自分でも、彼女の言う言葉のおよそ半分も理解できていないのだ。
楽座の言葉はまさに『晴天の霹靂』と言っていいほどの衝撃を与えたのだった。
しかし、そんな場でも思考を続ける自分を客観的に見れば、それは頭が良いとか勉強ができるだとか、そんなものに起因することではなく、単純解明な性格所以だろう。
過去にひねくれ者と左目に蔑まれたことがあったが、強ちそれも間違いではない。
だが純粋に素直が故、ひねくれ者と見られるのだろう。
だから。
だからこそ、思考を続けて。
俺は携帯をそっと取り出す。
生憎、携帯を用いて彼らを撮影したことはないが――。
楽座の言うことを証明するには他の方法だってあるのだ。
例えば、それが『アドレス帳に登録されてあるはずの、彼らの連絡先』だとしても間違いではない。
そう。
は行ま行に分類された連絡先を数回確認して、念のために名前入力で検索をして――そして、沈黙して携帯を閉じた。
楽座の言葉は、間違いではなく、間違いではなかった。
にわかに信じ難い、『荒唐無稽』な話だったがどうやら本当のことらしい。
そして、『荒唐無稽』が口を開く。
『何だ、気づかなかったのか。既に変わったよ、お前の知る『過去』は既に失われた』と――。
◆
楽座の家を飛び出して、母親からの叱咤を黙殺しつつ自室に戻って確認する。
何らかの不良でアドレス帳から二人の連絡先が消失したという可能性に期待するため――ではない。
そんな淡い希望なんて、猫の出現から現状を辿ってきた身で抱けるはずがなかった。
逆に言えば、『偶然の携帯の故障によって偶然にも二人の連絡先が消失した』という可能性を『零』にするためだ。
だからこうして、自室に戻って、一昨日千早から貰ったふざけた一冊の本が無いことを確認して呟く。
「……ボーイズラブは――現実はおろか本でも展開されなくなった」
なんて。
不思議と混乱はしなかった。
特に深く考えはせず、むしろこの現状を『そういうことなのか』と納得していた。
焦燥に駆られることもなければ、まるで他人事のように『それ』を受け入れた。
最初に気づくはずだった――左目から貰ったストラップが携帯に付いていないことに気づいたのはもう少し後のことである。




